多摩から生まれた新選組

多摩は天領(将軍の領地)で、天保6(1835)年5月に小川村が支配地になったのをはじめとして、次第に小平の大半の村々は江川太郎左衛門英竜の治める土地となる。英竜は開国をせまられる日本を広い知識を持って守ろうと考えた人だった。英竜が農兵制度を提案した時、幕府では農民に武器を与えることは危険だという意見があった。それに対し、英竜は「多摩の地方はそんな心配はない。」と答えている。そして、多摩の各地に農兵隊が組織され、日野農兵隊や小野路農兵隊など、自分の地域を守るために活やくしている。小平の村々は田無農兵隊として武州一揆を制圧している。
だいたい多摩は武蔵武士が活やくした土地で、後北条や武田の家来であった人が住みついて農民になっていたり、ふだん農業をしながら、いざという時は武士として活やくする八王子千人同心という人たちがいる土地柄だ。さらに幕末になって世の中が落ち着かなくなってくると、名主など豊かな農民たちは、自衛や護身のために武術を身につける者がめずらしくなかった。
天然理心流という武術の流派は、多摩一帯のこうした人々の間に広まった。近藤勇はその4代目の跡取りであり、土方歳三、井上源三郎らは門下生だ。そして多摩で生まれ、育った男たちだ。
名主たちが自分の家に作った道場に近藤らは、小石川の試衛館から出げいこに通っていた。
幕府が、世情不安な京にのぼる将軍家茂を護衛する目的で浪士を募集した時、近藤たちはすぐさま、それに応じた。
京にのぼった浪士の集団は「新選組」となり、やがて歴史に名を残す組織として動き出すのである。
近藤 勇(1834~1868)
上石原村(
今の
調布市)の
豊かな
農家、
宮川家の
三男として
生まれる。1848(
嘉永元)
年、
天然理心流3
代目、
近藤周助邦武に
入門。
才能を
認められ
養子となって4
代目をつぐ。
出げいこで、
多摩の
村々を
歩きまわり、
特に
日野の
名主、
佐藤彦五郎と
小野路(
今の
町田市)の
名主、
小島鹿之助(
為政)とは
仲が
良かった。
口の
大きい、
眉のせまった
顔つきだがにこにこすると
両方のほっぺたにえくぼがあいて、やさしい、いいところがあったと
言う。
土方 歳三(義豊)(1835~1869)
石田村(
今の
日野市)の
生まれ。やはり
大きな
農家の五
人兄弟の
末っ
子。
嘉永のころ、
姉の「のぶ」がとついだ
佐藤彦五郎の
道場で
剣術を
学び、
近藤と
親しくなった。
俳句を
作り「
豊玉集」という
句集を
残している。
佐藤 彦五郎(1828~1902)
わずか11才で家をつぎ、日野宿の名主となる。1850(嘉永3)年ごろから近藤周助の弟子になった。
1854(安政元)年の品川の大砲台の建設に寄付をしたり、1862(文久2)年のコレラ流行には薬を寄付したり、日野農兵隊を指揮して、日野宿を武州一揆から守ったり、代官、江川太郎左衛門から、そのがんばりぶりをほめられている。
近藤たちが京都で新選組を作ってからは、お金を送ったり、江戸や多摩に残った隊士の家族の面倒をみたりした。
小島 鹿之助(1831~1900)
小島家は小野路村(今の町田市)の旧家。鹿之助(為政)はその20代目。18才で名主となる。やはり天然理心流を学び、佐藤とならんで近藤勇たちの心からの協力者だった。
小島家には今も、新選組の人々から送られてきた手紙が残っている。
井上 源三郎(? 1868年、戦死した時40才だったというが…)
兄の松五郎や、土方とともに、佐藤家の道場で天然理心流を学ぶ。松五郎は千人同心としてつとめた人。源三郎は、近藤・土方とともに京にのぼり、新選組三番隊長としてかつやく。人のよい、無口な人物だったという。
天然理心流と試衛館
天然理心流は遠江の人、近藤内蔵之助長裕を初めとする武術。2代目を加住村戸吹(今の八王子)の出身の三助方昌がつぎ、3代目を小山(今の町田市)出身の周助邦武がついだ。多摩を中心に育った実戦向きの流派だ。
道場は名を「試衛館」といい、小石川柳町(今の文京区。かなり新宿よりの場所だ)にあった。
近藤たちは多摩の村々へ、ここから出げいこに通った。
試衛館のかおぶれ
沖田総司 奥州白河藩脱藩。
試衛館時代は20才そこそこであったが、剣の腕は天才的と言われた。けいこは荒っぽく「敵は刀で斬るな。からだで斬れ。」と教えたという。
背が高く、肩はあがり気味。ほお骨が高く、口が大きく、色黒であいきょう者だった。京都でも、近所の子どもたちと鬼ごっこをしたり、冗談を言ってばかりだったという。
永倉新八 松前藩脱藩。
腕は神道無念流。
原田左之助 伊予松山藩脱藩。
種田宝蔵院流、槍のつかい手。
山南敬助 仙台藩脱藩。
千葉周作の道場で、北辰一刀流の免許をもらっている。色白のあいきょう顔。学問もあるし、剣もよく使い、子ども好きだったという。
藤堂平助
同じく、北辰一刀流の目録をもらっている。
幕末年表
幕末年表
| 年 |
できごと |
| 1853(嘉永6) |
- 6月3日 ペリー、軍艦4隻をひきいて、浦賀に来航。
|
| 1854(安政元) |
- 3月3日 日米和親条約をむすぶ。
|
| 1858(安政5) |
- 4月23日 井伊直弼、大老となる。
-
- 6月19日 井伊大老、天皇の許しを得ぬまま日米修好通商条約をむすぶ。
- 9月ごろより、安政の大獄はじまる。
- 10月25日 徳川家茂、第15代将軍となる。
この年、コレラ流行。 |
| 1860(万延元) |
- 3月3日 桜田門外の変。水戸藩士ら18人、江戸城桜田門外で井伊大老を暗殺。
- 11月1日 皇女和宮が徳川家茂と結婚すると発表される。
|
| 1862(文久2) |
- 1月5日 坂下門外の変。家茂と和宮の縁談をすすめた老中安藤信正、江戸城坂下門外で水戸浪士らにおそわれ、ケガをする。
-
- 2月11日 家茂・和宮結婚。
- 8月21日 生麦事件。武蔵国生麦村(今の神奈川県)で薩摩藩の行列を乱したのを理由にイギリス商人が殺される。
- ・うるう8月1日 会津藩主・松平容保、京都守護職となる。
この年より、尊王攘夷運動高まる。
|
| 1863(文久3) |
- 2月23日 清河八郎ひきいる浪士組、京都の壬生村に到着する。
- 3月4日 将軍家茂、家光以来229年ぶりに京の二条城へはいる。
- 3月13日 居残った近藤勇、芹沢鴨ら京都守護職おあずかりとなる。
- 5月10日 長州藩、下関海峡を通るアメリカ商船を攻撃。
- 7月2~4日 薩英戦争おこなわれる。
- 8月18日 8・18政変(クーデター)おこる。
会津藩と薩摩藩が手を組んで、尊王攘夷派の長州藩を京都から追い出す。 |
| 1864(元治元) |
- 6月5日 池田屋騒動。新選組、京都三条小橋の池田屋に集まっていた長州藩士らと戦う。
-
- 7月19日 蛤御門の変(または禁門の変)。池田屋事件をきっかけに、長州藩対会津・薩摩藩の戦い、おこる。新選組も出陣。
- 8月2日 幕府、諸藩に第1次長州征伐出陣を命じる。
- 8月5~14日 アメリカ・フランス・イギリス・オランダの4か国の連合艦隊と長州藩、戦う。(下関戦争)
|
| 1865(慶応元) |
- 4月19日 幕府、第2次長州征伐を命じる。
|
| 1866(慶応2) |
- 1月21日 薩長同盟が成立。
- 6月7日 幕府軍艦、長州征伐を開始。戦闘が始まると長州藩連勝。(第2次長州征伐)
- 7月20日 家茂、大坂城で病死。
- 12月5日 一橋慶喜、第15代将軍となる。
- 12月25日 孝明天皇、崩御(亡くなる)。
この年、世直し一揆、最もはげしくなる。 |
| 1867(慶応3) |
- 1月 日 明治天皇、即位。
- 10月15日 将軍慶喜、大政奉還。
- 11月15日 坂本龍馬、中岡慎太郎、京都近江屋で暗殺される。
- 12月9日 王政復古の大号令。
この年、8月以降、「ええじゃないか」のさわぎ、広がる。 |
| 1868(慶応4・明治元) |
- 1月3日 鳥羽・伏見の戦い。(戊辰戦争はじまり)
- 1月12日 新選組、江戸にはいる。
- 3月1日 甲陽鎮撫隊、甲府へむかう。
- 3月6日 勝沼戦争。
- 4月1日 近藤勇、流山で降伏。
- 4月11日 江戸城、無血開城。
- 4月25日 近藤勇、板橋宿で刑死。
- 5月15日 上野戦争。彰義隊敗れる。
- 9月22日 会津藩、降伏。
- 10月 旧幕府海軍の榎本武揚ら、軍艦で北海道へ。箱館・五稜郭をねじろに新政府に対抗する。
|
| 1869(明治2) |
- 3月ころより 新政府軍、陸と海から大軍をもって五稜郭を攻撃。
- 5月11日 土方歳三、戦死。
- 5月17日 榎本武揚、降伏。
戊辰戦争、おわる。 |
幕末の日本

日本開国
1853(嘉永6)年6月3日、ペリー来日、開国をせまる。この時から日本の大さわぎがはじまる。
時の孝明天皇は、強い攘夷論者。しかも幕府内では将軍のあとつぎをめぐり、紀州の徳川慶福(のちの家茂)と前水戸藩主の徳川斉昭の子、一橋慶喜が候補にあがってもめている。
この混乱の中、1858(安政5)年4月、彦根藩主(今の滋賀県)井伊直弼は大老となった。その年の6月19日には、天皇の許しを得ぬまま、日米修好通商条約をむすぶ。同じ月の25日には、次の将軍を慶福と決定。積み重なる問題を井伊大老はパッパッパッと片づけてしまった。
しかし、攘夷論者や、慶喜を支持していた人々は、天皇の許しを得ない条約を責めた。井伊大老は、自分に反対する大名や公家、多くの志士たちをきびしく罰した。これが安政の大獄だ。
1860(万延元)年3月3日、雪の降りしきる中、井伊大老は桜田門外で暗殺された。
かりにも幕府の大老という重い地位にある者が、日中道ばたで討ちとられてしまうとは…。
この事件は、幕府の力が衰えてきた証拠でもあった。
尊王攘夷
開国によって、尊王攘夷運動が盛んになった。外国との貿易で日本国内の経済は大混乱。輸出のため、国内では品不足がつづき、物価はあがる。一部の商人をのぞいて、みんなのくらしは苦しくなった。幕府に反対する気持ちはつのり、「尊王」「攘夷」の考えをもつ、志士たちが京都を中心に活やくしはじめた。文久のころになると尊王攘夷派の人々の中から「王政復古」、つまり幕府を倒して、天皇中心の政府を作ろう、という声があがってくる。長州藩はその中心で中・下級の武士たちが行動をおこした。尊王攘夷派の人たちは京の町で「天誅」(天にかわって罪ある者を討つ)として、暗殺をおこないはじめた。
これに対し、幕府は、1862(文久2)年うるう8月に、会津28万石の藩主、松平容保を京都守護職に任命。攘夷派に対抗して、京都の警備にあたらせた。
「尊王」は天皇をうやまい、尊ぶ考え方。「攘夷」は外国とつき合うことに反対し、追いはらおうという考えかた。この2つはもとは別々のものの考え方なんだけれど、幕末になると結びついて、幕府に反対する人たちの合い言葉のようになった。そして幕府を倒し、かわって天皇中心の政権をつくろう、という考え方にすすんでいく。
外国と戦争をした藩
1863(文久3)年5月10日。長州藩は下関海峡を通るアメリカ商船を攻撃。攘夷を実行しはじめた。
また、この年7月2日~4日には、薩摩藩がイギリスから、前の年8月15日におこった生麦事件のしかえしを受け、鹿児島湾で戦っている。
長州藩も、よく1864(文久4)年、8月5日には下関海峡でも外国船攻撃のしかえしを、イギリス・アメリカ・フランス・オランダの連合艦隊から受けた。
結果、薩摩・長州は、外国の軍事力を身をもって知り、ただ「攘夷」を叫ぶのではなく、外国から学びとらねばならないものがあることに気づいていった。
動乱の京都
この時期、天皇のいる京都で誰が権力を持つか、というのはとても大事な問題だった。
1863(文久3)年8月18日、会津藩と薩摩藩は、しめし合わせてクーデターをおこし、尊王攘夷の中心である長州藩を京都から追い出した。
このころから、新選組の京都市中の見廻りも始まる。
1864(文久4)年6月5日の池田屋騒動は長州藩にしりぞいた攘夷を強く主張する人々をいきりたたせ、京にのぼらせた。
その年、7月19日、会津・桑名・越前など10あまりの藩の連合軍と、長州藩は戦い、敗れた。わずか1日の戦いながら、戦火ははげしく、京の町は3日間燃えつづけた。これを“蛤御門の変”または“禁門の変”という。
長州征伐
1864(文久4)年8月2日、「蛤御門の変で御所に発砲した長州を討て」と幕府は諸藩に命令を出した。その年11月18日には、長州を総攻撃する手はずだったが、この時、外国の4か国連合艦隊からも攻撃を受けていた長州は、幕府に許しをこうた。その一方で、知識を得、近代的な軍備をそろえるため、イギリスと仲良くなった。
1865(慶応元)年9月21日、再び長州征伐の命令が下った。「長州藩がけしからん企てをしているから」というのが理由だった。が、はっきりしない理由だし、こんな時期に大軍を動かせば天下が乱れる、と反対する大名も多かった。
1866(慶応2)年6月、第2次長州征伐開始。戦争が始まってみると、長州藩は勝ちつづけ、その最中、7月に将軍家茂は病死。12月、一橋慶喜が将軍となり、長州征伐も引きついだが、退却せざるを得なかった。
この月。幕府と協力し合ってゆく方針だった孝明天皇が崩御。幕府の権威はガタガタになってくる。
百姓一揆・うちこわし・ええじゃないか
同じく文久ごろから増えはじめた「百姓一揆」「うちこわし」も幕府を悩ませる種だった。1866(慶応2)年5月11日には大阪で、8月には兵庫でうちこわし。江戸でも5月28日、品川から始まり、6月には四谷・本所でうちこわし。6月7日は川越藩で米の値下げを求める世直し一揆。6月13日に秩父郡名栗村から始まった武州一揆はたちまちのうち武蔵国13郡に広がった。
さらに、1867(慶応3)年、秋から冬にかけて「ええじゃないか」という踊りが大流行した。何百・何千の人々が、タイコ、笛を鳴らしながら「ええじゃないか、ええじゃないか」と叫び、踊り狂いながら金持ちの家にあがりこみ、酒やたべものをせびる。そのありさまはうちこわしも同じだ。
「ええじゃないか」は京都・大阪を中心に、神戸・横浜・江戸・甲府・会津まで広がった。「うちこわし」なら数日だが「ええじゃないか」は1ヶ月以上続く。主だった都市の働きはマヒしてしまい、幕府はどうすることもできなかった。
「百姓一揆」
農民が領主に対しておこす闘争。年貢を減らしてもらうこと、や代官をかえてもらうことなど目標をあげておこなわれることが多い。
「うちこわし」
都市の大商人とか村の金持ちなどをおそって、家や道具をこわし、食料など品物の安売りを約束させたりする。ききんと物価の値上がりなどが原因。
「ええじゃないか」
幕府をこまらせるため、倒幕派がしかけたという説もあるが、もともとあった伊勢神宮への「おかげまいり」の信仰が大ばくはつしたともいわれ、原因ははっきりしない。
薩長軍事同盟
土佐藩出身の浪人、坂本龍馬と中岡慎太郎は、1865(慶応元)年の1年間を、薩摩藩と長州藩の仲なおりのため、かけずりまわっていた。文久3年以来、「蛤御門の変」や第1次長州征伐など、長州は薩摩にひどい目に合わされて来た恨みがある。だから仲は悪かった。
しかし、日本を一つにまとめるためには、薩摩藩と長州藩の協力がどうしても必要だ。
1866(慶応2)年1月22日、龍馬と慎太郎の努力は実った。薩摩の西郷隆盛、長州の桂小五郎は話し合い、王政復古のため協力し合うことを約束。ニ藩の軍事同盟が成立した。
さらに1867(慶応3)年10月には、倒幕派の公卿・岩倉具視から、幕府を討つ許しをひそかに得た。
大政奉還-政権を朝廷に返す-
1867(慶応3)年10月3日、土佐の前藩主、山内豊信は平和に事がおさまるよう願い、幕府に「大政奉還」の意見を申し出た。政権を朝廷に返してしまえば、長州・薩摩が幕府を倒す理由はなくなるはずだ。
10月14日、慶喜は朝廷に大政奉還を申し出て、受け入れられた。徳川の勢力はとりあえず今まで通り残ったが、倒幕派にとっては落ち着かない。これはいつしかえしされるかわからないあぶない状態だ。諸藩は薩長につくべきか、幕府を助けるべきか迷っている。おまけに一般の人たちは「ええじゃないか」騒ぎ。
“幕府の勢力をつぶそう!”倒幕派は決心して立ち上がった。
12月9日、薩摩藩の大久保利通、西郷隆盛を中心に、「王政復古の大号令」が発せられ、新政府の誕生が宣言された。
戊辰戦争
幕府を叩きつぶすには、まずむこうから攻撃させることだと西郷隆盛はわざと相手をおこらせるようしむけた。
1868(慶応4)年1月1日、ついに将軍慶喜は戦う決心をし、諸藩に兵を集めるよう連絡した。
会津・桑名藩の兵を合わせ、旧幕府軍は1万5,000人。大坂城を発ち、鳥羽・伏見を通る道すじで京都をめざした。
一方、1月3日の朝廷の会議で、薩摩藩と長州藩は武力で解決すべきだと岩倉具視にせまり、慶喜を「朝敵」(朝廷にさからう敵)とすることに成功。
伏見は長州藩、鳥羽は薩摩藩が中心となり、計4,500人の兵で旧幕府軍を迎えた。
戦いは1月3日、午後5時ごろ開始。人数こそ勝ったものの「朝敵を討つ」という名目を持ち、西洋式の軍備を整えた薩長軍の前に旧幕府軍は敗れるほかはなかった。
この戦いをはじまりに、日本は1年以上つづく「戊辰戦争」という国内戦争にはまりこんでいく。
戦争のはじまった1868年の干支が「戊辰」なので、こう言われる。
江戸無血開城
1868(慶応4)年1月7日、有栖川宮熾仁親王は御所に大名たちを集め、大政奉還は名ばかりで「鳥羽・伏見の戦い」をおこした慶喜を討てと命令を出した。反対する者は前土佐藩主・山内豊信ただひとり…。
2月15日、薩摩・長州・土佐・肥前・芸州の5藩、5万人の兵は江戸をめざし進軍。迷っていた他の藩も、ほとんど新政府側についた。
慶喜はひたすらつつしみ従う姿勢をとり、旧幕府側の陸軍総裁・勝海舟は3月13、14日の2日間、西郷隆盛と戦いをさけるための話し合いをもった。その結果、江戸城は戦いの血を流すことなく、4月11日に開かれ、江戸の町は火の海にならずにすんだ。
が、この降伏に不満な一部の幕臣たちは、各地で戦闘をおこした。
彰義隊は上野のお山にたてこもり、旧幕府の海軍副総裁榎本武揚は、新政府に軍艦をひきわたすことをこばんだ。
4月11日、開陽丸ら8隻をひきいて江戸を脱出した。
北越戦争
1868(慶応4)年うるう4月19日、奥羽(東北)地方25藩は新政府に対抗するため同盟を結んだ。さらに5月3日には、北陸地方、越後の長岡藩ら6藩がこれに加わった。同盟の中心となったのは会津・庄内・米沢・仙台の4藩。
新政府軍は江戸よりさらに北上。5月の長岡戦争をはじまりに、8月23日には会津藩の城下町、若松に突入。若松城は1万数千人の敵をひき受け、集中攻撃された。飯森山にたてこもった白虎隊(16~7才の少年中心の会津の部隊)は互いに刺しちがえ命を絶った。
その後、東北諸藩はつぎつぎに降伏。孤立した会津藩もひと月城にたてこもったのち、9月22日降伏。
この間9月8日、元号は「明治」となり、9月20日、明治天皇は京都を出発。よく月東京城(江戸城)入城。東京が首都となる。
箱館戦争
榎本武揚ひきいる軍艦も、北越戦争の応援のため、8月19日東北に向かう。会津が落城ののちは、10月12日北海道をめざした。同乗するのはもと老中、板倉勝清、小笠原長行、もと新選組土方歳三ら総勢2,800人。10月20日北海道に上陸、25日には箱館の五稜郭を占領。ここに徳川一門を迎え、王国を建設しようと夢見た。
しかし、よく1869(明治2)年3月から、新政府軍は薩摩の黒田清隆らが指揮をとり、海から陸から、大軍をくり出した。
5月11日には、箱館総攻撃がはじまり、土方歳三は戦死。
5月17日、榎本武揚は新政府軍に降伏。1年5ヵ月にわたる戊辰戦争はようやく終った。
幕末の人々
井伊直弼(1815~1860)
近江彦根藩主か

ら、
幕末の
大変な
時期、
幕府大老となる。
将軍あとつぎ
問題、
外交問題をいっき
解決。
反対者は
安政の
大獄でとりしまり、あげくに
桜田門外で
暗殺されてしまった。
「(
外国と
戦って)
敗れ、
国の
一部をとられる
目にあえば、こんな
侮辱はない。
外国の
申し
出をことわってそういう
目にあうのと、
天皇の
許しをまたず
条約をむすんで
国をはずかしめないのと、どっちが
大事か。(
中略)
勝手に
条約を
結んだ
罪は
自分一人で
受ける
覚悟だ。」と
井伊大老は
考えていた。
横浜そばの
掃部山公園には
井伊直弼の
像がたって、この
開港の
町を
見つめている。
(
井伊直弼は「
掃部守」という
役目についていた。)
江川太郎左衛門英竜(1801~1855)
江川家は鎌倉時代からの伊豆韮山の名門。代々、代官として武蔵、相模、甲斐など、広大な土地を支配してきた。
1835(天保6)年、35才で家を継いだ英竜は、西洋の事情や兵学の知識に詳しかった。1853(嘉永6)年、ペリーが来日し、開国をせまると、幕府から、海の防衛する役目をまかせられた。
英竜は、品川台場(大砲台)をつくり、伊豆韮山には反射炉をつくって大砲を製造した。
その知識の広さに、桂小五郎も教えをこうている。
農民たちを兵隊として訓練し、防衛にあたらせようと提案(農兵隊のこと)したのも英竜だ。
徳川家茂(1846~1866)
和歌山藩主斉順の
次男。1858(
安政5)
年6
月、
井伊大老らにおされ、13
才で
徳川14
代将軍となる。
こういう
時期に
将軍になってしまったため、
苦労ばかりで、
心を
痛めることが
多かった。そのためか、
第2
次長州征伐のまっさいちゅうの
大坂城で、わずか21
才で
病死。
家茂の
死は
幕府の
危機をさらに
深刻にした。
孝明天皇(1831~1866)
1846(
弘化3

)
年2
月、
即位。
孝明天皇は
攘夷論者だったがそれはあくまで
幕府と
協力し
合う(
公武合体)という
考えの
上に
立っていた。
妹和宮を
家茂にとつがせもした。その
天皇が、
家茂と
前後して
亡くなり、その
次に
即位した
第2
皇子の
明治天皇(
当時16
才)は
倒幕派にもりたてられた
天皇だった。
孝明天皇崩御によって
幕府はますます
苦しい
事態においこまれる。
皇女和宮(1846~1877)
井伊直弼が
暗殺されると、
幕府は
権威をとり
戻すのに
一生懸命になった。そのあらわれの
一つが「
公武合体政策」で
公(
朝廷)と
武(
幕府)の
協力を
唱えるものだ。
将軍家茂と
孝明天皇の
妹、15
才の
和宮の
結婚話もこうしておこった。
和宮には
有栖川熾仁親王といういいなずけがあったが「
天下のため」と
言われ、
泣く
泣く
従うほかなかった。
“
住みなれし
都路出でて きょういく
日 いくぞもつらき
東路のたび”
これは
和宮が
江戸へ
旅立つその
日の
気持ちを
詠んだ
歌だ。
和宮は
家茂亡き
後も
江戸にとどまり、
戊辰戦争以降は
新政府軍の
江戸進撃や、
徳川に
対する
扱いについて、
朝廷に
願い
出て、
江戸の
無血開城にかくれた
働きをした。
松平容保(1835~1892)
会津藩9
代目藩主。1860(
万延元)
年には、「
桜田門外の
変」
後の
水戸藩と
幕府の
仲なおりに
一役買ったりして、
能力ある
人物だと
見こまれていた。
1862(
文久2)
年、
幕府は「
京都守護職」という
役目をつくり、
乱れる
京の
町を
守るため、
容保を
推した。
会津の
家老たちは“
薪を
背負って
火の
中に
飛びこむようなもの”と
止めたし、
本人も
家来たちの
苦労を
思ってことわったが
許されなかった。
孝明天皇からもその
誠実な
人がらを
信頼され、
望まれて、
京都守護職をつとめた。
そのために、
大政奉還後、
会津は、
志士たちをとりしまったとして
新政府軍から
攻撃の
的にされる。
降伏後の
容保は、その
身が
許され、
年をとったあともこの
当時のことはいっさい
人に
語らなかったという。
徳川(一橋)慶喜(1837~1913)
水戸藩主、
徳川斉昭の
七男。
徳川幕府15
代、「
最後の
将軍」となる。
この
人も、「
頭がいい」と
評判だったが、
安政の
大獄では
謹慎(
公の
用事以外、
外出を
許されない)を
命じられた。
井伊大老の
死後、
許され、1862(
文久2)
年、
将軍家茂の
後見役となり、1866(
慶応2
年)に
将軍職をついだ。
大政奉還し、
明治の
世となってからは、
静岡にひきこもり、
公の
場から
遠ざかった。
坂本龍馬(1835~1867)
土佐藩の
郷士の
次男として
生まれる。19
才で
江戸に
出て、
千葉周作の
道場で
学び、1862(
文久2)
年、
土佐藩の
考え
方に
反対して
脱藩。その
年、
勝海舟の
弟子となり、
神戸に
海軍操練所をつくるため、
勝を
助け、がんばる。ところが、
勝が
長州・
薩摩の
藩士と
仲がいいのを
幕府ににらまれ、
操練所はすぐ
閉められてしまった。(1864
年)
龍馬は
薩摩藩に
身をよせ、のちの「
海援隊」のはじまりとなる
海運業にのりだす。
子どものころは「
泣き
虫」というあだ
名だったそうだが、
大人になってからは、いつも
人より
一歩先を
考えられる
人物になっていた。
同じく
土佐藩の
郷士の
家に
生まれた
中岡慎太郎(1838~1867)と、
薩長同盟を
成立させ、
維新成功のもとをつくった。
大政奉還後、
京都近江屋で1867(
慶応3)
年11
月、
2人そろって
暗殺される。
桂小五郎(1833~1877)

のち、「
木戸孝允」と
名を
改める。
西郷隆盛、
大久保利通とならび、“
維新の
三傑”(
明治維新に
大きな
働きをした3
人)と
言われる。
長州藩士の
家に
生まれて、
幼いころはからだが
弱かったとか。
吉田松蔭の
弟子になり、また、
江川太郎左衛門英竜からは
西洋の
兵術を
学んだ。1862(
文久2)
年から
京都で
活やくしはじめ、1864(
元治元)
年の
池田屋騒動では、あやういところで、
新選組の
手をのがれた。
感情が
激しく、
日本のことを
心配して
大泣きしたこともあったという。また
詩歌を
楽しむしゃれた
人でもあったという。
西郷隆盛(1827~1877)
薩摩藩の
下級武士の
家に
生まれる。
藩主島津斉彬はかしこい
殿さまだったので、
西郷の
能力を
見抜き、
江戸に
出してやったり、いろいろな
人と
会わせて、その
知識を
広めるのに
力を
貸した。
第2
次長州征伐以降は、
薩摩藩の
倒幕派のリーダーとして
活やく。
「
命もいらず、
名誉もいらず、
地位も、お
金もいらない
人は
始末に
困る。でも、この
始末に
困る
人でなければ、
苦労をともにして、
国の
大仕事をすることはできない。」と
西郷さんは
言っているよ。
勝海舟(1823~1899)
幕府の
家臣の
代表人物。
江戸本所亀沢町に
生まれ、
家は40
石ほどの
御家人。くらしは
貧しかった。
西洋の
学問にはげみ、1855(
安政2)
年幕府のほんやく
係となる。また、
幕府が
長崎につくった
海軍伝習所(
海軍技術を
教える
学校)でオランダの
海軍士官から
技術とともに
西洋の
知識も
学びとる。
1860(
万延元)
年には、
咸臨丸艦長として
日本の
軍艦で
初めて
太平洋をわたり、アメリカを
訪れた。
明治維新には、
幕府か、
薩摩・
長州かというよりも、
日本そのものの
将来が
一番大事という
考え
方で
西郷隆盛と
話し
合い、
江戸城を
無血開城にみちびいた。
山内豊信(容堂)(1827~1872)
土佐藩第15
代藩主。
寛容(
心が
広いこと)でありたいと「
容堂」と
号した。すぐれた
人材をどんどんとりあげ、
藩の
改革につくし、この
時代のかしこい
殿さまの
一人として
評判だった。
家臣の
後藤象二郎や
坂本龍馬の
意見をとりいれ、
慶喜に
大政奉還をすすめた。
外様大名ではあったが、
徳川氏と
親しく、また
深い
同情をよせていたのだ。
だから、1867(
慶応3)
年12
月9日の
小御所会議では
徳川をかばって
公卿岩倉具視とはげしい
言い
争いもくりひろげた。
明治になってからは、
政治の
話はいっさいせず
趣味の
生活をおくった。
「
身長高く、
少しあばた
面。
早口。でも、かたよったものの
見方はせず、
考え
方も
古くさくなかった。」というのはイギリス
公使の
書記官アーネスト・サトーの
見た
容堂だ。
榎本武揚(1836~1908)
幕府の
家臣。
江戸に
生まれる。
勝と
同じく、
長崎の
海軍伝習所で、
海軍技術を
学ぶ。
1861(
文久元)
年には、オランダに
留学。1866(
慶応2)
年、
帰国。
海軍奉行となる。
幕府が
倒れると、
降伏をいさぎよしとせず、
海軍の
艦隊をひきいて
箱館・
五稜郭にたてこもり、
新政府軍に
抵抗。のち
降伏する。
敵側の
参謀であった
薩摩の
黒田清隆は、
榎本を
死刑にしないため、
熱心に
頼んでまわった。そのため3
年の
監獄入りで
許され、
明治5
年6
月からは
黒田とともに
北海道開拓の
仕事につく。
その
後も、
科学・
産業・
外国の
事情などにはば
広い
知識をもつ
榎本は
新政府にも
重く
用いられたが、
箱館戦争でともに
戦った
人々を
忘れることがなかったという。
残された
家族などがくらしに
困っていれば
救いの
手をさしのべたそうだ。
岩倉具視(1825~1883)
公卿。1854(安政元)年、孝明天皇の侍従となる。とても気の強い侍従だったらしい。
和宮と家茂の結婚を強くおしすすめたため、一時朝廷から追われていた。
その間に薩摩藩士らとつきあって、いつしか倒幕の陰の指導者になっていた。
大久保利通(1830~1873)
薩摩藩の
下級武士の
家に
生まれる。
藩主の
父、
島津久光にひきたてられ、
藩の
政治に
加わるようになった。
大政奉還の
時、
武力で
幕府を
討ち
倒すことを
強く
主張した。

新選組の歴史
1.浪士募集
1862(
文久2)
年の
暮れ、
幕府は
浪士の
募集をした。
庄内三
藩出身の
清河八郎という
人の
案だった。このころ、
京を
中心に
攘夷を
叫ぶ
浪人たちが
動きまわり、いつ、
何がおこるかわからない。
来年の
春には、
将軍家茂がその
京へのぼるのだ。
家茂の
護衛と
京の
町の
安全をまかせたい、と
呼びかけたのだった。
近藤勇ら、
試衛館の
人々はすぐさまこの
募集に
応じた。よく1863(
文久3)
年2
月8日、
集められた
浪士たち、200
人あまり、
板橋宿から
木曽路を
通って
京をめざした。
2
月23
日、
京都郊外壬生村に
到着。その
晩、
清河は「この
浪士組の
目的は
尊王攘夷。
家茂護衛のため、というのは、
見せかけのこと」と
発表。
浪士たちも
驚いたが、
幕府はもっと
驚いた。こんなのを
京に
置いておいたら、なおあぶない、というのですぐさま
江戸に
呼び
戻された。しかし、
近藤ら、
試衛館の
一行と
芹沢鴨ら
水戸の
浪士たち、
合わせて10
数人は、「このまま
京に
残り、
将軍家の
役に
立ちたい。」と
京都守護職に
願い
出た。これが
叶って、
居残った
浪士たちは
京都守護職に
属することになり。
壬生村の
郷士、
八木家の
邸を
屯所(
詰める
場所)として
新選組が
誕生。
1863(
文久3)
年9
月18
日、
芹沢鴨が
暗殺され、
局長には
近藤勇、
副長には
土方歳三、
他の
試衛館の
仲間たちも
皆、
幹部となって、
新選組を
作り
上げていった。
募集をして、
隊士もぞくぞく
集まりだした。
隊士の
制服は
浅黄地(
水色に
似ている。
黄みがかった
緑をうすくした
色)の
袖にだんだら
染めを
染めぬいたもの。
旗印には「
誠」の一
字を
記した。
毎朝訓練をおこない、あやしい
浪士をとりしまり、
京都市中をパトロール。だんだんと「
新選組」の
名は
知れわたっていく。
2.局中法度書
新選組には、つぎのようなきまりがあった。
一、士道(サムライの守るべき生き方)にそむいてはいけない。
一、新選組をぬけることは許さない。
一、勝手にお金を工面してはいけない。
一、勝手に裁判をしてはならない。
一、個人的なケンカは許さない。
…これらを守らなかった者には切腹を申しつける、というきびしいきまりだった。
新選組は武士だけの集まりではない。上にたつ、近藤、土方からして農民の出だし、町人だってまざっている。だからこそ、まとめあげるのに厳しいきまりが必要だった、とも言うし、現実の武士たちよりもっと本物の武士でありたいと望んだからこんな厳しいきまりを作ったのだ、とも言う。
3.八月十八日の政変(事件の内容については「幕末の日本」の“動乱の京都”を見てね)
この時が新選組のはじめての出陣らしい出陣である。参加した隊士80人。(52人という説も)
4.池田屋騒動
京都三条小橋、旅館池田屋は、長州藩士や浪士たちのたまり場だった。調べると驚いたことに、「6月20日ごろ、風の強い夜をえらんで御所に火をつけ、松平容保らをおそい、天皇を長州へお連れする」という企てがたてられていた。
1864(元治元)年6月5日、池田屋に志士たちが集まる、と聞いて、午後8時ごろ、新選組は出動。2時間にわたる激しい戦いに、沖田は持病の肺病のため血を吐き、意識を失う。
志士、即死7人。生けどり23人。いずれもえりすぐりの人物で、そのため明治維新は1年遅くなったとも言う。
5.蛤御門の変
池田屋騒動の知らせに、長州藩は怒りまくって京にのぼって来た。1864(元治元)年7月18日、午後8時の鐘を合図に長州藩、出撃開始。京の町はたちまち炎につつまれ、御所にも大砲の弾がとんでくる。
その時、松平容保はすわることもできぬほどの重病。それをおして天皇の前に参上した。
「必ずお守りいたします。」と申し上げる顔は血の気がなく見ていられないほどだったとか。
孝明天皇もその姿にいたく感じ入って「おまえにまかせる」と答えた。この戦いには新選組総勢100人が出陣。
この戦いは、いちばんの激戦地となった場所の名から「蛤御門の変」と呼ばれる。
長州は敗れ、ぞくぞくと自分の国もとへ逃げ戻った。
6.鳥羽・伏見の戦い
1867(慶応3)年10月14日、将軍慶喜は大政奉還し、12月12日には京の二条城を出て大坂城へ移った。新選組は前日11日に伏見をおさえるよう命じられ、会津・桑名藩とともに大坂へ向かった。文久3年から5年間活やくした京の町との別れだ。12月12日調べで66人の隊士は大坂にはいって募集をし、150人となる。
よく年正月3日から、「鳥羽・伏見の戦い」開始。ただし、近藤勇は京都墨染で襲撃された肩のケガのため、沖田は病気が重くなったため、大坂城に残った。新選組出陣の指揮は土方がとっている。
幕府側は総くずれ。6日に慶喜は開陽丸でひそかに江戸に引きあげ、12日、近藤ほか、新選組の生き残り40人あまりも、富士山丸で大坂をたち、江戸をめざした。
7.甲陽鎮撫隊
1868(慶応4)年3月1日。近藤は大久保大和と名のり、若年寄格(大名なみ)、土方は内藤隼人と名のり寄合席格(大きな旗本なみ)の身分となり、「甲陽鎮撫隊」という隊を編成して江戸を出発。江戸にとって大切な拠点となる甲府城をおさえるためだ。資金5,000両、大砲2門、小銃500挺、隊士は200人あまり。
3月4日、勝沼の宿にはいってみると東海・東山・北陸の3本の道から新政府軍はぞくぞくと進んでくる。甲州城もゆうべのうちに板垣退助のひきいる部隊に占領されていた。
3月6日、甲陽鎮撫隊は戦いにのぞんだが敗れ、隊士は120人ほどに減ってしまった。(逃げる者もあったらしい。)
8.近藤勇、刑死
甲陽鎮撫隊はばらばらになり、近藤は下総流山(今の千葉県)で浪士を集めようとしたが、もはや、もう一度戦うことはむずかしいとわかった。
1868(慶応4)年4月1日。土方と別れた近藤は新政府軍に降伏。4月25日には板橋宿で死刑となった。
9.土方歳三、五稜郭へ
近藤と別れた土方は、榎本武揚の軍に加わり、会津戦争で戦った。
会津の城が落ちたのちは、箱館・五稜郭にたてこもった。
1869(明治2)年5月11日、箱館山をうばいかえすため、出陣。馬にまたがり、指揮をとっている最中、銃弾に倒れる。
試衛館の人々のゆくえ (カッコ)内は亡くなった時の年れい
近藤勇 慶応4年4月25日、板橋宿で刑死。(35才)
土方歳三 明治2年5月11日、箱館戦争で戦死。(35才)
井上源三郎 鳥羽・伏見の戦いで戦死。(40才?)
沖田総司 慶応4年6月12日、千駄ケ谷の植木屋の離れで病死。まわりの人たちがふせていたため、近藤の死を知らず、最期まで「どうしたろうか」と心配していたという。(26才)
永倉新八 神田和泉橋で会津に行く、行かないで近藤たちと意見がわかれ、別行動をとる。その後脱藩した松前藩に守られ、明治維新後も生きのびた。大正4年1月5日、北海道小樽で安らかに亡くなった。(76才)
原田左之助 甲州戦の鉄砲きずがもとで亡くなったともいうし、また、近藤らとわかれ、彰義隊に加わり、上野の戦争で亡くなったともいう。(29才?)
山南敬助 慶応元年(2年ともいう)局中法度にそむいたとして切腹。
藤堂平助 慶応3年11月18日、京都油小路で討ち死。(内輪もめのようなもの)
おまけ 彰義隊 上野戦争
彰義隊が作られたのは1868(慶応4)年2月22日。はじめは一橋家の家臣が中心で、謹慎中の慶喜を守るのが目的だった。
やがて、新政府軍の進軍によって混乱のありさまとなった江戸の町の警備もするようになる。上野のお山をねじろにする頃には、さまざまな藩の藩士も加わり、総勢2,000人とも、4,000人とも。
5月5日(今の暦の7月中旬ころ)、彰義隊は上野の山で新政府軍と戦い、わずか半日(6時間とも)で敗れる。
寛永寺の黒門口はもっとも戦いの激しかったところ。

(「写真でみる会津戦争」より)
この絵は土方が、慶応4年春、会津鶴ヶ城で藩主容保から近藤勇の戒名(かいみょう)をうけているところ。戒名は「貫天院殿純忠誠義大居士」
参考にした本
郷土資料室から
「多摩の人物史」
「多摩のあゆみ」 第21号
「町田市史」
「多摩の歴史1」
「多摩の歴史散歩」
「多摩の歴史5」
「日野市史別巻-市史余話」
「町田の歴史をたどる」
参考室
「年表日本歴史」
「日本近現代史小辞典」
「日本史小辞典」
児童参考コーナーから
「ほるぷ 日本の歴史4」
「学研の図鑑 日本の歴史」
一般のコーナーから
「幕末新選組」
「新選組血風録」
「目で見る日本史 維新の青春群像」
「新選組始末記」
小平市に関すること
多摩に関すること
江戸・東京に関すること
玉川上水・小金井桜に関すること
その他