古い地名
小平の今の町のなまえは、昭和37(1962)年10月1日、市制が始まった時につけられたもの。それより前は、「野中新田善左衛門組」とか「大沼田新田」とか新田ごとに地域が分かれていた。(小川新田の一部分は、大正時代に始められた土地開発によって「小平学園東区」というなまえに変わっている。)
小平はもともとが7つの開拓村で、明治22(1889)年4月1日に合併して、ひとつの村になった。江戸時代、村だった地域は大字に分けられ、さらにその中の小さな地域にもなまえがついていた。これを字という。
こうした古い地名は、施設や道路のなまえに残っていたり、暮らしの中で今もなおけっこう使われているものなんだ。

農村では、大正のころまで、あまり「東西南北」という言葉は使われなかった。方角をしめす言葉でいちばん多く使われていたのは「上」と「下」。だいたい西が「上」で、東が「下」。西には京の都があったからね。
次に多いのが「前」と「裏」。南が「前」で、北が「裏」。「前」は日向側のことで、その反対側が「裏」なんだ。
江戸時代までについた地名には「上組」「中組」「下組」とか「前なんとか」「裏なんとか」というのがよくある。
東西南北は、明治になって、教育が新しくなってから、使われだした言葉なんだ。地名に東西南北がつくようになったのも、だから、明治からあと。多摩郡も、「郡区町村編成法」という法律で明治11(1878)年11月18日、西多摩・南多摩・北多摩に分けられた。これが三多摩のはじまり。
(当時、三多摩は神奈川県にはいっていた。東多摩は東京府にはいっていて、明治29(1896)年、南豊島郡と合併し、豊多摩郡となった。)
(『小平郷土研究会 会報第2号』“上・下・前・裏”参考)

いいつたえと地名
九道の辻
所沢街道の、小平市と東村山市のさかい目あたりをこう呼ぶ。
むかし、ここで鎌倉街道・江戸街道・大山街道・奥州街道・引股道・宮寺道・秩父道・清戸道・御窪道の9本の道が交差していて、この名がついた。
「辻」というのは、道が交差したところのことだもんね。
また、ここの一角に桜の老木があった。春には見事な花を咲かせ、「迷いの桜」と呼ばれていた。
根古坂
小川五番に大きな「蚕のたね屋さん」があった。その屋号が根古坂。
府中街道と青梅街道の交差点のところで、このへんの府中街道は坂になっている。
今ではそこを「根古坂交差点」なんて呼んでいる。
石塔が窪
鎌倉街道と青梅街道が交差するところから鎌倉街道を北に100メートルほど行く。
小川九郎兵衛が開拓を始めたのはここだと言われる。
「石塔が窪」というなまえは、江戸時代の末までここに秩父青石の板碑が建っていたからだとか。このへんは、新田義貞の鎌倉攻めの時に、戦場となった久米川の古戦場の近くだから供養のための碑が建てられていたのかもしれないね。
小川新田松花組
平安院と小川村のさかいに穀物倉があって、大凶作にそなえてヒエやアワをたくわえてあった。
その鼻っ先(すぐ目の前のこと)に松の木の大きいのがあった。
その松が花を咲かせるので「松花」。
また、別のいわれには、穀物倉の鼻っ先に松があるから「松ばな」とついたともいう。
山王窪・平安窪・天神窪
「窪」というのは、土地がくぼんでいるところのこと。
小平のこれらの窪は「だいだらぼっち」という雲をつきぬけるほどの大男が富士山をこしらえに行くとき、つけた足あとだといういいつたえも。
-
平安窪
-
学園坂の商店街をくだったところにあるくぼ地。ここは、むかし、沼地だった。大雨が降れば、たちまち底なし沼。船がでるほどだったという。
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山王窪
-
今の小平警察署の少し北あたり。
-
天神窪
-
今の天神町の「いなげや」というスーパーマーケットのあたり。
一本榎
熊野宮ができるより前から、ここに大きな榎が1本あった。
それにちなんでこのあたりは「一本榎」と呼ばれた。
なにしろ、まわりは荒野で、榎は青梅街道を通る旅人にとっていい目印だった。
穴戸
野中新田与右衛門組の東京街道沿い(今の花小金井5丁目あたり)で大きな木の根っこを堀りおこし、そのあとの穴に屋根をかけて、酒やうどんを出す茶店があったとか。
いちばんはやったのは天保年間(1829~1844)で、街道は旅人や荷車がにぎやかに往き来して、青梅街道より盛んなほどだった。

三軒屋
今の花小金井1丁目の南。
どうして、こういうなまえがついたんだろうねえ。
昭和30年代の地図にのっている地名なんだけれどどこにもいわれが書いてなくて…。
知っている人がいたら教えて。
幕張り
たかの
街道と
鎌倉街道がぶつかった
西側。
江戸時代、
小川のあたりは、
徳川ご
三家のひとつ、
尾張大納言のお
鷹場だった。
お
鷹場というのは、
飼いならした
鷹を
使って
狩りをする
場所。

ここは
尾張の
殿さまが、
鷹狩りをごらんになったところで、その
時、のぼり
幕が
張られたので「
幕張り」と
名付けられたと
言い
伝えられている。けれど、これはあくまで
伝説で、
尾張の
殿さまが
実際に
鷹狩りをしたのは
狭山丘陵や
新座・
志木のあたりだったことが
記録に
残されている。このへんで
鷹狩りをしたのは、
鷹匠と
言われる
鷹の
訓練をする
人だった。
二ツ塚
鎌倉街道が
玉川上水を
渡った
南側あたり。ただし、
塚はいつの
間にかなくなっちゃって、
地名しか
残っていない。
ここは
国分寺市の
鎌倉街道沿いに
残る
一里塚からちょうど
一里(約4キロメートル)の
距離。さらに
北へ
一里行った
南天王森(
今の
東村山市本町1
丁目の
平和塔公園内)にも
一里塚があってこれらはむかし、
旅人に
道のりを
教えた「
鎌倉街道十三
塚」の
一部ともいわれている。

けれど、
一里塚というのは、
戦国の
末から
江戸時代に
整えられたものなので、このいいつたえも
本当なのかなあ、
証拠がないもんなあ、と
疑問が
残っているわけなんだ。
小平の古い地名マップ

昭和33年の小平の地図をもとに作ってあります。

ぐみ窪公園、ぐみ窪通り、上宿図書館、上宿公民館、上宿保育園、上宿小学校、上宿郵便局、中宿通り、中宿児童公園、二ツ塚西通り、バス停「二ツ塚」、二ツ塚児童公園、南台病院、元中宿通り、山王通り、松花通り、平安窪通り、山家通り、山家橋、天神窪児童公園、堀野中通り、南堀野中通り
……などなど
多摩の市町村のなまえ
昭島市
昭和29(1954)年5月1日、昭和町と拝島村が合併して市になった。それぞれの名から一字ずつとって「昭島」とつけた。
あきる野市
平成7(1995)年9月1日、秋川市と五日市町が合併して市となった。
古来よりこの地域に親しまれてきた「あきる」という名称に「野」を加え、多摩川を境に、東の平野の「武蔵野」に対し、西の平野を「あきる野」とした。
稲城市
明治22(1889)年4月1日、矢野口村・東長沼村・大丸村・百村・坂浜村・平尾村が合併して稲城村に。東長沼の漢学者、窪全亮がつけたといわれる。
「イナギ」には稲を置く場所とか、稲を積んでつくった城という意味があるし、稲のはいった倉を守る役の人も「稲置」といった。
また、鎌倉時代、このあたりは稲毛三郎重成の領地だったから「イナゲ」ともよばれていた。
これらのことも名付けに関わりがあるのでは、ともいわれる。
青梅市
市内、金剛寺という寺に平将門が植えたといいつたえられる梅の木がある。
この梅は、夏がすぎても実が熟さず、青々としている。実らない青い梅から、ここの地名は起こったとか。
ほかに、武蔵国の国司で「大目」という地位の役人が住んだのでオオメとよぶようになった、という説もある。
奥多摩町
昭和の初め、「日本百景」を選んだ時、このあたりの美しさを愛する人々が「奥多摩渓谷」の名で推せん。見事選ばれた。
それから、ここいらは奥多摩と呼ばれてきたが、昭和30(1955)年4月1日、氷川町・古里町・小河内村が合併した時、町の名になった。
清瀬市
古くからの村、清戸の「清」と市を流れる柳瀬川の「瀬」を合わせ、明治22(1889)年4月1日、上清戸・中清戸・下清戸・清戸下宿・中里・野塩の6か村と下里村の飛び地が合併して、清瀬村に。
国立市
昭和26(1951)年、村から町になる時、谷保村から国立町に。
「国立」の名は、中央線の国分寺駅・立川駅の間にあって、両方の頭文字からつけた国立駅の名による。
それと、この地から新しい国が立つぞ、という願いもこめられている。
小金井市
「井」というのは涌き水や泉から水をくみとる所をいう。「コガネ」は金とか黄金のこと。ここには何か所か豊かな涌き水があって、それをたたえて「コガネノイ」と呼んだのがはじまり、という説。
また、府中にあった金井家という土豪から分かれた一族が貫井のあたりに住んだので、そこを「小金井」というようになった、とかここもいろいろ、いわれがある。
国分寺
天平13(741)年、聖武天皇の詔で、国ごとに国分寺と国分尼寺を建てることに。
ここは、武蔵国の国分寺があったところ。地名はそれにちなむ。
狛江市
「狛」は、渡来人の高句麗人、「江」は、川や湖や海が陸地に入りくんだところ。だから「狛江」とは高麗人の住む入江、という意味。
応神天皇(「日本書記」では第15代天皇)のころ、朝鮮半島の国から、王さまの一族が人々をひきいて、ここで暮らし、文化を広めたのだという。
狛江の名は、平安のはじめから記録にでてくる。
立川市
奈良・平安のころから、武蔵国府のあった、府中あたりの人々は、南北に連らなる山々を見て「多摩の緯山」と呼び、それに対して、東西に流れる川(多摩川)を「経川」と呼んだ。これが地名のはじまり、とする説。
また、ここにはタチ(「館(トリデ-)」があって、そばを川が流れているので、タチ川と呼ぶようになり、タチに住む人々が立川氏を名のったのがはじまりだという説も。
多摩市
明治22(1889)年4月1日、関戸・連光寺・貝取・乞田・落合・和田・東寺方・一ノ宮の8か村と百草村と落川村の飛地が合併して多摩村に。
多摩という地名は万葉集にもでてくる古いもの。大むかしから、人々の暮らしの中心だった多摩川の名から、まわりの地域も多摩と呼ぶようになったのでは、という説がある。
多摩は「太婆」「多波」とも書かれ、「タバ」とも読まれた。「タバ」は古い朝鮮語で峠の意味だから、「タバガワ」は、峠をこえて流れてくる川のことだったのでは、というし、いや「魂川」の意味だ、とも。
霊の力を持つ、神聖な川ということなんだろう。また、玉のように美しく、すぐれている川だから「玉川」ではないか、ともいう。
調布市
むかし、朝廷に納める調(みつぎ物)としてここで布を作っていたので、「武州調布の里」と呼ぶように。万葉集に「多摩川に さらす てづくり さらさらに 何ぞ この児の ここだ愛しき」(多摩川でさらすてづくりの布のようにさらにさらになんでこの子がこんなに愛しいのだろう)と歌われている。
西東京市
平成13(2001)
年1
月21
日、
田無市と
保谷市が
合併して
市になった。
応募された
名前の
中で、
一番人気の
名前だった。
八王子市
華厳菩薩妙行という名高い僧が修行中のこと。牛頭天王があらわれ、8人の王子をまつるように告げた。延喜16(916)年、妙行は、深沢山に牛頭八王子権現を建て、これが地名のはじまりに。
羽村市
天文5(1536)年の資料に「羽村」の地名がでてくる。これが一番古い記録。
長淵郷の、あるいは三田領の、いちばん東はじだったので「端村」といい、そこから「羽村」になったのでは…という。
東久留米市
古くから暮らしの中心だった黒目川の呼び方がなまって「クルメ」になったのだろう、と。
黒目は「来目」、「久留米」とも書かれていたらしいし。
市になる時、九州福岡県に、同じ名の市があるので東京の「東」を頭につけ、「東久留米」になった。
東村山市
平安の中ごろ、このあたりは、武蔵七党の一つ、村山党が勢力を持っていて、村山地方と呼ばれていた。明治22(1889)年4月1日、久米川・大岱・野口・廻り田・南秋津の5か村が合併して一つの村に。村山郷の東にあるので「下村山」という名もあがったけれど、話し合いで「東村山」に決った。
東大和市
大正8(1919)年11月6日、清水・狭山・高木・奈良橋・蔵敷の6か村が合併して「大和村」に。
「東大和」になったのは、昭和45(1970)年10月1日。「大いに和する」(とても仲良くする)という意味の「大和」に東京の「東」をつけた。
日野市
奈良時代、ここにのろし台があって「飛火野」と呼ばれていたことによる、という説。
また、むかし、この地を開いた日奉宗頼の子孫が先祖をまつって建てた神社を「日ノ宮」と名付けたことによる、という説。
日野中納言資朝卿の子孫がここに来たので、という説。
それから、日当たりの良い土地、という意味でついた、という説。いろいろある。いずれにしても戦国時代にはすでにあった地名なんだ。
日の出町
昭和30(1955)年6月1日、大久野村と平井村が合併して一つの村に。この時、西はずれにある「日の出山」から名をもらった。日の出のようにますます栄えるようにとの願いもこめられている。
檜原村
平安のころから、ここは檜原郷と呼ばれていた。
ヒバラ、とか読み方は違っても「檜原」の地名は山村に多い。「檜」はヒノキのことだから、山とは関わりが深いんだ。
ただ、西多摩の檜原は、室町時代「日野原」と書かれたこともあるので、日当たりのいい「日の原」の意味だったのかも。また、領主の平山氏は日野の日奉の一族だったので、そこから「日野原」と言われるようになったのかも。
府中市
645年の大化の改新で、全国に60あまりの国が生まれ、武蔵国も旡邪志・胸刺・知々夫が一つになって誕生した。
ここは、その国府(役所がある場所)だった。
国の都で、政治・経済・文化・交通の中心地。それで府中と呼ばれたんだ。
福生市
“麻の生い茂る原っぱ”という意味の「総生」がなまったというもの。
むかし、「麻」は「総」と言っていたから。
それから、アイヌ語の湖の口「フチ」と湖の片ほとり「チャ」からきたというもの。
「フッチャ」は湖のほとり、ということだ。
また、アイヌ語の涌き水(ブッセ)からきている、という説も。
町田市
明治22(1889)年4月1日、本町田・原町田・森野・南大谷の4か村が合併して町田村に。
「町」は田んぼの区画を意味する言葉だった。区画された田んぼ地で、町田と呼ぶようになった。
瑞穂町
昭和15(1940)年11月10日、箱根が崎・石畑・長岡の3か村が合併した時、岡田東京府知事が名付けて瑞穂町に。
この年、日本は、紀元2600年を国をあげて祝った。(日本のはじまりは『古事記』の神武天皇即位の紀元前660年から、という考え方によるもの。)
「瑞穂」はみずみずしい稲の穂のこと。「瑞穂の国」と言えば日本のことだった。
三鷹市
江戸時代、このあたりは幕府御用の茅場や将軍家のお鷹場があった。
明治22(1889)年4月1日、世田谷領・府中領・野方領の三領のお鷹場の村々が合併した時、「三鷹村」と名付けた。
武蔵野市
明治22(1889)年4月1日、吉祥寺・境・関前・西窪の4か村と井口新田飛地が合併して武蔵野村に。
武蔵野の原の中に位置しているので、こう名付けた。
武蔵村山市
平安のころ、村山党が栄えた地なので、大正6(1917)年4月1日、中藤・三ツ木・岸の3か村が合併して、村山村となる。
昭和45(1970)年11月3日、市になったとき、山形県に「村山市」があるので、武蔵国の名をとり、「武蔵村山市」とした。
おまちかね! 小平市
明治22(1889)
年4
月1日、
小川村・
小川新田・
大沼田新田・
野中新田与右衛門組・
野中新田善左衛門組・
鈴木新田・
廻り
田新田が
合併して
一つの
村に。
新田ごとに
代表者が
出て、
村のなまえを
話し
合った。7つの
村が
集まってできるから「
七里村」という
案も
出たけれど、「
小平」に
決り!
このあたり、
月のかくれる
場所もない
平らな
土地であることと、いちばん
初めに
開拓されたのが、
小川九郎兵衛の
小川村なので、「小」の
字と「平」を
組み
合わせたのだ。
村や町のうつりかわり
1868年、明治の新政府ができると、いろいろな改革がおこなわれた。
政治を行うための地域の分け方も、今のような形になるまでには、いくつかのふし目が。
明治4(1871)年7月 廃藩置県
江戸時代の藩をとりやめ、かわりに全国を県に分ける。(東京と京都と大阪は「府」)
明治5(1872)年4月 大区小区制
府や県の中をいくつかの大きな区(大区)に分け、その中をさらに小さな区(小区)に分けて、政治を行う単位としたもの。この時、いっしょに「名主」とか、「庄屋」の制度もとりやめている。
明治11(1878)年7月 郡区町村編成法
大区小区制は、自然にできあがっていった、むかしからの村々の分け方を無視するものだった。
そういうこともあって、大区小区制はなかなかなじまなかった。
この「郡区町村編成法」は、全く江戸時代のとおりというわけではないけれど、もともとの村のあり方を考えにいれたもの。
府や県の下に郡や区を置き、その下に町や村を置いた。
明治22(1889)年4月 市制町村制
「郡区町村編成法」でできた町や村を、今度は整理し、まとめあわせることに。
ここで、全国に7万1,000以上あった町や村は、1万5,000ほどに減った。多摩の市町村もこの年、ずいぶん合併しているよね。
それが、今の地域の分け方のもとになっている。
参考にした本
「小平事始年表(稿)」
「東京百年史」
「多摩の歴史」
「小平むかしむかし」
「小平ちょっと昔」
「小平郷土研究会 会報第2号」
「多摩の地名」
「東京の名所・旧跡」
「角川地名大辞典」
小平の地図(古いのから現在のものまで)
小平市に関すること
多摩に関すること
江戸・東京に関すること
玉川上水・小金井桜に関すること
その他