多摩と新選組
平成16年度 地域資料展
多摩と新選組 解説
はじめに
近藤勇・土方歳三・沖田総司をはじめとして、多摩は多くの新選組隊士を輩出しました。このため、多摩の各所に伝わる古文書には新選組に関連するものが散見されます。 この解説文では、これらの記録に焦点を絞り、多摩に残る新選組関連の古文書にはどのようなものがあり、それがどこで閲覧できるかを簡単にご紹介しています。新選組に親しまれている方、本格的に新選組のことを研究しようと考えている方は是非これらの古文書・古記録に当たって知識を深めていただきたいと思います。
(注)文中の〈原〉は原本の所在を、〈活〉は原本を解読して活字に読み下したものが掲載されているものの書名を、〈写〉は原本を写真撮影したものが掲載されているものの書名を、〈関〉はこのことについて関連事項が記載されているものの書名を表します。また、正式な書名等は参考文献の欄をご覧下さい
一.隊士の多摩における存在・活動の記録
近藤勇 (1834年~1868年)
近藤勇は上石原村(現調布市)の中農宮川家に生まれました。母親は廻り田新田(現小平市回田町)山田家から嫁いで来た人で名前をゑいと言います。天然理心流宗家で浪人の近藤家に養子に行き、文久元年、多摩地域の後援者の承認と資金援助を得て宗家を相続しました。
「今日於府中松本楼近藤勇四代目相続披露ニ付明太郎同道ニ而出席六所宮境内ニ而板割野試合興行夕方帰ル」
「今日近藤勇試衛場英続講世話人日野宿玉屋方江集会宝雪庵同道盛事方江行右相続講壱口壱両掛連衆百人講之趣仕方相立同夜日野天狗堂江一泊」
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(01)廻り田新田宗門人別帳(文化十二(1815)年)【〈原〉小平市個人蔵 〈写〉 山田家文書4
 P347 〈関〉 山田家文書目録
  P72 】 - 先述したとおり、近藤勇の実の母親ゑいは小平市の山田家出身です。文化十二年(1815年)の宗門人別帳には勇の母親「ゑい」の名前があります。
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(02)廻り田新田宗門人別帳(文化十三(1816)年)【〈原〉小平市個人蔵 〈写〉 斉藤家文書44
  P285】 - 文化十三年(1816年)の宗門人別帳です。「ゑい」の名前がなくなっており、文化十二年から文化十三年の間に「ゑい」は宮川家に嫁いだものと推測されます。
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(03)上石原村宗門人別帳(天保九(1838)年)【〈原〉調布市個人蔵 〈写〉江戸博図録 P38】
 - 勝五郎(勇の幼名)の名前が掲載されています。
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(04)近藤勇養子縁組状(嘉永二(1849)年)【〈原〉調布市個人蔵 〈写〉江戸博図録 P38】
 - 近藤勇が天然理心流宗家3代目近藤周助と養子縁組をした時の縁組状です。この一連の手続きを経て、百姓宮川勝五郎は武士近藤勇になります。また、近藤家は苗字を記し他の関係者は名前のみを記している点も注目です。
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(05)冨澤日記 文久元(1861)年八月二七日【〈原〉国文学研究資料館史料館 〈活〉農民の日記
  P92】 - 冨澤日記とは連光寺村の名主であった冨澤政恕(まさひろ)が記した日記です。天然理心流の門人であり、近藤勇と深いつながりがありました。彼の日記には近藤や土方のことが多く記されています。
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(06)冨澤日記 文久元(1861)年一〇月三日【〈原〉国文学研究資料館史料館 〈活〉農民の日記
  P96 〈関〉新選組情報館
 P45】 - 試衛場英続講とは試衛館のスポンサーが資金援助のために結成した講だと考えられます。近藤勇は多摩の人々の経済的バックアップを受けて宗家四代目を襲名したことがわかります。
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(07)佐藤彦五郎日記【〈原〉日野市個人蔵 〈活〉日野宿図録(抄) P39~】
 - 佐藤彦五郎は日野の名主で、土方歳三の義理の兄にあたります。天然理心流を学び、近藤らが京都へ上ってからも、近藤勇や新選組を物心両面 から支援しました。佐藤彦五郎日記は安政四年(1857)~明治二年(1869) まで佐藤彦五郎が公私にわたって記した日記の一部で、最近になって発見されたものです。近藤や土方ら新選組の隊士のことが多く記されています。
 
土方歳三 (1835年~1869年)
土方歳三は石田村(現日野市石田)の農家土方隼人の四男として生まれました。すぐ上の姉のぶは日野の名主佐藤彦五郎に嫁いだため、佐藤彦五郎とは早くから親交がありました。天然理心流に入門した時期は小島鹿之助が著した「両雄士伝」によると嘉永四年(1851)となっていますが、三鷹市竜源寺の神文帳(入門時にその流派に従うことを誓った血判状)の日付では安政六年(1859)年三月九日となっています。
「老母今日帰宅、年蔵来、為吉府中辺代診」「近藤勇石田年蔵来」「老母東朔日ノ石田ノ年蔵病気ニ付、日ノ佐藤へ行」など- 
	
(09)覚庵日記(万延元年~文久二年) 【〈原〉国立市個人蔵 〈活〉本田覚庵日記
 〈関〉多摩と江戸 
 P288 : 江戸の村医者 
 P92】 - 本多覚庵とは谷保村(現国立市谷保)の村役人です。彼は歳三の親戚であり、医者や書家でもありました。彼の日記には近藤勇と石田年蔵(歳三)のことが随所に出てきます。
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(10)武術英名録【〈原〉町田市小島資料館蔵 〈写〉江戸博図録 P39 〈関〉武術天然理心流 上
 P137】 - 武術英名録とは真田範之介が編んだ関東八カ国と甲斐の一部の剣術武芸者一覧です。土方歳三が天然理心流の免許受けたという記録はありませんが、英名録に「天然理心流土方歳三」の名前が載っていることからすれば、土方も相当な腕前であったと推測されます。
 
沖田総司 (1842?年~1867年)
幼名惣次郎。天然理心流宗家3代目 近藤周助の内弟子(通いではなく、住み込みで働く弟子)となり、近藤勇・土方歳三と知り合います。剣術は相当な腕前で、近藤周助のかわりに多摩へ稽古によく現れました。
「昼頃江戸市ヶ谷柳町近藤周助使 沖田惣治郎来ル右は周助儀老衰およひ養子勇メ`に相続為致候ニ付不相替引立呉候様且右披旁来ル廿七日府中松本屋江集会之上六所宮地内ニ而野試合調練致候間出席致し呉候様進物弐品相添書状持参」
「近藤勇先生門人沖田惣次郎殿、 当十三日より道助方へ代稽古被罷出居候処、是又麻疹体ニ付、門人佐十郎布田宿迄馬ニ而送行、症之軽重不相分、此人剣術者晩年必名人ニ至る可き人也、故ニ我等深心配いたす」
「十六日近藤勇江銕衣を貸ス、土方歳三江昨日一刀を貸ス」「十七日 近藤勇門人山南啓助・澳田惣次来ル」「十八日恩田江清河八郎一件申送る」
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(11)冨澤日記 万延二(1861)年八月二〇日【〈原〉国立史料館蔵 〈活〉農民の日記
 P92】 - 
	
(12)小島日記 文久二(1862)年七月一五日【〈原〉町田市小島資料館蔵 〈活〉小島日記 〈写〉〈活〉小島資料館目録
 P30 〈写〉江戸博図録 P42】 - 小島日記とは小野路村の名主であった小島政則・鹿之助が父子2代にわたって天保七(1836)年から表した日記です。右の日記では沖田がはしかに罹ったこと、沖田は将来きっと剣の名人になるであろうから病気に罹ったことはとても心配であることなどが記載されています。
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(13)小島日記 文久三年正月【〈原〉町田市小島資料館蔵 〈活〉小島日記28巻
 P16】 - この辺りの日記には、近藤らの上京の経緯が書かれています。幕府の浪士募集情報を得た試衛館一同は、 正月、一六日に近藤と土方が、一七日には沖田と山南がそれぞれ小島家を訪問します。土方は刀を借り、近藤は鎖帷子を借り、また、沖田と山南が帰った一八日の記事には清河八郎一件申送るとあります。
 
二.多摩地域の中の天然理心流
「(冨澤忠右衛門が地頭の用事で 江戸へ出府している)同昼後東叡山花見夫より浅草奥山向島花見ニ行~福井江寄新町より近藤勇同道」
「同夜ニ入角吉方え引取日野宿彦 五郎芳三郎松蔵分煤`伴助我等并近藤等内会府中七十郎門善坊柏屋信州屋呼寄来ル廿五日六所宮於地内野試合興行之義且勇不行届筋申談引取」
「今日於府中六所境内近藤門弟野 試合并ニ於松本楼剣術道場修復頼母子取立江戸よりも入来昼後より野試合ニ合戦致し夕方一同引取」
文久二年九月十四日「近藤勇六所宮 へ奉額之事ニ付来」文久二年十月一日「近藤勇、一の宮 又次郎、かしわや三人ニて五両札 石田年蔵府中来一泊」
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(14)冨澤日記 文久二(1862)年三月一九日【〈原〉国立史料館蔵 〈活〉農民の日記
 P115】 - 
	
(15)冨澤日記 文久二(1862)年三月二〇日【〈原〉国立史料館蔵 〈活〉農民の日記
 P116】 - 
	
(16)冨澤日記 文久二(1862)年三月二五日【〈原〉国立史料館蔵 〈活〉農民の日記
 P116】 - 
	
(17)比留間七重郎日記 【〈原〉多摩市個人蔵〈活〉比留間家日記
 P30 〈関〉江戸博図録 P26 : 新選組情報館 
 P43】 - 万延元年九月晦日には六所宮(現大国魂神社)奉額が行なわれました。門人で世話人であった比留間七重郎の日記にはその時のことが記載されています。
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(18)覚庵日記【〈原〉国立市個人蔵 〈活〉本田覚庵日記
 P81,83】 
三.新選組の京都における活動報告
近藤・土方らは京で新選組を結成してからも、手紙で江戸の門人や多摩の後援者らに活動報告を送っています。これらの手紙は現代に比べ情報伝達手段の乏しかった当時、多摩の人々が京の動静を知るうえで非常に貴重な情報源だったのでした。
当時の京都に対する認識
「京地一統奸人多人数横行仕実ニ天下之安危切迫之此時当り小子共彼是安否相窺願わくハ右姦悪共斬戮仕寸志御奉公仕度微心徹底仕度再応滞留之趣同心一同より相願」「尤奸人共表向誅戮候者天下錯乱与も可相成乍併奸人共表ニ者尽忠報国飾り内ニ者徳川家権威削かん彼是奸謀巡シ未タ京地不成穏尤姦物とも常々厳重用意いたし」思想基盤としての尊王攘夷と、幕府に対する認識
「浪体身与相成勤王攘夷基キ捨命可仕与覚悟仕」「天朝并大樹公御守護奉り右之賊奸誅戮仕候然ル上関東下向仕度心底」「幕吏衆ハ唯々関東御下向相望メ`京地滞留ニ而者兎角不自由ニも御座候間国家大事捨置御発駕相願ハ八万人中無男児奉存候」政治活動の開始と浪士文化
「板倉殿御旅館迄罷越断然御目通りニ而義論仕今般大樹公御上洛之義如何次第御座候哉乍恐大小名御召連集義御英断被為遊候事与一同奉大悦罷在候」「勤王攘夷拒絶国家大事公武御合体之義海岸防禦之備向策略予メ承り度申上処御返答御差支」「小子共天命短夕事与心配罷在候若亦京地身命捨候節ハ父事者何分可然様養育伏而奉願上候」「当節諸藩与相交り種々周施いた居候間書状も相認メ候暇無御座候間宜はんじ心底御賢察伏而奉希候」
「既ニ同志之内失策等仕出候者者速ニ加天誅ヲ候去頃同志殿内義雄と申仁去四月中四条橋上ニ而打果シ候亦家里次郎申者大坂おゐて切腹いたし候」「清川八郎義者芝赤羽根ニ而打果候趣伝承仕候尤右清川八郎村上俊五郎石坂周造木村久之丞斉藤熊三郎白井庄兵衛右六人ハ洛陽おゐて梟首可致と周施仕候処折悪不加誅戮候右之者儀ハ道中より拙者共違論御座候」「拙者関東発足之時々より忠天朝ニ奉シ躬ハ幕府致シ候者素より僕志願候」
「熟愚考仕候処、只今迄薩長攘夷有之候へども、其国攘夷にて、海国攘夷とは比申間普`候、然る上は、第一公武合体専一致し、其上幕府において断然攘夷被仰付候はば、自然国内安全とも奉存候、素より外国事より如此天下轟然内乱を醸候哉と存候、乍恐政府を助け皇国一致仕、海岸防禦策略より他有之間普」
「御上京ニも不相成候ハヽ拙者事茂其儀周旋方し而年尾之内下向可致哉難計万々一野子東下之上御因循ニも相成候ハヽ必々絶命可相成与奉存候併国家危難よつて死生懸り候儀者更ニ厭候事無御坐候共若亦御上京延引ニも相成候得者亦々天下喧囂し而遂ニ国乱危難ニ可相成哉与心配罷在候」
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(19)「志大略相認書」(こころざしたいりゃくあいしたためがき)【〈原〉日野市個人蔵(現在、日野市ふるさと博物館に展示中) 〈活〉〈写〉日野市図録
 P47 : 京都図録 
 P17 〈写〉江戸博図録 P58 〈関〉新選組情報館 
 P67】 - 近藤が上京後まもなく、江戸・多摩の後援者らに送ったのが右の手紙です。この手紙には上京後の経過報告だけでなく、近藤自身の政治的な認識や現状に対する判断が書かれています。
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(20)志大略相認書中の会津藩提出嘆願書【〈原〉日野市個人蔵。現在、日野市ふるさと博物館に展示中 〈活〉〈写〉日野市図録
 P47 : 京都図録 
 P47】 - 
	
(21)文久三年六月始め(推定) 萩原多賀次郎他宛近藤勇書簡【〈原〉町田市小島資料館 〈写〉江戸博図録 P51 〈写〉〈活〉多摩市図録
 P17】 - 近藤らと共に京都に残留した殿内義雄を殺害したこと、家里次郎に切腹を申し付けたこと、清川八郎らを殺害しようとしたが果たせなかったことなどが書かれています。
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(22)文久三(1863)年一〇月 佐藤彦五郎宛近藤勇書簡【〈原〉日野市個人蔵 〈写〉江戸博図録 P60 〈写〉〈活〉多摩市図録
 P17】 - 
	
(23)文久三年(1863)一一月 御世話剣客御一統様宛近藤勇書簡【三鷹市 吉野泰平家文書】
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(24)元治元(推定)年六月八日 近藤周斉ら六名宛近藤勇書簡(写)【〈原〉町田市個人蔵 (写)〈活〉藤岡屋日記第十一巻
 P573】 - 近藤が義父の周斉に送った右の手紙には池田屋事件のことが書かれています。この手紙はどのような経緯か、藤岡屋という情報屋の手に渡り、江戸の町で売買されてたようです。
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(25)元治元(推定)年八月二日 宮川惣兵衛書簡【町田市 薄井家文書】
 - 長州藩が京都へ攻め寄せ新選組及び 会津、薩摩藩らと戦いになった禁門(蛤御門)の変についても近藤は多摩へ手紙にて知らせています。
 
四.幕末京都政局の中での新選組
「尽忠報国有志御募り相成、殊烏合之局中ヲ預り、聊鄙言申述」「肥後守殿よりなるへく温泉いたし候様 肥後守殿御役替ニ付飛脚到来」「先年府中宿於おいて御同様始楼登妄戯仕事、時々思ひ出申候」「当節婦人戯候事聊無之局中頻ニ男色流行仕候」
「未タ洛陽ニテハ不成穏事必累而兎 角幕府讒口紛々沸騰仕依而昨年以来両度御上洛被為遊候得共其御趣意未タ聊も御成功不成得候へば空普`御滞留被為漸々諸侯も反覆之色顕シ候折柄俄之御発駕被仰出夫々有志諸侯よりも是非とも御滞京中内外之御処置被為遊候様御建白有之候得共聊御採用ニも不相成隋而下拙履中よりも再三閣老衆に罷出前条之形成柄奉申上候只々口以能御諭ニ而御治世成行致方御勢趣亦大坂まて為行警衛罷越閣老衆大目附衆与之被仰聞候此先之御処置等殊之外粗粘致事も御座候間御月番酒井雅楽頭様迄参殿仕御見通りニ而外異鎖港之御処置亦長州等御裁判之御処置切迫仕此儘御東下相成候へ者幕府衰運挽回無賢策候間我々共義速ニ離散御暇奉願上候処頻ニ御諭ニ而未タ洛陽御手薄ニ御座候間厳備相成候迄相勤くれ候様御頼メ`有之依之不得氏`事候然ルニ十六日天保山より御乗船相成御東下相成申候内ニ者大奸日々相り外ニ者驕慮之五大洲凌海ヲ受幕府ハ因循姑息候苟安之謀のみ依之御国体殆言へからす瓦解志明之勇顕シ乍只々臣たる道を守り楠公宋ノ岳飛ノ志続致度候」
「下拙事大小監察付添ニ而芸州広嶋迄出張夫より長州萩城迄下拙主従罷越候之御用被仰付誠ニ不容易次第」「彼地江入干戈白刃交候節孤勇不可当実 以万死不出之節ニ到申候且つ長人与者下拙事ハ十分ニ仇結ひ居候間此辺者心痛仕候得共併 天下高名世戴ニ誠心ヲ以議論ニ及ひ素々油火者相成候心得ニ而邪正共引満とめ至当議論青天白日ニ論」「活計之策可有之哉御安事無之」「留守局之処ハ土方江相託シ置万一事も有之節小子之宿願歳三子江得与申置候」「剣流名沖田江相譲り申度」
「僕平素ヨリ威名轟候耳之宿願ニ無之草莽中ヨリ報国之大義ヲ唱江今既ニ国家大患ニ到内ニ者国是一空衆議ニ合論場合不到往々天下人心痛怨離叛之姿成行臨機平呑之志シヲ生シ貧民ハ不堪命苦情ヨリ終ニ国禁ヲ犯シ」
「草莽布衣之臣昌宜敢而 摂政殿附下江奉言上」「元来長防征討之義ハ去ル寅五月中不受幕府之御裁許更ニ被及 奏聞之処速ニ奏追討之功奉安 宸襟候様御沙汰被 仰出素々 朝廷御一致之御所置ニ有之加之当 大樹公御進発之節 節刀をも賜り候儀ニ而 宸慮之所在青天白日之如シ然ニ今日ニ至妄挙無名之仰与申義者勿体なくも先帝ヲ軽蔑致先将軍ヲ踏付候始末臣昌宜ニ於而一堰難相心得奉存候」「天下之諸侯彼之如キ強暴ヲ恣ニし非理募り候而も法外之御取扱ヲ蒙り候心得ニ罷在候ハヽ弥以騒擾ヲ醸シ如何成事変出来仕間普も難計奉存候恐らくは天幕御権威日々衰退侯伯駕敬之道御取失天下民心離叛致各国四分五列之勢与相成終ニ縦横割拠之略ヲ抱キ乍恐其時ニ至候者 天幕其鎮撫統御被遊候様有之間普愚考仕候」「自然外夷与私ニ親睦ヲ通シ候様ニ相成候ハヽ 皇国未曾有之御失躰千歳之遺憾ニ御座候」
「近藤老兄其外矢張会津公之附属ニ相成候由、譬台命ニもせよ是迄会津之恩沢を受居、豈黙氏シテ春嶽公ニ可属之理ナシ、近藤之意与我相同、勇・歳三・山南・沖田一同無異之由」
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(26)元治元(1864)年五月二十日 中島治郎兵衛宛 近藤勇書簡【〈原〉立川市個人蔵 〈写〉〈活〉江戸博図録 P71】
 - この手紙は、近藤が老中に新選組解散の申し出をしたが認められなかったこと、新選組の隊内で男色が流行していることが記されています。また、近藤はこの手紙と同じ内容のものを小島鹿之助にも送っており、こちらの封筒には新選組の実印が押されています。新選組は新選組とも言われますが、この実印には「撰」ではなく、「選」の字が使われています。
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(27)元治元(1864)年五月二十日 小島鹿之助・橋本政直宛 近藤勇書簡【〈原〉個人蔵 〈写〉江戸博図録 P70(封筒のみ) 〈活〉民衆運動史4 近世から近代へ
P287】 - 近藤の手紙には当時の政局情報だけではなく、近藤自身の政治的な主張も多分に記載されています。近藤はこの手紙で、幕府が国家の危機に際しても正面から対処せず、一時しのぎを繰り返す対応を厳しく批判しています。
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(28)慶応元(推定)年一一月四日 近藤勇の佐藤彦五郎・小島為政(鹿之助)・粕屋良順宛書簡【〈原〉町田市小島資料館 〈写〉〈活〉江戸博図録 P114】
 - 第一次長州戦争で長州は幕府に降伏しました。この長州への処分を決定するために、近藤は訊問使に随行して長州に赴くことになります。殺される可能性もあったこの長州行きに当たり、近藤は多摩の支援者達への手紙で、自分が死んだら沖田総司に天然理心流を譲りたい旨を書き記しています。
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(29)慶応三(推定)年三月二四日 近藤勇の小島為政宛書簡【〈活〉〈関〉民衆運動史4 近世から近代へ
P287】 - 
	
(30)「慶応三(1867)年六月 近藤勇の建白【三鷹市 吉野泰平家文書】
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(31)小島日記 元治元(1864)年四月一五日【〈原〉町田市小島資料館蔵 〈活〉小島日記29巻
 P27】 
参考文献
| 日野図録 | 日野市立ふるさと博物館編 『新選組のふるさと日野 甲州道中日野宿と新選組』 2003年 | 
|---|---|
| 日野宿図録 | 日野宿叢書第2冊 東京都日野市編 『図録 日野宿本陣 佐藤彦五郎と新選組』 2004年 | 
| 京都図録 | 京都国立博物館編 『特別陳列新選組 史料が語る新選組の実像』 2003年 | 
| 江戸博図録 | 東京都江戸東京博物館編 『新選組!』 2004 | 
| 多摩市図録 | 多摩市教育委員会編 「新選組の人々と旧富澤家」(解説リーフレット) 2003年 | 
| 民衆運動史4 | 新井勝紘編 『民衆運動史4 近代移行期の民衆像』 青木書店 2000年 | 
| 新選組情報館 | 大石学編、三野行徳ほか著 『新選組情報館』 教育出版 2004年 | 
| 小島資料館目録 | 小島政孝編 『小島資料館目録』 小島資料館 1978年 | 
| 小島日記 | 小島日記研究会編 『小島日記1,2,3,28~33』 小島資料館 1988~2002年 | 
| 本田覚庵日記 | くにたち中央図書館編 『国立地域史料叢書第十二集 本田覚庵日記』 1989年 | 
| 農民の日記 | 国文学研究資料館史料館編 『史料叢書5 農民の日記』 名著出版 2001年 | 
| 比留間家日記 | 府中市郷土博物館編 『府中郷土史料集8 比留間家日記』 1985年 | 
| 山田家文書 | 小平市中央図書館編 『山田家文書 (複写)』 1983年 | 
| 斉藤家文書 | 小平市中央図書館編 『斉藤家文書(複写)』 1993年 | 
| 山田家文書目録 | 小平市立図書館編 『山田家文書目録』 1983年 | 
| 武術天然理心流 | 小島政孝 『武術・天然理心流 上 新選組の源流を訪ねて』 小島資料館 1978年 | 
| 藤岡屋日記 | 鈴木棠三ほか編 『近世庶民生活史料 藤岡屋日記 第11巻』 三一書房 1992年 | 







														
								
																														
								