このページの本文へ移動
こどものページ > こどものページ > としょかんこどもきょうどしりょう> 33. 江戸(えど)時代(じだい)の東京(とうきょう)
文化(ぶんか)文政(ぶんせい)(1800年代(ねんだい)初(はじ)め)の三多摩(さんたま)編(へん)

33. 江戸(えど)時代(じだい)の東京(とうきょう)
文化(ぶんか)文政(ぶんせい)(1800年代(ねんだい)初(はじ)め)の三多摩(さんたま)編(へん)

江戸(えど)時代(じだい)の三多摩(さんたま)

享保(きょうほう)の改革(かいかく)で、1724年(ねん)ころから1736年(ねん)ころまでに新田(しんでん)開発(かいはつ)がすすんだ(つまり武蔵野(むさしの)新田(しんでん)ね)三多摩(さんたま)には、文化(ぶんか)文政(ぶんせい)のころ(1804~1830)になると古(ふる)いの、新(あたら)しいのとりまぜて、およそ390の村(むら)があったんだ。
そのころ書(か)かれた地誌(ちし)(その土地(とち)の文化(ぶんか)や歴史(れきし)や風土(ふうど)を説明(せつめい)したもの)である『新編(しんぺん)武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)』(1822年(ねん)多摩郡(たまぐん)の部(ぶ)、完成(かんせい))とか、『武蔵(むさし)名勝(めいしょう)図会(ずえ)』(1823年(ねん)完成(かんせい))とか、『江戸(えど)名所(めいしょ)図会(ずえ)』(1834~1836年(ねん)完成(かんせい))とか、を見(み)てみると、三多摩(さんたま)の村々(むらむら)の様子(ようす)がくわしく紹介(しょうかい)されている。
なにしろ、いずれも自分(じぶん)たちの足(あし)で歩(ある)きまわり、自分(じぶん)の目(め)で見(み)て、調(しら)べ、書(か)いたものだから、時間(じかん)もかけてるけど、内容(ないよう)もすごい。
この村(むら)にはこういう名産(めいさん)がある、とか、こんなふうに景色(けしき)がいい、とか村(むら)のお寺(てら)や神社(じんじゃ)にはこんな宝物(たからもの)がある、とか、地名(ちめい)のいわれはこうだとか、こんな伝説(でんせつ)があるぞ(けっこうおもしろい)とか…。
江戸(えど)時代(じだい)もおわりに近(ちか)い、当時(とうじ)の三多摩(さんたま)の村々(むらむら)をちょっとのぞいてみようよ。
クイズです
クイズのこたえはいちばんさいごにあります

江戸(えど)時代(じだい)のあの村(むら)、この村(むら)その1

『新編(しんぺん)武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)』のころの三多摩(さんたま)

文化文政ころの三多摩むらマップ

1.白丸(しろまる)(奥多摩町(おくたままち))

もとは「城丸(しろまる)」で、「じやう山(やま)(城山(じょうやま))」という砦(とりで)があったことによる地名(ちめい)。

2.檜原(ひのはら)(檜原(ひのはら)村(むら))

戦国(せんごく)時代(じだい)には檜原(ひのはら)城(じょう)があって、八王子(はちおうじ)城主(じょうしゅ)、北条(ほうじょう)氏照(うじてる)の配下(はいか)の平山(ひらやま)氏重(うじしげ)が甲斐(かい)武田(たけだ)氏(し)に対(たい)する守(まも)りをかためていた軍事(ぐんじ)基地(きち)だった。
甲州(こうしゅう)へむかう街道(かいどう)が通(とお)っていたけれど、江戸(えど)時代(じだい)に五街道(かいどう)が整備(せいび)されて甲州(こうしゅう)街道(かいどう)の道筋(みちすじ)がかわったので、こちらは「古(こ)甲州(こうしゅう)街道(かいどう)」と呼(よ)ばれるようになった。

3.養沢(ようざわ)(五日市町(いつかいちまち))

むかし、東国(とうごく)征伐(せいばつ)にやって来(き)た日本武尊(やまとたけるのみこと)の配下(はいか)の人々(ひとびと)が、ここの川(かわ)でかわいたノドをうるおし、疲(つか)れをいやし、生気(せいき)を養(やしな)ったという。そこから「養沢(ようざわ)」の名(な)がおこった。

4.伊奈(いな)(五日市町(いつかいちまち))

むかし、信濃国(しなののくに)(今(いま)の長野県(ながのけん))伊奈郡(いなぐん)からたくさんの石工(いしく)が移(うつ)り住(す)んだので、この名(な)がついた。天正(てんしょう)18年(ねん)(1590)、家康(いえやす)入国(にゅうこく)の後(のち)は、江戸(えど)城(じょう)の石垣(いしがき)づくりなどの御用(ごよう)をつとめたという。
別(べつ)の説(せつ)では、「谷間(たにあい)の村(むら)」という意味(いみ)だともいう。

5.大久野(おおくの)(日(ひ)の出町(でまち))

むかし、ここに大久野(おおくの)という山伏(やまぶし)(修験者(しゅげんじゃ)。野山(のやま)をめぐり歩(ある)いて修行(しゅぎょう)する人(ひと))が住(す)んでいた。そこからついた地名(ちめい)だという言(い)い伝(つた)えがある。林業(りんぎょう)が中心(ちゅうしん)で、元禄(げんろく)以来(いらい)(1688~)、モミの木(き)の卒塔婆(そとば)を特産(とくさん)にしていた。
卒塔婆とはお墓にたてる細長い板のこと

6.駒木野(こまきの)(青梅市(おうめし))

むかし、村人(むらびと)が絹(きぬ)でおおってつかまえた馬(うま)を鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)の将軍(しょうぐん)に献上(けんじょう)したところ、それがすぐれて良(よ)い馬(うま)だった。そこで「駒絹(こまきぬ)」という地名(ちめい)がついたらしい。それがもとなんだね。
なし、だいすきー 畑(はたけ)が多(おお)く、野菜(やさい)や穀物(こくもつ)のほか、綿(わた)や煙草(たばこ)を作(つく)っていて、田(た)んぼの間(あいだ)には、栗(くり)や柿(かき)、梨(なし)を植(う)えていた。また多摩川(たまがわ)の鮎(あゆ)もとっていた。

江戸(えど)時代(じだい)のあの村(むら)、この村(むら)その2

文化文政ころの三多摩むらマップ

7.八王子(はちおうじ)横山(よこやま)十五宿(じゅうごしゅく)(八王子市)

ここは甲州(こうしゅう)街道(かいどう)の駅(えき)のひとつ。十五宿(じゅうごしゅく)のうち、横山宿(よこやまじゅく)が第一(だいいち)なので「横山(よこやま)十五宿(じゅうごしゅく)」とよばれた。
「横山宿(よこやまじゅく)」 4日・14日・24日と、毎月(つき)4の日(ひ)に市(いち)がたち、織物(おりもの)や、魚(さかな)・野菜(やさい)などが売(う)り買(か)いされた。
「新町(しんちょう)」 いちばん東(ひがし)はじの宿(しゅく)。
「本宿(ほんじゅく)」 武蔵(むさし)七党(しちとう)のうちの横山党(よこやまとう)の土地(とち)で、古(ふる)くからひらけていた。
「八日市宿(ようかいちじゅく)」 8日・18日・28日と毎月(つき)8の日(ひ)に市(いち)がたつので、この名(な)がついた。
「寺町(てらまち)」 寺(てら)が多(おお)くあるので、この名(な)がついた。
「八幡宿(はちまんしゅく)」 八幡(はちまん)神社(じんじゃ)にちなむ地名(ちめい)だといわれる。
「八木宿(やぎしゅく)」 天正(てんしょう)年中(ねんじゅう)(1573~1592)に八木(やぎ)源左衛門(げんざえもん)という人(ひと)の屋敷(やしき)があったのでこの名(な)がついたという。小田原(おだわら)北条(ほうじょう)氏(し)の家臣(かしん)だったのだろうといわれる。
「横町(よこちょう)」 八幡宿(はちまんしゅく)と八日市宿(ようかいちじゅく)の間(あいだ)を北(きた)に横切(よこぎ)るので、この名(な)がついた。
「島之坊宿(しまのぼうじゅく)」 修験者(しゅげんじゃ)、島之坊(しまのぼう)の先祖(せんぞ)の俊盛(としもり)という人(ひと)が文禄(ぶんろく)4年(ねん)(1595)ここに坊(ぼう)(僧(そう)の住居(じゅうきょ))をたてたことにちなむ。つまり、その坊(ぼう)の名(な)が「島之坊(しまのぼう)」だったわけ。
「小門宿(おかどじゅく)」 江戸(えど)時代(じだい)のはじめ、代官(だいかん)、大久保(おおくぼ)石見守(いわみのかみ)長安(ながやす)(としょかんこどもしりょう 32「八王子千人同心多摩をゆく」を読(よ)めば、どんな人(ひと)かわかるよ)が屋敷(やしき)をかまえ、東(ひがし)に表門(おもてもん)、北(きた)に裏門(うらもん)、そして裏門(うらもん)のところには訴(うった)えのための百姓宿(ひゃくしょうやど)がならんでいた。「御門宿」「於門宿」と書(か)かれたけれど、長安(ながやす)亡(な)きあとは「小門」に改(あらた)められた。
「馬乗宿(うまのりじゅく)」 江戸(えど)時代(じだい)のはじめ、代官(だいかん)屋敷(やしき)があって、その門(もん)の前(まえ)で乗馬(じょうば)のけいこをしたので、この名(な)がついた。
「子安宿(こやすじゅく)」 天平(てんぴょう)宝字(ほうじ)3年(ねん)(759)、聖武(しょうむ)天皇(てんのう)が光明(こうみょう)皇后(こうごう)の安産(あんざん)を祈(いの)って建(た)てた「子安(こやす)神社(じんじゃ)」にちなむ。
かぞえてみてー これに「久保宿(くぼじゅく)」「本郷宿(ほんごうじゅく)」「上野原宿(うえのはらじゅく)」を加(くわ)えて、十五宿(じゅうごしゅく)となります。

8.町田(まちだ)(町田市(まちだし))

江戸(えど)時代(じだい)に「本(ほん)町田(まちだ)」と「原(はら)町田(まちだ)」の二(ふた)つの村(むら)に分(わ)かれた。
農業(のうぎょう)のあいまに男(おとこ)の人(ひと)は炭(すみ)を焼(や)き、女(おんな)の人(ひと)は蚕(かいこ)を飼(か)った。
本(ほん)町田(まちだ)村(むら)は毎月(まいつき)7の日(ひ)、原(はら)町田(まちだ)村(むら)は毎月(まいつき)2の日(ひ)に市(いち)がたって、江戸(えど)から遠(とお)く離(はな)れた場所(ばしょ)なのに宿場(しゅくば)のようににぎやかだったらしい。

江戸(えど)時代(じだい)のあの村(むら)、この村(むら)その3

文化文政ころの三多摩むらマップ

9.福生(ふっさ)(福生市(ふっさし))

土地(とち)の人(ひと)は方言(ほうげん)で「フッチャ」といった。アイヌ語(ご)で麻(あさ)を意味(いみ)する古(ふる)い言葉(ことば)の「総(ふさ)(房)」や多摩川(たまがわ)沿(ぞ)いの「阜沙(ふさ)」(みずぎわの丘(おか)の意味(いみ))がなまって「ふっさ」になったという説(せつ)がある。
農業(のうぎょう)のあいまには多摩川(たまがわ)に出(で)て筏(いかだ)を作(つく)って流(なが)したり、魚(さかな)をとったりしていた。

10.五ノ神(ごのかみ)(羽村市(はむらし))

熊野社(くまのしゃ)、第六天社(だいろくてんしゃ)、神明社(しんめいしゃ)、稲荷社(いなりしゃ)、子ノ(ねの)神社(じんじゃ)、と村(むら)の中(なか)に神社(じんじゃ)が5つあることから、この名(な)がついた。

11.箱根ケ崎(はこねがさき)(瑞穂町(みずほまち))

古(ふる)くから歌(うた)にもよまれている地名(ちめい)。「筥(はこ)の池(いけ)」が「狭山(さやま)」のふもとにあって、狭山(さやま)が岬(みさき)のようにでいりしている地形(ちけい)なので、「狭山(さやま)の根(ね)(もと)にある筥(はこ)の池(いけ)」ということで、「はこね」という。そして、狭山(さやま)のはりだした様子(ようす)は「崎(さき)」のようなので「はこねがさき」となった。
別(べつ)の説(せつ)では、狭山(さやま)丘陵(きゅうりょう)をハコ(神(かみ)さまの住(す)む)ネ(山(やま))として、そのサキ(先(さき))にある村(むら)なので、ともいわれる。

12.岸(きし)村(むら)(武蔵(むさし)村山市(むらやまし))

むかしむかしの多摩川(たまがわ)のなごりである残堀川(ざんぼりがわ)が流(なが)れていて、その岸(きし)にあるのでこの名(な)がついた、という。
北側(きたがわ)の山(やま)のふもとに農家(のうか)がちらばっている。風(かぜ)で畑(はたけ)の土(つち)が吹(ふ)きちらされるので、防風(ぼうふう)のために宇津木(うつぎ)(高(たか)さ1~2メートルの落葉樹(らくようじゅ)。生垣(いけがき)などに使(つか)われる)を植(う)えていた。

13.拝島(はいじま)(昭島市(あきしまし))

ここから11里(り)(約(やく)43キロメートル)ほど多摩川(たまがわ)上流(じょうりゅう)の日原(にっぱら)村(むら)(今(いま)の奥多摩町(おくたままち))から、むかし大日(だいにち)如来(にょらい)の像(ぞう)が流(なが)れてきた。夜(よる)には光(ひかり)をはなって輝(かがや)くので村人(むらびと)はこれを拝(おが)み、村(むら)に迎(むか)えて大切(たいせつ)にしたので、ついた地名(ちめい)だ。
農業(のうぎょう)のあいまに蚕(かいこ)を飼(か)い、糸(いと)をつむぎ、織物(おりもの)をし鮎(あゆ)をとって江戸(えど)へ出(で)て売(う)っていた。

14.百草(もぐさ)(日野市(ひのし))

草(くさ)の茂(しげ)る場所(ばしょ)だったので、むかしは「茂草(もぐさ)」と書(か)いた。「百草(もぐさ)」と書(か)くようになったのは江戸(えど)時代(じだい)以降(いこう)。
村(むら)の中(なか)の松連寺(しょうれんじ)というお寺(てら)の経筒(きょうづつ)(経典(きょうてん)を入(い)れて経塚(きょうづか)に埋(う)めるために使(つか)う筒(つつ))に「長寛(ちょうかん)」(1163~1165)、「永萬(えいまん)」(1165~1166)、「建久(けんきゅう)」(1190~1199)などの年号(ねんごう)が記(しる)してあるので、かなり古(ふる)い村(むら)だってことだ。

15.乞田(こった)(多摩市(たまし))

柿、だいすきーここも鎌倉(かまくら)・室町(むろまち)時代(じだい)から見(み)える地名(ちめい)。多摩市(たまし)や日野市(ひのし)はむかし「吉富郷(よしとみごう)」とよばれたけれど、「吉富」という字(じ)は「キツト」という音(おと)にあてた字(じ)だろうといわれていて、「キツト」は「乞田(こった)」のことだ、という説(せつ)がある。
農業(のうぎょう)のあいまに蚕(かいこ)を飼(か)い、柿(かき)の木(き)をたくさん植(う)えて、実(み)を江戸(えど)に出荷(しゅっか)していた。

16.矢野口(やのくち)(稲城市(いなぎし))

むかしは「谷野口」「谷ノ口」とも書(か)き、「古沢(ふるさわ)村(むら)」とか「砂田(すなだ)村(むら)」とか呼(よ)ばれたりもしたそうだ。
なるほどね 村(むら)の言(い)い伝(つた)えでは多摩川(たまがわ)の流(なが)れがよこぎる村(むら)に、8軒(けん)の家(いえ)があった。それで「八人口(はち・にん・くち)」の3字(じ)をひとつにして「谷」の字(じ)になるので「谷ノ口(やのくち)」と言(い)うようになったとか。水田(すいでん)が多(おお)い土地(とち)で、農業(のうぎょう)のあいまには炭(すみ)を焼(や)いた。

17.府中宿(ふちゅうじゅく)(府中市(ふちゅうし))

番場宿(ばんばじゅく)、本町(ほんまち)、新宿(しんしゅく)の三宿(さんじゅく)を合(あ)わせて、こう呼(よ)ぶ。甲州(こうしゅう)街道(かいどう)の宿(しゅく)のひとつ。三宿(さんじゅく)でかわるがわる駅(えき)をひらいて、旅行者(りょこうしゃ)のための人手(ひとで)や馬(うま)を出(だ)していた。1ヵ月(げつ)のうち12日間(にちかん)が本町(ほんまち)で、のこりの日数(にっすう)を番場宿(ばんばじゅく)と新宿(しんしゅく)で分(わ)けて受(う)け持(も)った。
「番場宿(ばんばじゅく)」 名前(なまえ)の由来(ゆらい)ははっきりしない。けれど小田原(おだわら)北条(ほうじょう)氏(し)がここに川越(かわごえ)街道(かいどう)の番所(ばんしょ)(見張(みは)り所(じょ))をおいていたから、とか六所宮(ろくしょのみや)(大國魂(おおくにたま)神社(じんじゃ)のこと)の競馬式(けいばしき)がここでおこなわれたから、とかの説(せつ)がある。
「本町(ほんまち)」 府中宿(ふちゅうじゅく)の中心(ちゅうしん)。江戸(えど)時代(じだい)、番場宿(ばんばじゅく)と新宿(しんしゅく)が独立(どくりつ)したために、こう呼(よ)ばれるようになった。
「新宿(しんしゅく)」 府中(ふちゅう)の三宿(さんじゅく)の中(なか)でできるのがいちばん遅(おそ)かったので、こう呼(よ)ばれた。

18.青柳(あおやぎ)(国立市(くにたちし))

府中宿(ふちゅうじゅく)から一里(いちり)(約(やく)3.9キロメートル)離(はな)れた甲州(こうしゅう)街道(かいどう)沿(ぞ)いの村(むら)。
むかし、この村(むら)は多摩川(たまがわ)の南岸(なんがん)の青柳島(あおやぎしま)というところにあって、寛文(かんぶん)11年(ねん)(1621)にここに移(うつ)って来(き)た。
青柳島(あおやぎしま)は楊柳(ようりゅう)(カワヤナギやシダレヤナギ)が多(おお)くあるのでおこった地名(ちめい)だ。

19.柴崎(しばさき)村(むら)(立川市(たちかわし))

戦国(せんごく)時代(じだい)から見(み)える地名(ちめい)。小田原(おだわら)北条(ほうじょう)氏(し)に属(ぞく)した立河(たちかわ)氏(し)の領地(りょうち)だった。普済寺(ふさいじ)がその館跡(やかたあと)だと伝(つた)えられる。

20.砂川(すながわ)村(むら)(立川市(たちかわし))

岸(きし)村(むら)(今(いま)の武蔵(むさし)村山市(むらやまし))の村野(むらの)助右衛門(すけえもん)という人(ひと)がここを開拓(かいたく)して、のちに砂川(すながわ)氏(し)をなのるようになった。「砂川(すながわ)」というのはここの古(ふる)くからの地名(ちめい)だ。助右衛門(すけえもん)さんの残(のこ)した記録(きろく)では慶長(けいちょう)14年(ねん)頃(ごろ)(1609)開拓(かいたく)されたらしい。

21.宅部(やけべ)(東大和市(ひがしやまとし))

地名(ちめい)の由来(ゆらい)はわからない。
「屯倉部(みやけべ)」(大和(やまと)朝廷(ちょうてい)の領地(りょうち)からとれた米(こめ)をしまっておく倉(くら)。さらに朝廷(ちょうてい)の直接(ちょくせつ)の領地(りょうち)を意味(いみ)する)がなまって「やけべ」になったのではないか、という説(せつ)がある。
今(いま)は、大部分(だいぶぶん)の面積(めんせき)が村山(むらやま)貯水池(ちょすいち)にかかって水底(みなそこ)に沈(しず)んでいる。

22.久米川(くめがわ)(東村山市(ひがしむらやまし))

「久目川」「来目川」「貢馬川」とも書(か)く。ここの北側(きたがわ)を流(なが)れる柳瀬川(やなせがわ)を久米川(くめがわ)とも呼(よ)んでいて、それが地名(ちめい)になったもの。
農業(のうぎょう)のあいまに蚕(かいこ)を飼(か)い、薬草(やくそう)を植(う)え薬種(やくしゅ)(薬(くすり)の材料(ざいりょう))を作(つく)ったりしていた。

23.小川(おがわ)(小平市(こだいらし))

わたしのまちよーこのあたりは武蔵野(むさしの)の原野(げんや)だったのでまわりじゅう平(たい)らな土地(とち)だ。
林(はやし)と陸田(りくでん)が多(おお)い。村(むら)の中(なか)には鎌倉(かまくら)から、陸奥(むつ)(今(いま)の青森県(あおもりけん))へむかう街道(かいどう)が走(はし)っていて、府中(ふちゅう)・国分寺(こくぶんじ)・恋ヶ窪(こいがくぼ)を通(とお)って小川(おがわ)に至(いた)る。岸(きし)村(むら)の小川(おがわ)九郎兵衛(くろべえ)という人(ひと)が武蔵野(むさしの)の石塔ヶ窪(せきとうがくぼ)というところから開発(かいはつ)をしたのがはじまりで、村(むら)も九郎兵衛(くろべえ)さんの名(な)によっている。

24.廻(めぐ)り田(た)(小平市(こだいらし)・東村山市(ひがしむらやまし))

今(いま)の東村山市(ひがしむらやまし)にあった方(ほう)の廻(めぐ)り田(た)村(むら)が小平(こだいら)の廻(めぐ)り田(た)新田(しんでん)の親(おや)村(むら)なんだ。
草(くさ)をとるために野中(のなか)新田(しんでん)から買(か)い受(う)けた土地(とち)だった。
『新編(しんぺん)武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)』のころの小平(こだいら)の廻(めぐ)り田(た)新田(しんでん)は、人家(じんか)はわずか15軒(けん)。真桑瓜(まくわうり)などを植(う)え、江戸(えど)や八王子(はちおうじ)に売(う)り出(だ)したりしていた。

25.恋ヶ窪(こいがくぼ)(国分寺市(こくぶんじし))

「鯉ヶ窪」とも書(か)く。湧(わ)き水(みず)が豊富(ほうふ)で、野川(のがわ)の水源(すいげん)となっている。むかし、鎌倉(かまくら)から奥州(おうしゅう)(今(いま)の東北(とうほく))へ向(む)かう街道(かいどう)が通(とお)って、にぎやかな駅(えき)だったという。
夙妻(あさづま)大夫(たゆう)という女(おんな)の人(ひと)が恋人(こいびと)の畠山(はたけやま)重忠(しげただ)(鎌倉(かまくら)時代(じだい)の武士(ぶし)。武蔵(むさし)の人(ひと))のウソの戦死(せんし)の知(し)らせに迷(まよ)って自殺(じさつ)したという伝説(でんせつ)が残(のこ)っている。たしかに地名(ちめい)もそれっぽいね。
一方(いっぽう)、国府(こくふ)(府中(ふちゅう))に近(ちか)い窪(くぼ)だから、とか、湧(わ)き水(みず)にめぐまれた窪(くぼ)で、鯉(こい)を飼(か)い、旅人(たびびと)に提供(ていきょう)したので、とかいう説(せつ)もある。

26.田無(たなし)(西東京市(にしとうきょうし))

なんてわかりやすいなまえなんだ武蔵野(むさしの)台地(だいち)にあって、田(た)んぼが無(な)いことからこの名(な)がついたという。
毎月(まいつき)1、11、21の1の日(ひ)と、6、16、26の6の日(ひ)には市(いち)がたった。

 

 

27.柳久保(やなぎくぼ)(東久留米市(ひがしくるめし))

今(いま)は「柳窪」と書(か)くよね。ここは黒目川(くろめがわ)の水源(すいげん)で、土地(とち)が肥(こ)えていた。水田(すいでん)と陸田(りくでん)は半々(はんはん)ぐらい。

28.清戸(きよと)(清瀬市(きよせし))

八王子(はちおうじ)城主(じょうしゅ)、北条(ほうじょう)氏照(うじてる)にとって、ここも重要(じゅうよう)な軍事(ぐんじ)拠点(きょてん)だった。だから戦国(せんごく)時代(じだい)には番所(ばんしょ)が置(お)かれていた。上(かみ)・中(なか)・下(しも)の清戸(きよと)村(むら)と、清戸(きよと)下宿(したじゅく)にわかれたのは、江戸(えど)時代(じだい)になってから。下宿(したじゅく)の南(みなみ)には「子(こ)は清水(しみず)」と呼(よ)ばれる清水(しみず)が湧(わ)いた。大人(おとな)が飲(の)むと酔(よ)っぱらうのに、子(こ)どもが飲(の)んだら真水(まみず)だった、という伝説(でんせつ)の水(みず)だ。

29.保谷(ほうや)(西東京市(にしとうきょうし))

「保屋(ほうや)」とも書(か)く。地名(ちめい)は開拓者(かいたくしゃ)の名(な)によるともいうが、確(たし)かではない。

30.吉祥寺(きちじょうじ)(武蔵野市(むさしのし))

ここと三鷹(みたか)の連雀(れんじゃく)は事情(じじょう)が似(に)ている。
明暦(めいれき)の大火(たいか)で江戸(えど)本郷本町(ほんごうほんちょう)(今(いま)の文京区(ぶんきょうく))の吉祥寺(きちじょうじ)の門前(もんぜん)の住人(じゅうにん)が五日市(いつかいち)街道(かいどう)沿(ぞ)いに移住(いじゅう)してきたことからはじまる名(な)だ。

31.連雀(れんじゃく)(三鷹市(みたかし))

30吉祥寺(きちじょうじ)で言(い)ったとおり、明暦(めいれき)の大火(たいか)が始(はじ)まりなんだ。
神田(かんだ)連雀町(れんじゃくちょう)の人々(ひとびと)が火除地(ひよけち)としてとりあげられた土地(とち)のかわりにここに移住(いじゅう)して、ついた名(な)だ。

32.飛田給(とびたきゅう)(府中市(ふちゅうし))

『続日本(しょくにほん)後記(こうき)』(869年(ねん)成立(せいりつ)。日本(にっぽん)の歴史(れきし)の本(ほん))に天長(てんちょう)10年(ねん)(834)5月(がつ)、多摩郡(たまぐん)と入間郡(いるまぐん)の境(さかい)に悲田処(ひでんしょ)(貧(まず)しい人(ひと)や、みなし子(ご)を救(すく)う施設(しせつ))を置(お)いた、と書(か)かれている。
ここは悲田処(ひでんしょ)の給地(きゅうち)(税金(ぜいきん)を免除(めんじょ)された土地(とち))で、もとは「悲田給(ひでんきゅう)」と書(か)いたのを同(おな)じ音(おと)の「飛(ひ)」を使(つか)うようになって、いつのころからか「飛田(とびた)」となったのではないか、と伝(つた)えられる。

33.貫井(ぬくい)(小金井市(こがねいし))

「温井」とも書(か)く。湧(わ)き水(みず)が地盤(じばん)をくぐって、ぬき通(とお)っている、という意味(いみ)で「抜井」。
それから湧(わ)き水(みず)の温度(おんど)が高(たか)いので「温井」、などなど、いろんな説(せつ)がある。小平(こだいら)の鈴木(すずき)新田(しんでん)を開発(かいはつ)した鈴木(すずき)利左衛門(りざえもん)はこの村(むら)の出身(しゅっしん)なんだよ。

お江戸(えど)周辺(しゅうへん)ガイドブック

お江戸周辺ガイドブック
江戸時代の人もレジャーが好きだったんだ 江戸(えど)時代(じだい)は、幕府(ばくふ)が編集(へんしゅう) した 地誌(ちし)『新編(しんぺん)武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)』のほかにも、お江戸(えど)や、そのまわりの名所(めいしょ)・旧跡(きゅうせき)を案内(あんない)する本(ほん)がたくさん出版(しゅっぱん)された。
経済(けいざい)が発達(はったつ)したし、交通(こうつう)や治安(ちあん)が整備(せいび)されたこともあって、この時代(じだい)、見物(けんぶつ)旅行(りょこう)や、神社(じんじゃ)・お寺(てら)まいりのレジャーにでかける人(ひと)が増(ふ)えた。だから、こういった案内(あんない)の本(ほん)は(今(いま)でいうガイド・ブックだねー)、みんなから大歓迎(だいかんげい)されたんだ。


地誌というのはその土地のようすを記したものです その中(なか)から『新編(しんぺん)武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)』とほぼ同(おな)じ頃(ころ)に出版(しゅっぱん)された地誌(ちし)、『武蔵(むさし)名勝(めいしょう)図会(ずえ)』と『江戸(えど)名所(めいしょ)図会(ずえ)』のふたつから、当時(とうじ)の三多摩(さんたま)の見(み)どころをいくつか拾(ひろ)ってみました。その内容(ないよう)といったら、神社(じんじゃ)のお祭(まつ)りの年間(ねんかん)スケジュールから、その地方(ちほう)で起(お)きた不思議(ふしぎ)な出来事(できごと)まで、「うーん、ここまで調(しら)べてのせたか!!」と思(おも)わずうなるシロモノだ。

 

『武蔵(むさし)名勝(めいしょう)図会(ずえ)』
こどもきょうどしりょうNo32を参考にしてね 『新編(しんぺん)武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)』の調査(ちょうさ)のため、武蔵国(むさしのくに)を歩(ある)きまわった八王子(はちおうじ)千人(せんにん)同心(どうしん)のメンバーの1人(ひとり)、植田(うえだ)孟縉(もうしん)が書(か)きあらわした。調査(ちょうさ)の仕事(しごと)にたずさわる中(なか)から生(う)まれてきたのだから、『新編(しんぺん)武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)』の兄弟分(きょうだいぶん)みたいなもの。『新編(しんぺん)武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)』の多摩郡(たまぐん)の部(ぶ)ができあがった文政(ぶんせい)5年(ねん)(1822)のよく年(ねん)に『武蔵(むさし)名勝(めいしょう)図会(ずえ)』は完成(かんせい)し、昌平坂(しょうへいざか)学問所(がくもんじょ)の林(はやし)述斎(じゅつさい)に献上(けんじょう)された。

『江戸(えど)名所(めいしょ)図会(ずえ)』
『新編(しんぺん)武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)』が政府(せいふ)刊行(かんこう)の地誌(ちし)ならこちらは民間(みんかん)編集(へんしゅう)の地誌(ちし)の中(なか)で最大(さいだい)最高(さいこう)といわれる濃(こ)い内容(ないよう)の本(ほん)。寛政(かんせい)年間(ねんかん)(1789~1801)に神田(かんだ)の名主(なぬし)、斉藤(さいとう)幸雄(ゆきお)が手(て)がけてから、その孫(まご)の斉藤(さいとう)月岑(げっしん)が出版(しゅっぱん)にもちこむまで、親子(おやこ)3代(だい)、40年(ねん)以上(いじょう)もの月日(つきひ)をかけた大事業(だいじぎょう)。天保(てんぽう)5年(ねん)(1834)と天保(てんぽう)7年(ねん)(1836)の2度(ど)に分(わ)け7巻(かん)20冊(さつ)が出版(しゅっぱん)されたんだ。さし絵(え)は長谷川(はせがわ)雪旦(せったん)が受(う)け持(も)った。
江戸(えど)の人(ひと)たちのガイドとしてはもちろん、遠(とお)い地方(ちほう)の人(ひと)たちが江戸(えど)を知(し)るための資料(しりょう)としても、人気(にんき)があった。

ガイドその1.温泉(おんせん)

この世のごくらく

平井(ひらい)村(むら)・鹿(しか)の湯(ゆ)(日(ひ)の出町(でまち))
湯本(ゆもと)は、塩沢山(しおさわさん)宝光寺(ほうこうじ)の本堂(ほんどう)から300メートルばかり北(きた)の谷(たに)あいにあって、「鹿(しか)の井(い)」という。
むかし、ここにキズを負(お)った鹿(しか)がやって来(き)て、治(なお)したといい、遠(とお)くの人(ひと)も、話(はなし)を伝(つた)え聞(き)いて、山(やま)の中(なか)へはいって温泉(おんせん)をくんでくる。
宝光寺(ほうこうじ)を開(ひら)いた文済(もんさい)禅師(ぜんじ)が、みんなの苦労(くろう)を思(おも)って仏陀(ぶっだ)に祈(いの)り、大般若経(だいはんきゃきょう)を唱(とな)えたところ、山(やま)のふもとに温泉(おんせん)が湧(わ)き出(だ)したのだそうだ。お湯(ゆ)は硫黄(いおう)の気(け)が少(すこ)しあって、水(みず)の色(いろ)は白(しろ)い。切(き)り傷(きず)、打撲(だぼく)、骨折(こっせつ)、皮(ひ)ふ病(びょう)によく効(き)く。

小河内郷(おごうちのごう)の温泉(おんせん)(奥多摩町(おくたままち))
もとは小河内(おごうち)村(むら)として、ひとつだったのが、原(はら)村(むら)、河内(こうち)村(むら)、川野(かわの)村(むら)、留浦(とずら)村(むら)の四(よん)か村(そん)に分(わ)かれた。
ここに熊野(くまの)権現(ごんげん)という神社(じんじゃ)があって、またの名(な)を「湯(ゆ)の権現(ごんげん)」、そのそばから温泉(おんせん)は湧(わ)いている。打撲(だぼく)、くじき、頭痛(ずつう)などに効果(こうか)があって、春(はる)から秋(あき)まで治療(ちりょう)におとずれる人(ひと)たちがいっぱいいる。
「鹿の湯の図」 (鹿(しか)の湯(ゆ)の図(ゆ)。「武蔵(むさし)名勝(めいしょう)図会(ずえ)」より)

このころ、西多摩(にしたま)には「七ツ湯(ななつゆ)」といって、ほかに三内(さんない)「藤(ふじ)の湯(ゆ)」、網代(あじろ)「玉(たま)の湯(ゆ)」、檜原(ひのはら)「数馬(かずま)の湯(ゆ)」、長浦(ながうら)「出湯(いでゆ)」、小曽木(おそぎ)「岩蔵(いわくら)鉱泉(こうせん)」という有名(ゆうめい)温泉(おんせん)があった。

ガイドその2.不思議(ふしぎ)だぞ!ほんとうか?!編(へん)

箱根ケ崎(はこねがさき)村(むら)・筥(はこ)の池(いけ)の蛇(じゃ)喰(く)い次右衛門(じえもん)(瑞穂町(みずほまち))
筥(はこ)の池(いけ)は「狭山(さやま)の池(いけ)」ともいった。むかしは大(おお)きな池(いけ)だったけれど、今(いま)は水(みず)がかれてしまった。草(くさ)ぼうぼうの地(ち)ではあるけれど、遠(とお)く峰(みね)からながめると奥深(おくぶか)い趣(おもむ)きがある。
この池(いけ)が水(みず)をたたえていた頃(ころ)、村(むら)の百姓(ひゃくしょう)で次右衛門(じえもん)という人(ひと)がいた。夏(なつ)の暑(あつ)い日(ひ)、池(いけ)で水(みず)あびをしたら、蛇(へび)がからみつき、からだをしめあげてくる。次右衛門(じえもん)は勇(いさ)ましい人(ひと)だったから蛇(へび)を喰(く)いちぎった。すると池(いけ)の水(みず)は紅(あか)い色(いろ)になり、空(そら)はかきくもって鳴(な)りひびいた。
この蛇(へび)は古(ふる)くから筥(はこ)の池(いけ)に住(す)んでいたが、次右衛門(じえもん)に退治(たいじ)されてしまったので、池(いけ)の水(みず)もかれたのだという。
へびをくいちぎったんだねっ

由木領中野(ゆぎりょうなかの)村(むら)・自分(じぶん)の前世(ぜんせ)をおぼえている子(こ)ども(八王子市(はちおうじし))
源蔵(げんぞう)という村人(むらびと)の子(こ)の勝五郎(かつごろう)は、自分(じぶん)の前世(ぜんせ)をおぼえているという。
勝五郎(かつごろう)は文化(ぶんか)12年(ねん)(1815)10月(がつ)10日(とうか)の生(う)まれだが、8才(さい)の時(とき)、14才(さい)になる姉(あね)と遊(あそ)んでいて、「自分(じぶん)の前世(ぜんせ)を知(し)っている」と言(い)いだした。
ぼくなんか宿題だってわすれちゃうけどな 「自分(じぶん)は中野(なかの)村(むら)より2キロメートル>ほど西北(せいほく)の程窪(ほどくぼ)村(むら)に生(う)まれた。父(ちち)は勝五郎(かつごろう)。母(はは)はおしづ。6才(さい)の時(とき)に天然痘(てんねんとう)にかかって死(し)んでからこの家(いえ)に生(う)まれた」と言(い)う。その次(つぎ)の年(とし)の文政(ぶんせい)6年(ねん)(1823)の正月(しょうがつ)。母親(ははおや)とおまいりのかえり、程窪(ほどくぼ)村(むら)を通(とお)りかかると、「これが自分(じぶん)の前世(ぜんせ)の家(いえ)」と勝五郎(かつごろう)は村(むら)の中(なか)の一軒(いっけん)を指(ゆび)さした。その家(いえ)に母親(ははおや)がたずねてみると、勝五郎(かつごろう)が話(はな)したとおりだった。
この不思議(ふしぎ)な話(はなし)は伝(つた)えひろまり、訪(たず)ねてくる人(ひと)も多(おお)い。江戸(えど)でも評判(ひょうばん)の話(はなし)だ。

ガイドその3.やっぱりこれだね、神社(じんじゃ)・お寺(てら)編(へん)

府中宿(ふちゅうじゅく)・総社(そうじゃ)六所宮(ろくしょのみや)(府中市(ふちゅうし))
武蔵国(むさしのくに)の総社(そうじゃ)で、宿(しゅく)の中央(ちゅうおう)に鎮座(ちんざ)している。(つまり大國魂(おおくにたま)神社(じんじゃ)だよ。)
毎月(まいつき)1日(ついたち)・15日(にち)、五節句(ごせっく)、冬至(とうじ)、夏至(げし)、追儺(ついな)、除夜(じょや)の祭(まつ)りには、お神楽(かぐら)をする。
2月(がつ)1日(ついたち)は花(はな)祭(まつ)り。5月(がつ)3日(みっか)の夜(よる)は競馬(けいば)祭(まつ)り。5月(がつ)4日(よっか)、5日(いつか)もお祭(まつ)り。6月(がつ)20日(はつか)、お祭(まつ)り。7月(がつ)7日(なのか)、帷子祭(かたびらさい)。7月(がつ)12~13日(にち)は朝(あさ)まで舞楽(まいがく)。8月(がつ)1日(ついたち)、田面(たも)の神事(しんじ)。11月(がつ)1日(ついたち)は新嘗祭(にいなめさい)。

高幡(たかはた)村(むら)・高幡山(たかはたさん)金剛寺(こんごうじ)(日野市(ひのし))
大宝(たいほう)年中(ねんじゅう)(701~704)に慈覚(じかく)大師(だいし)が開(ひら)いたお寺(てら)。

本堂(ほんどう)の東(ひがし)、不動尊(ふどうそん)古迹山(こせきさん)のふもとに「鼻井(はない)」という井戸(いど)がある。この水(みず)は暦応(りゃくおう)2年(ねん)(1339)に不動尊(ふどうそん)を山(やま)の上(うえ)からここにおろしてきた時(とき)、尊像(そんぞう)の頭(あたま)がおちたところから自然(しぜん)に湧(わ)き出(だ)してきたもの。たとえ1000日(にち)の日照(ひで)りにもひあがらず、数(すう)ヵ月(げつ)、雨(あめ)が降(ふ)ってもあふれない。熱病(ねつびょう)、悪寒(おかん)、はれもの、目(め)の病(やま)いや、痛(いた)いところにつけたり、飲(の)んだりすると治(なお)る。治(なお)らない人(ひと)はいないぞ。

 谷保(やほ)村(むら)・天満(てんまん)天神(てんじん)(国立市(くにたちし))  谷保(やほ)天神(てんじん)のことだよ

むかし、神社じんじゃは本宿ほんじゅく(谷保やほ村むらの東ひがし隣どなり)の南みなみの、天神島てんじんじまというと
津戸三郎為守は鎌倉幕府の御家人ころにあった。養和(ようわ)元(がん)年(ねん) (1181)に津戸(つのと)三郎(さぶろう)為守(ためもり)が夢(ゆめ)のお告(つ)げにしたがって、ここに移(うつ)した。さらにその後(ご)、甲州(こうしゅう)街道(かいどう)の筋(すじ)がかわったので、神社(じんじゃ)の参道(さんどう)も今(いま)のところにつけた。それで入(い)り口(ぐち)よりもお宮(みや)の方(ほう)が低(ひく)い場所(ばしょ)になっちゃった。あたりは杉(すぎ)木立(こだ)ちだ。
例祭(れいさい)は正月(しょうがつ)、2月(がつ)25日(にち)、8月(がつ)24~26日(にち)で獅子舞(ししまい)、神楽(かぐら)などがあり、お祭(まつ)りの人(ひと)が群(む)れをなす。11月(がつ)3日(みっか)には夜(よ)祭(まつ)りだ。氏子(うじこ)は新米(しんまい)を奉納(ほうのう)して、かがり火(び)をたく。
「谷保天神」
(『江戸(えど)名所(めいしょ)図会(ずえ)』より 旧(きゅう)甲州(こうしゅう)街道(かいどう)から見(み)た谷保(やほ)天神(てんじん))

ガイドその4.自慢(じまん)しちゃうぞ、この名物(めいぶつ)!

多磨(たま)(摩)川(がわ)の鮎(あゆ)(府中(ふちゅう)・調布(ちょうふ)あたりから上(かみ)は青梅(おうめ)、羽村市(はむらし)あたりまで)

アユの塩焼きも大好物なんだー
ここいらの名産(めいさん)は鮎(あゆ)。秋(あき)の彼岸(ひがん)になると府中(ふちゅう)領(りょう)より西(にし)の方(ほう)から川上(かわかみ)は三田領(みたりょう)まで、鮎(あゆ)とりを命(めい)じられて、川筋(かわすじ)の村々(むらむら)は毎年(まいとし)、幕府(ばくふ)に納(おさ)めている。ここの鮎(あゆ)は相模川(さがみがわ)の鮎(あゆ)などとは形(かたち)も違(ちが)い、味(あじ)もいい。幕府(ばくふ)御用(ごよう)の鮎(あゆ)は網(あみ)でとって、いけすに飼(か)っておく。そして決(き)められた日(ひ)に納(おさ)める。大(おお)きすぎず小(ちい)さすぎず、15センチほどのがいい。鳥(とり)の鵜(う)をあやつってとると鮎(あゆ)にきずがつくので、御用(ごよう)の向(む)きには使(つか)えない。
ほかに、ハヤ、マス、ナマズ、ウナギ、カジカ、ヤマメ、イワナなどがとれる。
「多磨川の図」 (『江戸(えど)名所(めいしょ)図会(ずえ)』より 多磨川(たまがわ)の図(ず))

 河辺(かわべ)村(むら)の玉川(たまがわ)焼(やき)(青梅市(おうめし)) 

「河辺焼(かわべやき)」ともいう。楽焼(らくやき)といって、ゆびで形(かたち)づくり、低(ひく)い温度(おんど)の火(ひ)で焼(や)く陶器(とうき)だ。つくり始(はじ)めて20年(ねん)くらいだ。(江戸(えど)時代(じだい)の文化(ぶんか)文政(ぶんせい)のころから見(み)て20年(ねん)ということですよ。)江戸(えど)へも送(おく)って、「玉川(たまがわ)焼(やき)」といっている。

江戸のガイドブックをながめてみました
<クイズのこたえ>

  1. とずらむら
  2. うずしきくみ
  3. ことづらくみ
  4. さんないむら

参考(さんこう)にした本(ほん)

「新編(しんぺん)武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)」
「角川(かどかわ)地名(ちめい)大辞典(だいじてん)」
「武蔵(むさし)名勝(めいしょう)図会(ずえ)」
「江戸(えど)名所(めいしょ)図会(ずえ)」
「多摩(たま)の歴史(れきし)」
多摩(たま)の地名(ちめい)研究(けんきゅう)をされている保坂(ほさか)芳春(よしはる)先生(せんせい)にもたいへんおせわになりました。

小平市に関すること

小平市に関することへのメニュー
1.小平市内めぐり 2.小平れきし年表・小平の街道
4.探検!郷土資料室 5.みんなの町のなまえ
6.小平の鉄道の歴史 8.わたしたちの小学校
9.小平はじめて物語 10.戦争と小平
13.小平こだいらの道 14.小平歳時記
15.小平の新田 16.古い地名
19.公園に行こうよ! 26.小平のごちそう うどん
36.ぼくらの町の仕事(1)こだいらの農業 37.ぼくらの町の仕事(2)こだいらの商業

多摩に関すること

多摩に関することへのメニュー
12.多摩戦国絵巻 18.多摩の絹の道 シルクロード
20.風雲!新選組 21.楽しい施設ガイド
25.東京のできるまで 27.神奈川県から東京府へ多摩移管百年うそ?ほんと?クイズ
29.多摩の芸能 32.八王子千人同心多摩をゆく
35.多摩の酒造 39.江戸時代の東京  文化文政(1800年代初め)の三多摩編

江戸・東京に関すること

江戸・東京に関することへのメニュー
23.幸運招来! 東京七福神めぐり 24.東京の水道
28.江戸をたのしむ 30.わたしのまちの木・花・鳥とシンボルマーク
38.江戸時代の東京  文化文政(1800年代初め)の特別区編 40.花の江戸城  Part1
41.花の江戸城  Part2  

玉川上水・小金井桜に関すること

玉川上水・小金井桜に関することへのメニュー
3.玉川上水をしりたい 7.玉川上水とあそぼう!
17.満開!小金井桜 31.野火止用水をゆけば

その他

その他へのメニュー
11.武蔵武士 22.コレラが町にやって来た
33.これが武蔵国だっ! 34.地震にそなえて

掲載日 令和7年8月1日