コレラとは?
コレラはものすごい伝染病だ。口からはいったコレラ菌が小腸の中で毒をうみ、お米のとぎ汁のような下痢と嘔吐(吐くこと)をくり返して、からだ中の水分がぬけ、ほおっておけばほとんどの患者が死んでしまう。
今は医学が進歩して、きちんと手当てを受ければなおる。けれど幕末から明治にかけて、日本に何度か起こったコレラの大流行は、人々を恐怖におとしいれた。
病気が出たと思ったら、2~3日で、バタバタと死んでゆく。あんまりあっけなくって「コロリ」(狐狼狸・コロリ、コロリと人が死ぬのと、コレラという病名をかけた)などと呼ばれたもんだ。
コレラはもともとインドのガンジス川流域特有の伝染病だった。それが世界に飛び出すようになったのは19世紀。近代文明が発展して、西欧の国々がアジアとの交通を盛んにするようになってからだ。
イギリスがインドを完全に支配するようになった1817年、最初の世界的コレラ流行が起きる。日本も中国経由でコレラの攻撃を受けた。文政5(1822)年のことだ。ただし、この時は西日本が中心で、江戸にはいたらなかった。
次の流行は安政5(1858)年。長崎に入港したアメリカ軍艦ミシシッピ号の乗組員が持ちこんだ。この時のコレラは日本全国、箱館までおよび、江戸だけでも死者10万人、いや、26万人ともいう。
幕末で世の中は不安定だし、江戸は安政2(1855)年、大地震にみまわれたばかりでもあった。

コレラは世界へ飛び出すのが遅かったにもかかわらず、その症状のすごさ、急激さから『国際伝染病の花形』といわれる。
『衛生の母』という名もついている。というのもこの病気の流行は、その国に清潔な環境とか病気の予防などについて考えさせるきっかけとなるからだ。
明治、というと「文明開化」とすぐ思ってしまうけど、一般の人たちの生活は江戸時代のまま。上下水道も整備されていないし…。
そんな環境だったから、コレラもはびこった。それにつれて、コレラをはじめ伝染病予防のための法律だの、衛生会だの、水道をより衛生的なものに改良しようという考えだのも生まれていった。

江戸・東京 流行病年表
江戸・東京 流行病年表
| 年 |
できごと |
| 文政5(1822) |
2月 オランダ商館長ブロムホフと商館の医師トゥルリング、幕府の官医たちにインド、ジャワで流行中の「コレラ」の話をする。
8月下旬 対馬~下関ルートで、コレラ、日本に初上陸。九州・四国・近畿は大被害。 |
| 文政7(1824) |
麻疹(はしか)流行。 |
| 天保1(1830) |
疫病(伝染病)流行。 |
| 天保2(1831) |
風邪流行。 |
| 天保6(1835) |
風邪流行。 |
| 天保7(1836) |
風疹、麻疹流行。 |
| 天保8(1837) |
疫病流行。 |
| 弘化3(1846) |
痘瘡(天然痘)流行。 |
| 嘉永3(1850) |
風邪流行。 |
| 嘉永5(1852) |
疫病流行。 |
| 嘉永6(1853) |
6月3日 ペリー浦賀に来航。 |
| 安政1(1854) |
風邪流行。
3月3日 下田・箱館、開港。 |
| 安政4(1857) |
風邪流行。 |
| 安政5(1858) |
5月21日 アメリカ軍艦ミシシッピ号、コレラに感染した乗組員をのせて、長崎入港。コレラも日本上陸。
6月 コレラ、東海道を通り、7月江戸にはいる。
8月 コレラ、全国に流行。
8月13日 来日中のフランス軍艦から、コレラ予防の意見書をもらう。
8月23日 幕府、コレラの予防・治療法を配る。
9月 幕府、コレラ流行で困っている人を救うため、52万人分の米(代金6万両)を出す。 |
| 安政6(1859) |
2月15日 幕府、川にごみを捨てることを禁止する。
3月 麻疹流行。
夏 コレラ流行。 |
| 文久2(1862) |
6月 麻疹流行。夏、コレラ流行。江戸だけで7万3,000人死亡。相模・武蔵にもコレラ流行。
8月 小平(小川村)でコレラ流行。9月までに死者80人以上。 |
| 慶応3(1867) |
6月 風邪流行。
10月15日 徳川慶喜、大政奉還。 |
| 明治5(1872) |
5月30日 明治3年4月15日に許可されたばかりの玉川上水の通船、禁止となる。 |
| 明治6(1873) |
9月8日 文部省衛生局からコレラ予防のための意見書がでる。 |
| 明治10(1877) |
2月15日~9月24日 西南戦争。
8月 コレラ、上海から長崎へ上陸。
8月27日 内務省、「コレラ病予防心得」を公布。
9月5日 横浜で2人、コレラ患者発生。
9月14日 牛込早稲田(今の新宿区)にコレラ患者発生。東京府下に広がりはじめる。
深川などに避病院できる。
11月 神奈川県でもコレラ流行。 |
| 明治12(1879) |
3月 コレラ発生。
6月 東京で大流行。
6月17日 内務省、「コレラ病予防および消毒法心得」を発表。
6月27日 「コレラ予防仮規則」公布。
8月2日 東京府、日本橋蠣殻町に東京地方衛生会を開設。
8月16日 中央衛生会をつくる知らせがでる。
8月22日 明治天皇、「コレラ撲滅に関する勅諭」を発する。
8月27日 府下大久保村(今の新宿区)にコレラの避病院できる。 |
| 明治13(1880) |
4月 内務省から「虎列刺予防の諭解」でる。(わかりやすくコレラの予防法を説明した本。)
7月9日 「伝染病予防規則」公布。
9月10日 「伝染病予防心得書」公布。
この当時の6大伝染病は「コレラ」「腸チフス」「赤痢」「ジフテリア」「発疹チフス」「痘瘡」 |
| 明治14(1881) |
5月21日 北多摩郡衛生委員会ができる。 |
| 明治15(1882) |
4月26日 横浜でコレラ発生。
5月29日 東京府でもコレラ発生。
秋にかけて流行。
7月17日 東京府、コレラ流行のため、東京検疫局(伝染病を予防する機関)を設ける。
9月2日 日本橋に避病院できる。 |
| 明治16(1883) |
ドイツの細菌学者ロベルト・コッホ、コレラ菌を発見。 |
| 明治18(1885) |
2~3月 麻疹流行。 |
| 明治19(1886) |
夏から秋にかけて、コレラ、全国的に広がる。
6月6日 大日本衛生会、わかりやすく書いたコレラの予防心得を発行。新聞にのせたり、旅館や銭湯に配る。
8月7日 東京・神奈川、コレラ流行地に指定される。
同じく8月、神奈川県西多摩郡下長淵村(今の青梅市)で、コレラ患者の汚れ物を多摩川で洗たくした、というニュースが流れる。 |
| 明治20(1887) |
痘瘡流行。 |
| 明治21(1888) |
3月1日 伝染病予防消毒取締規則。 |
| 明治22(1889) |
2月11日 大日本帝国憲法発布。 |
| 明治23(1890) |
7月18日 横浜に入港していたエルトグロール号からコレラ患者発生。
8月 コレラ流行。
10月11日 内務省、「伝染病予防心得書」公布。
12月 東京府、インフルエンザ流行。 |
| 明治24(1891) |
4月 腸チフス流行。 |
| 明治28(1895) |
5~12月 コレラ流行。
11月21日 北里柴三郎、コレラ治療のための血清療法の効果について発表する。 |
| 明治29(1896) |
ジフテリア流行。 |
| 明治30(1897) |
1~6月 痘瘡流行。
4月1日 「伝染病予防法」公布。
5月 東京で麻疹大流行。
この年、三多摩に赤痢大流行。小平村でも患者260人、死者60人をだす。
下鈴木(今の鈴木町)の宝寿院の一部を避病院にあてる。 |
| 明治31(1898) |
腸チフス流行。ジフテリア流行。
この年、小平村の小川新田山家に避病院できる。(今の喜平町、警察学校の構内。) |
| 明治33(1900) |
1月15日 ペスト予防のため、東京市、ネズミを1匹5銭で買い上げはじめる。
ジフテリア流行。 |
| 明治35(1902) |
ペスト流行。
この年からコレラの予防接種はじまる。 |
| 明治36(1903) |
1月 東京市内でペスト流行。 |
| 明治40(1907) |
ペスト流行。
この1年間、ペスト予防のために横浜市が買い上げたネズミは48万 5,760 匹! |
| 大正1(1912) |
9月25日 上海で8月に発生したコレラが東京に侵入。 |
| 大正2(1913) |
12月 ペスト流行。 |
| 大正5(1916) |
荏原(今の品川区)にコレラ発生。東京市中に流行。 |
| 大正7(1918) |
5月 スペイン風邪大流行。 |
| 大正9(1920) |
1月 スペイン風邪大流行。
小平でもたくさんの患者がでる。 |
| 昭和4(1929) |
7月17日 小平村ほか8か町村による組合立の伝染病専門病院「北多摩郡昭和病院」できる。 |
明治期全国コレラにかかっちゃった表
(患者の人数は届出分だけなので実際はもっと多い?!)
明治期全国コレラにかかった患者
| 年 |
患者数
(死亡者数) |
年 |
患者数
(死亡者数) |
| 明治[流行]10 |
13,816
(8,027) |
明治[流行]35 |
12、891
(8、012) |
| 11 |
902
(275) |
36 |
172
(139) |
| [流行]12 |
162,637
(105,786) |
37 |
1
(48) |
| 13 |
1,580
(618) |
38 |
-
(34) |
| 14 |
9,389
(6,237) |
39 |
-
(29) |
| [流行]15 |
51,631
(33,784) |
40 |
3、632
(1、702) |
| 16 |
669
(434) |
41 |
652
(297) |
| 17 |
904
(417) |
42 |
328
(158) |
| [流行]18 |
13,824
(9,329) |
43 |
2、849
(1、656) |
| [流行]19 |
155,923
(108,405) |
44 |
9
(35) |
| 20 |
1,228
(654) |
45・大正1 |
2、614
(1、763) |
| 21 |
811
(410) |
2 |
87
(106) |
| 22 |
751
(431) |
3 |
5
(100) |
| [流行]23 |
46,019
(35,227) |
4 |
-
(63) |
| 24 |
11、142
(7,760) |
5 |
10、371
(7、482) |
| 25 |
874
(497) |
6 |
894
(718) |
| 26 |
633
(364) |
7 |
-
(32) |
| 27 |
546
(314) |
8 |
407
(356) |
| [流行]28 |
55,144
(40,154) |
9 |
4、969
(3、417) |
| 29 |
1,481
(907) |
10 |
29
(35) |
| 30 |
894
(488) |
11 |
743
(542) |
| 31 |
655
(374) |
12 |
4
(31) |
| 32 |
829
(487) |
13 |
-
(-) |
| 33 |
377
(-) |
14 |
624
(363) |
| 34 |
101
(-) |
15・昭和1 |
25
(13) |
数字の前に[流行]がついているのは、コレラ大流行の年。
コレラの歴史
1.文政5(1822)年

この
流行の
時は、
腹冷え、
冷気当り、
霍乱、
中風などと言われた。ふつうの
急性胃腸炎とごちゃまぜにされていたのだ。
対馬からはいって
京都・
大坂へ。さらに
東海道を
進んだが、
静岡県沼津のあたりで
止まり、この
時コレラ
菌は
江戸にははいらなかった。
日本最初のコレラ
襲来だ。
実はこの
流行の
前、
同じ
年の2
月にオランダ
商館長ブロムホフとオランダ
商館の
医師トウルリングが
江戸訪問の
際、
幕府の
官医たちにこの
病気のことを
話している。
「
東方の
国でむかしから
多くある
病気で、
老若男女、
誰でもかかる。とつぜん
発病してすごいはやさで
悪くなるから
治療もすみやかにしなければならない。
病気がでて1~2
時間で
死ぬこともある。その
病気の
名は、ラテン
語で『コレラ・モルブス』」
2.安政5(1858)年
文政の
時は
原因も
不明、まったく
手のうちようがなかった。
安政の
流行では、
原因不明ながら
伝染する
病気だということはわかったので、
奉行所や
各藩は
伝染を
防ぐための
御触書やお
達しを
出している。
また、
長崎のオランダ
人医師ポンペはヨーロッパの
医学の
情報をとりいれ、この
病気の
治療に
取り
組んでいる。
少なくともコレラという
病気にどんな
症状がでるか、という
知識は、
医師たちの
間に
広まった。
この
時の
流行はアメリカ
軍艦ミシシッピ
号が
長崎に
入港した5
月にはじまる。7
月には
江戸に
侵入。
赤坂・
築地・
芝海岸・
佃島など
海岸沿いの
地域から
流行がはじまった。
港は
外国から
訪れる
人や
物の
玄関だから、
病気もまた
同じところからはいってくるんだね。
江戸の
人々は、コレラの
流行に、
玉川上水の
水を
飲まず、
門には
守り
札をはり、おみこしを
出したり、しし
頭をかついだりしてこの
悪疫(
悪い
流行病)を
追いはらおうとした。

「
玉川上水に
毒が
生じてこの
悪疫が
流行するのだ」とか、「
怨霊のせいだ」とか、「
妖怪変化のせいだ」とか、「
長崎に
停泊したアメリカ
人が
飼っていたキツネを
置いていって、そのキツネから
病気がうつった。キツネを
退治しないと
病気はおさまらない」とか、さまざまなうさわも
乱れとぶのだった。
3.文久2(1862)年
夏、流行。全国にコレラ患者56万人。江戸だけでも死者7万3,000人。
4.明治10(1877)年
明治にはいると、西欧からコレラについての文献が輸入されるようになった。明治政府はこれをもとにコレラ対策を考えるようになった。
この年、九州でくりひろげられた西南戦争はイギリス軍艦が長崎にもちこんだコレラを全国に広めた。すでに九州で流行しはじめていたコレラに感染した兵隊たちの大移動でばらまかれたのだ。
もう一つ、港横浜でもこれとは別の経路でコレラ発生。こっちは輸入品から感染したらしい。
9月14日、コレラはついに東京府侵入。
牛込早稲田(今の新宿区)に患者が出たのをはじまりに府下に広がる。
5.明治12(1879)年
日本史上最悪のコレラ流行の年。
(コレラ病死者は明治19年が最も多いが、コレラにかかった人はこの年が一番だ。)
3月14日に愛媛県からはじまったコレラは6月には東日本におよび、8月下旬もっともひどくなる。
8月22日、明治天皇は、流行のまっただ中、「コレラ撲滅に関する勅諭」を発する。
“人生最大のわざわいは病毒であり、わけてもいちばん悲惨なのは伝染病だ。倒れる者に貧しい者や弱い者が多いのはあわれである。病気の原因がわかり、治療方法もできあがって、患者が死ぬことなく、誰もが簡単に予防できるようにし、衛生の成功をおさめてほしい。”という内容だ。
検疫権(伝染病の疑いのある船や乗員を大丈夫とわかるまで上陸させない権利)
コレラは港からはいってくる。病気の原因が不明でも、そのことはみんなわかっていた。
文久2(1862)年、すでに幕府は各国に「コレラ患者のいる船は入港しないでほしい」と申し入れている。しかし、外国は治外法権を理由に「日本の規則を守る必要はない」という態度が強かった。
完全な検疫権を手に入れたのは明治32(1899)年。これもコレラ流行を下火にした理由の一つだ。
明治15(1882)年
4月26日、横浜にコレラ患者がでて、神奈川県からすこしずつ全国に広がる。
コレラの流行にともなって、加持祈祷(神さまや仏さまに助けてくれるよういのること)もはやるようになった。
7月10日、内務省はこれをひかえるように通知をだした。祈祷に一生懸命になって、治療が後まわしになってはならないからだ。
「加持祈祷をおこないたい人は、まず医師に治療をしてもらってから。」という注意だ。
明治16(1883)年
ドイツの細菌学者、ロベルト・コッホがコレラ菌発見。が、これで何もかも解決!というわけではない。
正しい治療方法・予防方法が発見されるまでにままだまだ時間がかかるのだった。
明治19(1886)年
このころになると次のようなコレラ予防の原則があげられる。
(1)清潔な水を使う。
(2)土壌(つまり土地)をいつも清潔に保つ。
(3)家をいつも清潔に保つ。家の中に排水設備と便所をつくる。
(4)なるべく、多くの人たちを集合させない。
この年は、コレラによる死亡者が一番多かった。19年には1年中、伝染病は猛威をふるい、コレラをはじめ赤痢、腸チフス、痘瘡で14万6,000人が死亡。日露戦争の戦死者と肩をならべる人数だ。東京の避病院では、あまりに多い患者を受け入れきれず重症の者は死ぬのを待つ間もなく火葬場へ。
市内の全ての火葬場が徹夜で焼きつづけたが追いつかなかった。
それ以降…
明治23年、28年と流行にみまわれたがだんだんと下火に。コッホのコレラ菌発見から10年。日本でもコレラ菌を相手に、検査したり、治療を考えたりする時代にはいった。検疫(注釈)権も獲得した。
明治28年には北里柴三郎がコレラ治療の血清療法の効果について講演をおこなっている。
明治35年には日本最初のコレラ予防接種も始まった。それでも明治年間、コレラによる死者37万人あまり。日清・日露の戦死者をはるかに上回る被害だった。
(注釈)検疫権;外国からの伝染病を防ぐための検査。
コレラのあれこれ
病名票
明治めいじ10年8月27日に公布された「コレラ病予防法心得」。その中に病名票のとりきめがある。まわりへの伝染を防ぐために、患者が出た家は入り口に「コレラ伝染病あり」と病名票をはりなさい、というもの。
しかし、明治15年の流行の時、人々はこれをはるのをいやがり、患者が出たことをかくしたりして、その害の方が問題になった。
そこで、この年の8月26日には、人情を考えて病名票をはるのは見あわせよう、という結論になった。
避病院
これは伝染病が広がるのを防ぐため、患者をみんなから離しておくための病院。安政5年の流行の時、長崎で作られたのがそのはじまり。
明治10年の流行には、東京府でも北品川洲崎、市ヶ谷富久町、本郷向ケ岡、本所緑町などに避病院ができた。
明治14年に作られた「コレラ予防法協議手控」に避病院は、こうとり決められている。
- 避病院を作る場所は人家に近くなく、井戸や川、泉のそば、交通の多いところはさける。
- 重症・軽症・回復にむかっている者にわけて、4帖に1人。せまくても1帖に1人までの面積にする。
- 看護人は患者2人に対して1人。昼夜交代させる。
- 見舞客が病院を出る時は、行水でからだをきれいにさせ、服はかんたんな燻蒸(いぶして、むして、虫・バイキンを殺す)を行う。
しかし、病院とはいってもバラックの板囲い。医師も看護婦も不足で、患者はろくな手当てもうけず、10人中8、9人が死んでいった。避病院は役目をおえると焼きすてられた。
「避病院にはいると生きて帰れない」とか、「入院すると生き血をぬきとられる」「きもを奪われる」などといううわさが流れ、入院をいやがったり、入院しても逃げ出す人もいたり。
「虎列刺豫防諭解」
内務省社寺局、衛生局が編集して、明治13年4月11日に出版したコレラ予防の本。
この時代、伝染病のためのいろいろなきまりやお知らせがでるがそうした政府の衛生キャンペーンのひとつ。
「伝染病の原因は空気・のみ水・食べもの・人とのまじわりの4つ。また避病院はひどい扱いをするところではないからすぐに病院をいれなさい。」などと注意をあたえている。
コレラ・その他の伝染病 明治のころの予防法あれこれ
コレラの流行以来、さまざまな予防法が出されたけれど、そのほとんどの基本は飲み水や環境を清潔に保つ、ということだった。
けれど明治のころの日本は「富国強兵策」のまっただ中。国を強くすることにたくさんのお金がかかって、一般の人たちの生活環境を整える方にはなかなか手がまわらない。いちばんかんじんの環境が衛生的ではなかったのだから、伝染病の流行はおさまらなかった。
きまり、ご注意いろいろでた!
安政5年8月
コレラの応急手当について御触書 がでる。
明治10年8月24日
「コレラ流行の節各自注意すべき養生法」公布。
このときすでに「のみ 水はわかしたほうがいい」と書かれている。
明治10年8月27日
「コレラ予防心得」公布。
検疫(伝染病の検査)からコレラが発生したときの届出、埋葬のしかたまでとりきめられている。
これ以降の伝染病についての規則のお手本となる。
明治11年3月14日
「一般予防法」でる。
内務省が東京府に実行するよう出したもの。
井戸・便所・ミゾ・ドブ・ゴミの掃除から患者の取り扱いまで決 められている。
明治11年5月9日
「飲水法」公布。
井戸を修理、補修して、汚れた水がはいらないようにしなさい、と言 っている。
明治12年6月27日
「コレラ病予防仮規則」公布
明治13年7月9日
「伝染病予防規則」公布。
清潔法・摂生法・隔離法・消毒法などが定められている。
明治15年
「伝染病予防心得書」
清潔法・摂生法などが定められている。
明治21年3月1日
「伝染病予防消毒取締規則」公布。
明治23年10月11日
「伝染病予防心得書」公布。
患者を出した家やその近くの家の予防・消毒のしかたから流行までの予防法まで。
明治29年4月22日
東京府と警視庁。たべもの・井戸・下水の修理、便所掃除などの注意を出す。
明治30年4月1日
「伝染病予防法」公布
このほかにも、コレラ患者が出るたび、警視庁、東京府などいろいろな注意を出している。
小平と伝染病 江戸末期
コレラの流行
安政5(1858)年の全国的コレラ流行の4年後。文久2(1862)年に小川村でコレラの大量発生があったという。なにしろ当時人口が1、200人程度の村で80人以上の死者が出た。
明治17(1884)年にも5~6人ほどコレラ患者がでたようだ。
避病院 ~明治のころ~
小平に避病院がなかった頃は、伝染病患者が出ると、戸板にのせ、荷車で埼玉県川越の病院まで運んでいった。30キロメートルの道のりだ。1日がかりで連れて行っても、病院に着く前に患者が死んでしまうことが多かったという。
小平最初の避病院は下鈴木(今の鈴木町)の宝寿院。明治30(1897)年5月、赤痢が大流行して臨時にここに置かれた。
よく年、明治31(1898)年、小川新田山家(今の喜平町)に独立した避病院が建った。今の警察学校の敷地の中だ。病室は5つあった。
村に伝わる話によると、病院といっても、医師も看護婦もいないも同じ。患者は家族と会うこともできずいたましいものだったとか。
「病院へ連れて行かれると生きて帰れない」と患者を隠したりした。
伝染病の原因
小平の
伝染病の
原因はおもに
飲み
水だった。
村人たちの
多くは、
玉川上水からの
分水を
飲み
水として
使っていた。だから、
玉川上水の
上流で
汚れた
水がはいりこんだり、
伝染病がでたりすると、
影響をうけてしまう。この
頃はきちんとした
下水なんてなかったし。
年に1、2
回川さらいを
行事にしたけれど、あまり
効果はあがらなかった。

昭和病院の誕生 ~昭和~
昭和2(1927)年、警視庁衛生部は田無警察署と、北多摩地区の伝染病対策について話し合った。(この当時、警察は衛生のお仕事もしていたんだね。)
それで田無署管内の田無町・小平村・保谷村・久留米村・清瀬村・大和村・村山村(武蔵村山だよ)・東村山村の8か町村で共同して伝染病の隔離病院をつくることに決めた。
これが昭和病院だ。
昭和4(1929)年7月12日、小平村に設立。病室28室、ベッド数51からスタートした。
古文書に見る小平のコレラ1
宮崎家(
神明宮)の7
代目義智は
小川村のお
医者様だった。
亡くなったのが
明治23(1890)
年。コレラが
一番流行している
時代に
生きた
人なんだ。
だから、この
家の
古文書にはコレラに
関するものがいくつか
残されている。
明治10
年の「
虎列刺予防法心得」ですでに
医師は
虎列刺患者を
診察したら
届出るよう
義務づけられていたから、
義智から
田無署あてに
診察書や
報告書を
出しているんだ。
義智は「
虎列刺霍乱一目瞭然」という
資料も
残している。コレラと
霍乱(
急性腸炎)のちがいが
一目でわかるように、それぞれの
症状を
上段・
下段に
書きわけて
対照比較したものだ。
コレラ
患者や、それらしい
患者が
出た
時、この
表は
活やくしたんだろうね。

古文書に見る小平のコレラ
廻り田新田(今の回田町)の斉藤家の古文書にもコレラに関するものがずいぶんある。明治10年から12年の間の御用留で40近くもあるんだ。うち9割が神奈川県から出されている。(明治26年3月31日まで三多摩は神奈川県だったからね。)下の表はその通知が出された日と、題名なんだ。これだけでもコレラがどんなに脅威だったかわかるよね。
【御用留】役所から村への通知や村から役所に出した届や願い書をいう。)
コレラに関する通知
| 番号 |
通知 |
| 1 |
<明治10年9月10日>コレラやそれに似た症状の客を乗せた人力車はいちばん近い警察署に来るように。 |
| 2 |
<明治10年9月13日>くさったり、病死した鳥や獣を売らないように。
食品の仕事をする人に心得を知らせる。 |
| 3 |
<明治10年9月18日>コレラ流行のため、臨時の検疫掛(伝染病を予防する係)を設けるように。 |
| 4 |
<明治10年9月18日>コレラ流行のため船や鉄道に乗り降りする者は荷物を臨時点検する。 |
| 5 |
<明治10年9月20日>横浜神奈川駅および横須賀などでコレラ流行につき、この病気にかかったら届出るように。 |
| 6 |
<明治10年9月20日>横浜と神奈川駅で9月8日から9月19日までにコレラにかかった人数の通知。 |
| 7 |
<明治10年9月21日>9月8日から9月20日まで横浜・横須賀・神奈川駅でコレラで死亡した人と治療中の人の数の通知。 |
| 8 |
<明治10年9月22日>コレラ流行のため、カニやエビを食べるのはやめるように。 |
| 9 |
<明治10年9月22日>コレラやそれに似た症状の者が調べをうけないまま、他の場所へ行くことを禁止する。 |
| 10 |
<明治10年9月23日>コレラの消毒についてと(コレラにかかった家の)無許可外出の禁止。 |
| 11 |
<明治10年9月24日>コレラ病が広がるのを予防するため、川の中や岸でのうんちやおしっこに注意すること。 |
| 12 |
<明治10年9月24日>小学生にコレラが出た時、その学区内の小学校は臨時休校すること。 |
| 13 |
<明治10年9月24日>コレラ患者の出た家は飲み物・食べ物を売ることを禁止する。 |
| 14 |
<明治10年9月25日>コレラが溝之口・日野・八王子などに伝染、流行しているので知らせる。 |
| 15 |
<明治10年9月25日>コレラ患者の汚れ物は焼き捨てるように。 |
| 16 |
<明治10年9月25日>コレラ流行の地域は当分の間、うんち・おしっこをまいたり、売り買いすることを禁止する。 |
| 17 |
<明治10年9月26日>コレラ流行のため、飲み水にはいっそう注意するように。 |
| 18 |
<明治10年9月27日>コレラにかかった者は掲示するように。 |
| 19 |
<明治10年9月27日>コレラ患者やコレラによる死亡者の汚れ物を運ぶ時は、そのめじるしをつけるように。 |
| 20 |
<明治10年9月27日>コレラ流行のため第1・2大区から出入りする船を臨時点検する。(この時代、大区小区という地域のわけかたをしていた。) |
| 21 |
<明治10年9月28日>コレラ流行のため下水掃除の者は必ず消毒するように。 |
| 22 |
<明治10年10月3日>家族やお客でコレラやそれに似た症状の者が許可なく移転するのを禁止する。 |
| 23 |
<明治10年10月3日>コレラ患者の移転を許可するのに必要な条件について通知。 |
| 24 |
<明治10年10月6日>伝染病流行のため、東京府下でのうんち・おしっこのくみ取りの時間を制限する。 |
| 25 |
<明治10年10月9日>コレラ流行のため、伝えることがあるので、医師はそろって(神奈川県検疫掛に)来るように。 |
| 26 |
<明治10年10月10日>小学生がコレラにかかったら学校を消毒して、10日間休校にすること。 |
| 27 |
<明治10年10月18日>コレラ予防のため、横浜港から出入りする時は検査をする。 |
| 28 |
<明治10年10月22日>コレラ伝染予防のため休校となり生徒も実家に帰っていた横浜師範学校が始まる、という通知。 |
| 29 |
<明治10年10月22日>コレラ流行のため、この秋の小学校試験を延期していたが、じょじょにとりかかるように、という通知。 |
| 30 |
<明治10年11月6日>コレラが広がっているので話し合いの上、予防法を実施するから、集まってほしい。 |
| 31 |
<明治10年11月30日>コレラがおさまってきているので、コレラの消毒薬・のみ薬の販売や薬を作る許可を出していた薬屋さんの許可をとりけす。 |
| 32 |
<明治10年11月30日>上と同じ |
| 33 |
<明治10年11月30日>コレラがおさまってきているので検査掛はとりやめる、という通知。 |
| 34 |
<明治10年11月30日>コレラがおさまってきているので、船の荷物や人の点検、及び薬を作り売ることをとりやめる、の通知。 |
| 35 |
<明治11年5月14日>千葉県上総国天羽郡湊村でコレラ発生。注意・予防するように。 |
| 36 |
<明治12年8月5日>コレラ患者が自分の家で治療をする場合の心得。 |
| 37 |
<明治12年8月30日>コレラ流行につき、治療・予防の注意。 |
残念!
明治10年でこれだけ通知がでていると、その10倍以上のコレラ患者を出した明治19年はもっと…と思うけど、資料が残っていない。
コレラが東京に残したものは…
1.大切な玉川上水
玉川上水は承応3(1654)年に完成以来、江戸の人々に飲み水を送りつづけて来た。
明治3(1870)年に許された玉川上水の通船がわずか2年でとりやめになった理由は、船が通ると大事な上水の水が汚れる、というものだった。
2.水道は木製
江戸時代から水道の樋は木でできていた。安政のコレラ騒動の時、くさりかけた木の樋が水道を不衛生にしている、病気の流行をまねいている、とすでに気付かれていた。何とかしなければと思っていたのだけれど時は幕末。黒船が来て、世の中も不安定だったところ。何とかしたくても手が出せなかった。木の樋はそのまま明治時代に引き継がれた。
3.玉川上水の調査
明治の初め、行われた玉川上水の調査の内容はひどいものだった。川辺が道より低いところは、雨が降ると汚れた水、くさった物、牛・馬・犬・猫のフンなどがことごとく上水へ流れこんでしまう。木の根や枝、薬草、犬や猫の死がい、時として人間の死体まで流れてくるというのだ。
この調査をした奥村陟という人は明治7年7月、時の警視あてに報告書をそえて意見を提出している。
「くさった水が何で長寿を保ち、健康を守るだろう。西洋にならって水道を木の樋から鉄の管にかえるべきだ」と。
4.東京府の願い
明治6(1873)年、東京府は国に「沿岸諸村編入願」というのを出している。そのころ玉川上水は東京府、神奈川県、入間県(というのがあったんだ)の1府2県にまたがっていた。大事なのみ水の通り道がこれでは管理しにくい。玉川上水の沿岸は東京府がまとめて管理したい、というものだった。この願いはききとどけられなかった。
5.ファン・ドールンの意見書
明治7(1874)年、政府から命令を受けたオランダ人技師ファン・ドールンは東京の水道を良くするための調査をおこなった。結果を7月の末提出された意見書はこう言っている。
「東京はのみ水が不潔。火災だとか、風に飛ぶチリやホコリに人々は苦しんでいる。こういう都会では良い水道が必要なのは考えるまでもないことだ。」
6.上水を汚すな!
のみ水を清潔にしなければいけない、と誰もが思ってはいた。けれど時代は江戸から明治にかわったばかり。水道を鉄の管にしたくともお金が足りない。
とりあえず上水を汚さないようにしようと明治11(1878)年11月29日、玉川・神田の両上水の「水源の仮取締規則」が作られた。
上水で泳いだり、物を洗ったりしない。ごみや汚れたものを投げ捨てない。汚れた水がはいらないよう注意。堤の木や草をみだりに切らない。など、決められた。
7.コレラ患者の汚れ物を洗たくしちゃった!事件

とにかく
水道を
良くしなくちゃ、とみんなが
思っていたその
当時。
明治19(1886)
年、コレラの
大流行をむかえる。
東京のコレラによる
死者は1
日300
人以上。このありさまに、さらに
東京府とその
住民をふるえあがらせるニュースが
流れた。コレラまっさかりの8
月、
神奈川県西多摩郡長淵村(
今の
青梅市)でコレラ
患者の
汚れ
物を
多摩川で
洗たくしちゃった、という。みんなののみ
水、
玉川上水は
多摩川から
引いているんだ。コレラに
汚染していたら
大変だ。
命にかかわる
問題だ。
後で
洗たくした
場所は
本流ではない、とわかったけれど、この
事件は、みんなの
水道への
関心をさらに
盛り
上げた。
玉川上水の
水は
皇居にもはいっていたから、
宮内省も
内務省に
厳重な
取り
締まりを
申し
入れた。
8.改良水道へ
明治21(1888)年8月、内務省に設けられた「東京市区改正委員会」は上水改良のための調査を急いでおこなうことをとり決めた。
イギリス人技師バルトンらが調査をおこない、明治23(1890)年4月には改良水道は玉川上水にするという案をまとめ、内務大臣に提出。その年の7月5日にはその案が認められた。
明治26(1893)年10月22日、淀橋浄水場(今の新宿区)で水道工事の起工式がおこなわれる。思えば長い道のりだった?
参考にした本
「日本コレラ史」
「虎列刺豫防諭解」
「宮崎家(神明宮)文書3」
「都史紀要15 水道問題と三多摩編入」
「ちょっと昔」
「東京百年史・別巻」
「神奈川県史・別編」
「小平事始め年表・索引(稿)」
「平凡社大百科事典」
「江戸・東京学事典」
「小平町誌」はじめ、各市町村史
「江戸から東京へ」
「小平医師会史」
「病気の社会史」
「御用留内容目録2(廻り田新田)」
「東京都水道史」
小平市に関すること
多摩に関すること
江戸・東京に関すること
玉川上水・小金井桜に関すること
その他