問題編 多摩は東京ではなかった!? うそ?ほんと?クイズ
問題1
三多摩は明治5年1月29日から、明治29年3月31日まで埼玉県に属していた。これ、うそ? ほんと?
問題2
三多摩を東京府に移そうというおおもとの理由は、 東京の水道問題 だった。これ、うそ?ほんと?
問題3
明治3
年4
月15
日から、
玉川上水で
船による
運輸が
始まった。この
便利なルートは
明治のあいだずっと続いた。これ、うそ? ほんと?
問題4
明治時代、日本中をあばれまわったコレラは、空気感染による伝染病だった。これ、うそ? ほんと?
問題5
明治19年はコレラ大流行の年。この夏、利根川上流で、コレラ患者の汚れものを洗たくしちゃった、というニュースが流れ、東京市民はまっ青になった。これ、うそ? ほんと?
問題6
今のJR中央線のもとである川越鉄道は明治22年4月に新宿から立川まで開通した。これ、うそ? ほんと?
問題7
明治時代、三多摩は自由民権運動の中心地だった。この地域を東京府に移すことは、神奈川県にとって自由党の力を弱めるねらいもあった。これ、うそ? ほんと?

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解決編

こたえ1 うそ
三多摩は
神奈川県だった。
時代が
江戸から
明治にうつるとしばらくの
間は、
政治のしくみがかわったり、
区域の
分け
方がかわったり、いろいろめまぐるしかったようだ。その
中で、
明治5
年1
月29
日、
三多摩は
神奈川県に
属することになった。
明治26
年4
月1日に
東京府に
移されるまでの20
年あまり、
三多摩は
神奈川県だったんだよ。
こたえ2 ほんと
三多摩を
東京府に
移そうという
話は、
東京の
人びとの飲み水の管理問題からおこった。
幕末の
開国以来、
日本にはいろいろな
伝染病が
上陸するようになった。わけても、
大流行し、
多くの
死者を
出したコレラの
予防に
水の
衛生は
欠かせない
条件だ。
ところが
水源である
多摩川や、
玉川上水は
上流が
神奈川県に
属している。だから、
問題がおこるたび、
東京府はいちいち
神奈川県にかけ
合わねばならない。これはわずらわしいことだった。

さらに、
明治19
年には
多摩川上流につながる
堀で、コレラ
患者の
汚れ
物を
洗たくしちゃった!というニュースは
流れるは、
明治24
年には、
東京府にことわりなく
神奈川県が
大事な
水源林を
切る
許可を
出してしまうは…でさんざんだった。これはどうしても、
西・
北多摩郡をこちらに
移して
水源流域を
直接管理しなくっちゃ!と
東京府は
思ったのだった。
こたえ3 うそ
玉川上水を
船が
通ったのはわずか2
年間のことだった。
明治3
年4
月15
日、
玉川上水に
船を
通して
東京に
品物を
運びたいというまわりの
村々からの
願い
出が、
明治政府に
許可された。

そのころ、
多摩の
品物を
東京へ
運ぶには、
人や
馬が
背負ったり、いかだで
多摩川を
下ったり、という
方法をとっていた。
玉川上水を
利用すれば、
近くて
便利だし、
第一、
船なら
馬の25
倍もの
荷物を
一度に
運ぶことができる。
羽村と
四谷大木戸の
間の
通船はあっという間に盛んになった。ところがこのために玉川上水の汚れがひどくなってきた。大切な飲み水を守るため、明治5年4月15日に政府は通船を禁止する命令を出した。人びとはこの後10年もの間、根気強く再開を願い出続けたけれど、もう二度と許されることはなかった。
こたえ4 うそ
コレラは飲み水や食べ物などによって口からはいったコレラ菌が原因でかかる病気。お米のとじ汁のような下痢と嘔吐(吐くこと)をくり返して、からだ中の水分がぬけ、ほおっておけば数日でほとんどの患者が死んでしまう。
コレラは別名『衛生の母』ともよばれる。この病気の流行はみんなに清潔な環境とか、病気の予防とかに取り組ませるきっかけとなるからだ。
日本でも例外にもれず、伝染病予防に関する法律だの、衛生会だのがつくられ、各都市では、より衛生的な改良水道(木の樋にかえて鉄製の水道管を使う近代的水道)を作ろう! という気運が高まった。
こたえ5 うそ
利根川上流ではなくて、
多摩川上流につながる
堀で、というニュースが
流れた。
明治のコレラ
大流行は10
年、12
年、15
年、18
年、19
年、23
年、28
年、35
年とやって
来たが、わけても
明治19
年はひどかった。
全国で15
万人以上の
人がコレラにかかり、10
万人以上が
死んだ。
東京の
避病院では、あまりに
多い
患者を
受け
入れきれず、
市内の
火葬場では
徹夜で
死者を
焼きつづけたが
追いつかない、という
悲惨なありさまだった。
そういう
年の、しかもコレラまっさかりの8
月、とんでもないニュースが
流れた。
神奈川県西多摩郡長淵村(
今の
青梅市)で、コレラ
患者の
汚れ
物を
多摩川上流につながる
堀で
洗たくしちゃった!というのだ。
玉川上水の
上流で
洗った、というウワサも
流れた。
多摩川はみんなの
飲み
水、
玉川上水の
水源だ。それがコレラ
菌に
汚染していたら…。
東京の
人びとはふるえあがった。
後ですぐ「
洗たくの
場所は
支流の
水たまりで
本流には
関係ない。
消毒もちゃんとした。」と
訂正のニュースが
流れたけれど、この
事件は
東京の
人びとの
水道への
関心をさらにもりあげたのだった。
こたえ6 うそ
甲武鉄道が正しい。まず、東京から羽村を通って、青梅まで馬車鉄道を作ろうという計画がたてられた。多摩の産物を運ぶためだ。明治16年から許可を願いでたけれど、おりしもあちこちで汽車鉄道計画がおこりはじめた。そこで明治19年、馬車鉄道にかえて、汽車鉄道の願いを出しなおし、明治21年1月21日に許可がおりた。
工事は明治21年6月から始まって、明治22年4月11日には、立川~新宿間の線路が完成。その上を走ったのはイギリス製の蒸気機関車。時速は40キロメートル。はじめのころは単線で、立川と新宿の間には「国分寺」「境」「荻窪」「中野」の4駅しかなかったけれど、4ヶ月後の8月11日には、さらに八王子まで線路がのびた。この甲武鉄道によって東京はぐーんと近くなった。
こたえ7 ほんと
東京府が
欲しかったのは、
水源流域の
西・
北多摩郡だった。ところが「
三多摩は
歴史的なつながりがある。
南多摩も
合わせて
三郡一緒にどうぞ。」と
神奈川県からの
申し
出があって、そろって
東京府に
移ることになった。
三多摩は
自由民権運動の
中心地。この
地域がそろって
東京府へ
移ったら、
神奈川県の
自由党の
力が
弱まるのは
目に
見えている。
東京の
飲み
水問題とはまた
別に、
神奈川県の
政治問題としても、
三多摩の
東京府への
移管はとらえられ、
賛成派、
反対派入り
乱れ、もめてしまうのだった。


としょかんこどもきょうどしりょう
3
玉川上水をしりたい…
6
小平の
鉄道の
歴史
22 コレラが
町にやって
来た
24
東京の
水道
25
東京のできるまで

小平市に関すること
多摩に関すること
江戸・東京に関すること
玉川上水・小金井桜に関すること
その他