日本が太平洋戦争につきすすむまで

1894年(明治27年)、朝鮮の支配権をめぐって、日清戦争(日本と中国の間の戦争)がおこった。
勝った日本は、朝鮮と台湾を取り、賠償金や遼東半島も手に入れた。ロシアは、フランス・ドイツとともに日本にせまり、遼東半島を返還させた。ついでロシアは、遼東半島の良港、旅順と大連を清国(中国)から借り上げ、勢力を満州から朝鮮へと伸ばして来た。
同じ地域を手に入れようとねらっていた日本は、1904年(明治37年)、ロシアに宣戦布告。日露戦争となり、多くの犠牲を出しつつ、日本はかろうじて勝利した。
そしてそのころ、関東州とよばれていた遼東半島南部と東清鉄道(長春~旅順)、およびそのまわりの炭坑などの権利をロシアから得る。
さらに、これらの財産を守るため、日本はこの地域に軍隊を置く。この軍隊こそ、日中戦争でしばしば登場する関東軍のはじまりだ。そしてロシアから手に入れた鉄道は南満州鉄道(満鉄)になってゆく。
関東大震災、金融恐慌、世界恐慌と続けざまに打撃を受けた「もたざる国」日本は帝国主義への道を選んだ。
中国東北部の満州は広さが日本の約3倍。資源も豊富だ。日本はここに「日本の生命線」を築こうとした。
よその国が自分の国で好き勝手をするのだから当然、中国の人々は反発した。孫文の中国国民党と毛沢東の中国共産党が、その運動を盛り上げていった。
そして1931年(昭和6年)、15年戦争のはじまりである満州事変がおこる。
南満州鉄道の爆破事件を中国軍のしわざとして関東軍は兵をおこし、1932年(昭和7年)3月には、この地に満州国をつくりあげてしまった。この国の皇帝として、すでに滅んでいた清国の最後の皇帝、愛親覚羅溥儀をかつぎ出し、首都は新京(今の長春)においた。
さらに1937年(昭和12年)7月、北京郊外の蘆溝橋で演習中の日本軍が耳にした原因不明の銃声をきっかけに、日本と中国の全面戦争が始まる。中国大陸を舞台としたこの戦争は長びき、泥沼化し、ついで、1941年(昭和16年)12月8日、わくを太平洋にまでひろげ、日本は米・英などの連合国をも相手に戦うようになる。
戦争の年表
戦争の年表
| 年 |
できごと |
| 1894年 |
日清戦争おこる。(8月1日) |
| 1895年 |
清国と下関条約を結ぶ。(4月17日)
ロシアらの三国干渉。(4月23日) |
| 1904年 |
日露戦争おこる。(2月10日) |
| 1914年 |
第一次世界大戦おこる。日本も参戦。(中国に出兵)(7月28日) |
| 1918年 |
日本初の政党内閣、原敬内閣できる。(9月29日) |
| 1920年 |
国際連盟できる。(1月10日) |
| 1923年 |
関東大震災。(9月1日) |
| 1929年 |
世界恐慌はじまる。(10月24日) |
| 1931年 |
満州事変おこる。(9月18日) |
| 1932年 |
満州国を建てる。(3月1日)
五・一五事件。 |
| 1933年 |
ヒトラー、ドイツ首相となる。(1月30日)
ルーズベルト、アメリカ大統領となる。(3月4日)
日本、国際連盟を脱退。(3月27日) |
| 1936年 |
二・二六事件おこる。→日本の政党政治崩壊する。 |
| 1937年 |
日中戦争おこる。(7月7日) |
| 1938年 |
国家総動員法できる。(4月1日) |
| 1939年 |
第2次世界大戦おこる。(9月1日)
パーマネント禁止(6月)、女子はモンペ、男子は軍服規格の服に(10月) |
| 1940年 |
チャーチル、イギリス首相となる。(5月10日)
日独伊三国同盟できる。(9月27日) |
| 1941年 |
6大都市で米が配給制となる。小学校を国民学校と改める。(4月1日)
東条英機内閣成立。(10月18日)
ハル・ノート提出される。(11月26日)
日本、ハワイ真珠湾を攻撃。米英に宣戦布告。→太平洋戦争のはじまり。(12月8日) |
| 1942年 |
日本、ミッドウェー海戦で大敗。空母の主力を失う。(6月5日) |
| 1943年 |
ガダルカナル島の日本軍、退却を始める。(2月1日)
アッツ島の日本軍守備隊、全滅。(5月29日)
キスカ島の日本軍守備隊、退却。(7月29日)
空襲の時の混乱にそなえ、上野動物園で猛獣などを薬殺。(9月) |
| 1944年 |
日本軍、インドのインパール作戦に失敗し退却。(7月4日)
マリアナ諸島サイパンの日本軍守備隊、全滅。(7月7日)
学童疎開が強制的におこなわれるようになる。(7月)
米軍、レイテ島(フィリピン)に上陸開始。(10月20日)
最初の神風特攻隊がフィリピン沖のアメリカ機動艦隊に向けて出撃する。(10月25日)
サイパン島空軍基地から飛びたつ米軍機による本土空襲はじまる。 |
| 1945年 |
米軍がルソン島(フィリピン)へ上陸開始。(1月9日)
軍部が本土決戦の計画を決定。(1月20日)
B29、130機による東京大空襲おこなわれる。(3月10日)
硫黄島の日本守備隊、全滅。(3月17日)
米軍、沖縄本島に上陸開始。(4月1日)
ヒトラ-、自殺。(4月30日)
ドイツ、無条件降伏。(5月7日)
ポツダム宣言、発表される。(7月28日)
広島に原子爆弾投下。(8月6日)
ソビエトが満州に攻めこんでくる。(8月8日)
長崎に原子爆弾投下。(8月9日)
ポツダム宣言を受け入れることを決定する。(8月10日)
戦争終結の放送がおこなわえる。(8月15日) |
戦時中のスローガン
(現代かなづかいになおしてあります)
日本人ならぜいたくはできないはずだ
1939(昭和14)年
昭和14年9月1日から毎月1日は「興亜奉国日」。梅ぼし1つの日の丸べんとうや国民服・モンペがすすめられた。
昭和14年、この年、「パーマネントはやめましょう」の運動がおこる。
女の人たちは、ヘチマ水や米ぬかなどを手に入らぬ化粧品のかわりにした。
昭和16年からはさらに物が足らなくなり、米ぬかは食料に。
化粧どころではなくなってしまった。
進め一億 火の玉だ
なにがなんでもやりぬくぞ
ぜいたくは敵だ
撃ちてし止まん
頑張れ! 敵も必死だ
1943(昭和18)年
本土決戦
鬼畜米英をうて
一億玉砕
1944(昭和19)年
この時期には、日本本土で敵をむかえうち、国民全員が白兵戦(刀や剣を握って戦うこと)をしなければならないとまで言われていた。

1945年8月15日までの出来事など
世界恐慌
1929年10月、アメリカ・ニューヨークで株の大暴落がおこり、これをきっかけに大恐慌は世界中に広がる。
経済状況はめちゃくちゃになり、失業者はあふれた。
これに先立ち日本は、関東大震災(1923年)による恐慌や、金融恐慌におそわれていた。とくに農村はしんこくで娘を身売りにだしたり、昼食をぬいたりする家も多かった。
満州事変と満州建国
1931年9月18日、夜、満州(今の中国東北地方)の柳条溝というところで南満州鉄道の線路が爆破された。関東軍は、これを理由に南満州各地を占領。やがて、1932年3月には清朝最後の皇帝、愛親覚羅溥儀をまつりあげ、「満州国」を建国。
国際連盟は「満州国」をみとめなかった。日本はこれに対し、国際連盟脱退という態度でこたえた。
敗戦により、満州にいた155万人の日本人は追われる立場になった。そして自決・餓死・凍死・病死などで18万人の命が失われた。
日中戦争
1937年7月7日、北京郊外の蘆溝橋付近で、夜、演習をしていた日本軍に銃弾があびせられた。中国軍のしわざとみた日本軍はただちに攻撃。
このことをきっかけに、日本と中国は全面戦争へ。
これは、満州事変以来、日本をしりぞける気持ちを強くした中国を、力で屈服させようとしたもので、日本はこの戦いが長びくとは思っていなかった。
蒋介石の国民政府と毛沢東の共産党は日本と戦い、自分の国を救うため、協力し合うことになる。
1945年8月、ポツダム宣言受諾にともない、中国にいた日本軍は蒋介石の国民政府に降伏した。
南京大虐殺
1937
年12
月、
中国の
首都、
南京を
日本軍が
占領したときおこった
中国人の
大量虐殺事件。
重慶無差別爆撃
東京大空襲は焼夷弾の集中投下で、市民もろとも焼き殺す「皆殺し作戦」だった。これは第二次世界大戦で生まれた戦術なのだ。第1号はナチス・ドイツのゲルニカ(スペイン・バスク地域)の爆撃。第2号が日本軍による天津や南京爆撃だった。1939年5月からは重慶へも無差別爆撃がなされ、日本軍によるこの惨状を写真で見た米大統領ルーズベルトは怒り、「東京市民に重慶市民の苦しさを味あわせてやる」と叫んだという。
第二次世界大戦
(日=日本、独=ドイツ、伊=イタリア、米=アメリカ、英=イギリス、ソ=ソ連、仏=フランス)
日・独・伊の枢軸国に対して英・米・ソ・仏などが連合国をつくって戦った戦争。
日・独・伊は植民地などの拡大・世界帝国の建設をめざして、現状からぬけだそうとしていた。米・英側は1942年1月、共同宣言を発し、反ファシズム(注釈)の連合国として結集。ヨーロッパとアジアの戦争が結びつき、文字通り世界規模となったこの戦いは人類史上最大のものだった。
戦死傷者は英=110万人、米=90万人、独=900万人、ソ=700万人(死者のみ)。日本は戦死者156万人。このほか60万人近い非戦闘員が死んでいる。
(注釈)ファシズム;反社会主義、反民主主義の暴力的な独裁政治。またはその運動。古代ローマの「ファシオ」(“束”とか“団結”という意味)が語源。
三国同盟
1940年9月27日、ベルリンで調印された日・独・伊の軍事同盟。これによってファシズム三国のむすびつきは強められた。
<人物しょうかい>
ヒトラー ドイツ総統。ドイツ人は世界でもっともすぐれた民族である。今こそ全力で大ドイツを建設しよう、と唱え、一方で、ユダヤ人、共産主義者をてっていてきにだん圧。ドイツ敗北とともに自殺。
ムッソリーニ ファシスタ党をひきいてイタリアで独裁政治を行う。敗北とともに国民に処刑される。
東条英機 日本の軍人・政治家。1941年10月内閣総理大臣となり、太平洋戦争にふみきる。敗戦後は戦争をすすめた罪により、極東国際軍事裁判にかけられ、絞首刑となる。
ABCD包囲陣
日中戦争について、中国を応援する英・米側は日本と対立。日本は国際的に孤立するようになった。 A(Amerika) B(Britain) C(China) D(Dutch)の国々は、日本の行動をやめさせるため、石油・すず・ゴムなど必要な資源の輸出を禁止したりして経済的にしめあげた。
「この包囲をうち破らないかぎり、生きる道はない」というところまで日本はおいつめられた。そして1941年12月8日、日本は太平洋戦争へ突入してゆく。
ハル・ノート
戦争をさけようとして日・米の間では交渉が重ねられていた。ところが1941年11月26日、米・国務長官ハルは、日本に「ハル・ノート」とよばれる、次の要求をあげてきた。
- 日本はシナ(中国)および仏印(フランス領インドシナ)よりひきあげること。
- 蒋介石の国民政府以外は支持しないこと。
これは明治以来、日本がばく大な戦費と血を流して得た中国に対する権益(権利や利益)を全て捨てろということだ。日本はこの要求をのむことができなかった。
ハル・ノートをこばんだ日本は、アメリカとの戦争への決意をかためたのであった。
太平洋戦争
1941年12月8日、日本の真珠湾攻撃により、幕をあける。第二次世界大戦のうち、アジアでの日本と英・米・中国ら連合国との戦いをさす。中国との戦争にくわえ。日本は東南アジアの資源を得るため南方進出を計画。ヨーロッパでのナチス・ドイツの勝利に刺激されたのである。対立の立場をとっていた英・米との関係は決定的となり、開戦となった。
日本は開戦半年で、フィリピン・マレー半島・インドネシアなどを占領。さらにニューギニア・ガダルカナルへと進みオーストラリアにせまった。
しかし、この頃よりアメリカが反撃を開始。日米の生産力の差もあらわれはじめ、日本は敗戦へと向かう。
真珠湾攻撃
1941年12月8日、日本は米軍太平洋艦隊の根拠地、ハワイの真珠湾を攻撃した。
が、日本がアメリカに宣戦布告する30分前にこの攻撃はおこなわれてしまい、「だましうち」という非難があがった。
「リメンバー・パールハーバー」(真珠湾を忘れるな)という合言葉とともにアメリカは日本に対する敵がい心をつよめていった。
大東亜共栄圏
太平洋戦争をはじめてから半年あまりの間、日本は占領の地域を広げていった。
政府や軍部は、西はビルマから東はハワイまでおよぶ地域に「大東亜共栄圏」をつくると言いだした。この地域は、米・英・仏・蘭(オランダ)などの侵略をうけて、その植民地となっていたところが多い。日本は、それらの国を独立させ、互いに協力し合い、助け合って、ゆたかで平和な地域をアジアに作るのだ、と言った。
が、結局それは日本中心であって、互いの国の独立と権利を十分尊重したものではなかった。
それに政府は、この地域をまとめることで、日本に必要な資源を手に入れたいという気持ちがあったのである。
マンハッタン計画
原子爆弾の研究は、はじめドイツですすめられた。この新兵器がナチス・ドイツに実現することを恐れたアメリカの物理学者たちは、ルーズベルト大統領にアメリカでの開発を急ぐよう警告した。
そして、1941年12月6日、ワシントンで原子爆弾の開発が極秘にスタートした。暗号名は「マンハッタン計画」。3年7ヶ月かけて生まれたのは3個の原子爆弾。プルトニウム爆弾の実験は成功をおさめ、ポツダム会談にのぞむトルーマン大統領のもとに、暗号でそれが伝えられた。
“赤ん坊は申し分なく生まれた”と。
アウシュビッツ
ナチス・ドイツが建てたユダヤ人収容所の一つ。
収容所名簿に名前がのった人40万5、000人。そのうち、34万人が病死・餓死・自殺・銃殺・ガス室送り・毒殺・過労死。名前のかわりに番号でよばれ、左の前腕(うでの前側)にイレズミで数字をきざまれた。(子どもは太ももにきざまれた。)
囚人たちを対象に、さまざまな生体実験もおこなわれていた。(日本軍もハルビン731部隊で生体実験をしている。)
1944年9月3日には、アンネ・フランクも両親や姉とここに収容されている。
連合国の会談
ドイツ無条件降伏後の1945年7月17日~8月2日まで、ドイツの首都ベルリン郊外のポツダム宮殿で、米・英・ソの3巨頭が会談をひらいた。日本に無条件降伏を求めるためと、敗戦国ドイツをどう取り扱うか話し合うためだ。
7月26日、この会談の内容はポツダム宣言として発表された。日本に対する要求は
- 日本から軍国主義をなくすこと。
- 日本が回復するまで連合国が日本を占領すること。
- 日本の国は本州・四国・九州・北海道とそのまわりの島にかぎること。
- 戦争犯罪人は処罰し、日本に民主主義を育てること。
- 再軍備を禁止すること。
戦争と東京の家族
太平洋戦争のつづく中、外国からの輸入にたよっていた日本は、鉄も石油も砂糖も綿も足りなくなっていた。
おとうさんやおじさんは兵隊に行った。農村や工場は働き手が足りなくなって、食べ物も品物もなくなった。かわりにおにいさんや、おねえさんが働きに行った。そして子どもたちは親もとをはなれ、疎開しなければならなかったのだ。

少年兵
戦争の末期にはたくさんの「少年兵」が戦場に出て行った。陸海軍は全国の中学校へ少年兵の人数をわり当て、少年たちの多くは家族の不安をふりきって、自ら志願していった。14~15歳の少年たちが、陸軍少年飛行学校にはいったり、海軍飛行予科練習生(予科練)となって17~18歳で戦死していったのだ。
おなかがすいたよ…
戦争はつづき、食べ物が手にはいりにくくなってきた。みんなは庭やあき地を畑にし、サツマイモ・ジャガイモ・野菜などを植えるようになった。自分たちの命をささえるために…。1939年10月1日から、米が配給制になる。大人の1日分は2合3勺(ごはん茶わんで4~5杯)。子どもの1日分は1合4勺。あと、木炭・マッチ・みそ・しょうゆ・砂糖と、配給制、切符制になるものが続く。
1940年8月1日から、東京の食堂ではごはんを売ることが禁止。「卯の花ずし」(おからをのりでまいたすし)や「海草そば」(細長い海草をそばのように料理したもの)などというものが登場。
1944年から1945年ごろには「銀飯」(白いごはん)そのものが夢となった。
おかあさんのオッパイは栄養がなくなり、水と同じ。それを飲むあかちゃんは衰弱して病気になったり、死んでしまったり。
このころからぞうすい食堂がはやった。「ぞうすい」といっても、しょうゆ汁の中にわずかな菜っぱとごはん粒がういているだけ。
1945年7月11日(大都市では8月11日)から米の配給量も2合1勺と減り、それすらとどこおりつつ、この数字は戦後1946年11月まで回復しなかった。
綿製品がなくなってゆき、「スフ」がピンチヒッターとして登場。ただしくはスティープルファイバー。レーヨンで織ったこのぬのじ布地はペラペラで質が悪かった。
学徒出陣
戦争がながびき、戦争の地域が広がってゆくと、日本軍は兵士が足りなくなってきた。それまで学生は勉強中の身ということで、満26歳まで徴兵(兵士として引っぱられること)をのばされていたが、1943年12月より、理工系の大学生をのぞき「学徒出陣」するようになる。つまり、学生を狩り出さねば、もうたちゆかなくなっていたのだ。
学童集団疎開
1944年6月、マリアナ沖海戦で日本軍が大敗すると、東条英機内閣は、やがてはげしくなるだろう本土空襲にそなえて、大都市の学童(国民学校初等科3~6年)の集団疎開を決定。
1945年には、45万人(うち東京では26万人)をこえる子どもたちが家族とはなれ、先生や寮母さんにつきそわれて、地方の寺・神社・旅館に身を寄せた。つらかったことの第一は空腹。次に勤労。(物資が足りないので子どもたちだって働いた。)それから服や髪の毛にたかるノミ・しらみ。疎開中、家族が空襲で死んでしまって、ひとりぽっちになる子だっていたし、1945年3月卒業式で東京に戻り、3月10日の大空襲をうけてしまった6年生もいた。
おとうさんは戦場へ
おとうさんたちは「赤紙」とよばれた召集令状をもらって戦争に行く。一銭五厘(ハガキ料金)が兵隊のねだん、と言われた。陸軍の「戦陣訓」(戦いのおしえ)では「生きて虜囚の辱めを受けず」(捕りょになるくらいなら死ね、ということ)と言われた。南方の兵士はマラリア、アメーバ赤痢などの病気に苦しんだ。きず口にウジがわいた。食料も兵器も底をつき、木の葉、草の根をかじった。北の満州では凍傷で手足のゆびがくさった。戦争がおわるとこの地の日本人たちはとらえられ、シベリアへ。そして何年間も強制労働につくことになる。
勤労動員
おとうさんやおじさんは戦争に出て行った。農村も工場も人手不足になってしまった。そこで勤労動員といって、結婚していない女の人や学生たちが働きにでるようになった。
1943年9月には14~15歳までの結婚していない女の人が女子挺身隊にはいって働くことに決められた。1945年6月からはその年令も12歳に引き下げられた。
1945年3月より、国民学校初等科をのぞき、すべての学生は1年間、授業をとりやめることに。学校にかわって毎日、工場に出勤するのだ。
もっとも初等科の生徒だって疎開やら空襲やらで授業どころではなかったけれど…。
東京大空襲
1944年7月、日本が「不沈空母」と誇っていたマリアナ諸島サイパンが全滅。グアム、テアニンと3つの島からなる米軍のマリアナ基地はまもなく完成した。ここを足がかりに、米空軍の超重爆撃機B29は1944年11月からよく45年8月まで毎日のように日本本土を空襲した。それでも1945年3月上旬までは、日中、高いところからの軍事施設への攻撃が中心だった。3月10日、東京大空襲で、夜、低い飛行での焼夷弾による一般市民への無差別攻撃がはじまる。0時8分から2時37分までの2時間半で、この日、100万人が焼けだされ、10万人(推定)が死んだ。
おとうさんは戦地に行って家にはいない。おかあさんはあかんぼうをおぶい、小さな子の手をひいて、火の海を逃げまわった。
以来、東京をはじめ、日本の大都市はつぎつぎと襲撃されるようになる。
金属類回収令
1942年5月、鉄、銅などの不足をおぎなうため、政府が出した命令。
家庭からはナベ・かま・やかんなどが集められた。お寺の鐘・銅像なども回収。ダイヤモンド・金・銀などの宝石・貴金属も出させられた。
戦争中のこどもたち

日本はこのころ戦争一色。学校でだって戦うための体力づくり。
男子は木刀、女子はなぎなたのくんれんをした。
学校の学芸会では出しものは戦争ものばっかり。
女の子は軍歌のおどりをしたり。
(一小記念誌「協同」、二小記念誌「文〓」、三小記念誌「桜蔭」より)
国民学校高等科(今の中学生)の生徒たちは、動員で中島飛行機製作所や陸軍経理学校に働きに行った。

年下のこどもたちは、兵隊にとられて男手の足りない農家に手伝いに行ったり。
あちこちの家で、兵隊さんの毛皮にするため、ウサギを飼っていたから、エサにする草を刈ったり。
学校でも空き地にサツマイモをうえたり。
桑の木の皮むきもした。(このせんいで洋服を作るのだ。)
ナラ、クヌギ、カシの実ひろいもした。
干して粉にして食用にするんだ。
松根油をとるため、松の木の根っ子もほった。飛行機の燃料にするために。
それでも小平は食糧事情とか空襲とかについて、区部よりまだましだったかもしれない。
食糧難は戦後もひどかった。お弁当をもってこれない子だっていたんだ。
防空ずきん(防災ずきんに似ている)を毎日せなかにしょって通学した。いつ空襲があるかわからないもん!
学校で防空ごう掘りをした。防空ひなん訓練は毎日のようにした。

警戒警報(空襲があるぞというしらせ)がひびけば学校から家に帰る。
朝も10時までに警戒警報がとけなければ、その日学校はお休み。大きな子たちは動員どかもあったしね。
えんぴつもノートももっとほしかった!
小平に疎開していたこどもたち
どこの区の学童がどの地域に疎開するかは、わりあてになっていて、北多摩には赤坂のこどもたちが来ていた。
小平にも、今の新小平駅ちかくの大きな農家3軒に東京女子高等師範学校(今のお茶の水大学)付属国民学校の生徒たちが身をよせた。
親は「東京にいればみんな死ぬ。こどもだけは助けたい」と送り出した。親もとをはなれ、きびしい条件のもとで「おなかが減ってつらい、身投げがしたい」とハガキに書いた子だっていたんだよ。
(お茶の水学童疎開の会「里にうつりて」より)
お寺が集団疎開の学寮になる場合が多かったようだ。でも、あんまり記録がのこってない…。ほかに、どんな学校が小平に来ていたかわかったら、中央図書館に教えてね!
小平に空襲
1945(昭和20)年4月2日
162発の時限爆弾投下(2時20分~3時30分)
おちて30
分後くらいから、7
時30
分までの
間につぎつぎと
爆発。
全部こわれた
家 13
戸
半分こわれた
家 5
戸
この
日、
西武鉄道 花小金井駅~
小平の
間の
線路がこわされる。
焼夷弾で昭和病院あたりの家が5軒もやけたことがあるんだそうだ。
同年4月19日 10時10分
鈴木新田、範多範三郎氏の家が全焼。
本名=ハンス・ハンター。イギリス人の父と日本人の母をもつ実業家。昭和12~3年、戦争を予知し、余世を送るため、小平(今の小金井カントリークラブ北側)に1万6、000坪の農園をつくった。財をつぎこんだ母屋は空襲をうけ、一瞬のうちに炎につつまれた。
同年4月24日
玉川上水路、小平分水取入口ふきんに爆弾投下。全部こわれた家 3戸。
同年5月25日
24、25日 深夜、東京は山の手と焼けのこった地域全てが空襲をうけている。
北多摩の空襲による被害
死亡 1,002 人
重傷者 393人
軽傷者 247人 など
被害を受けた人 の合計 25,277 人
おまけ話
- 戦争中投下されて爆発しなかった爆弾(不発弾)が戦後も残っていた。昭和47年12月14日には大沼町1丁目でこれをとりのぞく作業をしている。不発弾は小川町2丁目にもあったらしい。(処理はすんでる。もちろん。)
- 上水南町の大仙寺は台東区浅草にあったんだけど、空襲で焼けてしまって、昭和23年5月、小平にひっこしてきたんだよ。知ってた?
だから多摩も襲撃された!
小平周辺軍事施設・軍需工場マップ
太平洋戦争のころになると多摩地区には、軍の施設や戦争のための工場がバタバタと建ちはじめた。
広々した武蔵野台地のあっちこっちに。

1 陸軍多摩飛行場
- 陸軍航空整備学校
- 航空審査部
- 多摩航空機製作所
(今の米軍横田基地のところ)
2 昭和飛行機工場
(今も同じ)
3 日野重工業(株)
戦車を作っていた。
(今は日野自動車工業だ)
4 六桜社・日野分工場
航空写真フィルムの工場
(今はコニカ)
5 富士重機 豊田工場
特殊兵器をつくっていた。
(今も富士重機)
6 陸軍航空工廠
(今は小・中学・高校・公園などの施設が建っている)
7 陸軍整備学校
(今の村山病院あたり)
8 東京陸軍少年飛行学校
特攻隊の少年飛行兵の多くは、ここで訓練をうけた。
9 陸軍立川飛行場 立川は軍都だった!
- 陸軍航空技術研究所
- 陸軍航空工廠立川支廠
- 陸軍航空技術学校
- 立川飛行機株式会社
今、昭和記念公園、陸上自衛隊駐とん地、立飛企業があるあたり。
10 日立航空機工場
陸軍の飛行機のエンジンをつくっていた。ゼロ戦のエンジンも。
(今、イトーヨーカドー東大和店のあるところ)
11 陸軍資材本廠
(今の陸上自衛隊・航空自衛隊の駐とん地)
12 鉄道調査所分所
昭和19年、戦火をさけ、浜松町からひっこしてきた。
(今の鉄道総合技術研究所)
13 東部国民勤労訓練所
(今の職業訓練大学校あたり)
14 陸軍兵器補給廠小平分廠
(今はブリジストンタイヤ東京工場)
傷痍軍人療養所
(今の国立精神・神経センター)
15 陸軍経理学校
(今、陸上自衛隊駐とん地・建設大学校・警察学校・小平団地・シルバー精工・小平九小があるあたり)
16 日立中央研究所
科学技術の研究
(今、日立製作所、中央研究所があるところ)
17 日本製鋼所武蔵製作所
はじめのころ戦車を、のち高射砲をつくっていた。
東芝車輌製作所
(今の日本製鋼所、東芝府中工場があるところ)
18 陸軍燃料廠
(今は航空自衛隊の駐とん地)
19 陸軍技術研究所
兵器の研究・開発をおこなう。
(今、東京学芸大学・東京サレジオ学園があるところ)
電波物理研究所
(今の郵政省電波研究所)
20 参謀本部特殊無線通信所
(今、通信住宅があるあたり)
21 中島飛行機工場
(今のひばりが丘団地のあたり)
22 中島航空金属
(今、住友重機械工場があるところ)
23 豊和重工業工場
(今、株式会社IHIがあるところ)
24 朝比奈鉄工
(今の朝比奈機械があるところ)
25 中島飛行機武蔵製作所
当時、飛行機をつくる工場の中でも日本一、二をあらそう規模だった。
何度も何度も空襲をうけた。
(今、武蔵野市役所や市営グランドがあるあたり)
26 帝国ミシン
小銃をつくっていた。
(今の蛇の目ミシンのところ)
27 中島飛行機三鷹工場および研究所
(今、国際基督教大学・富士重工業があるところ)
28 調布飛行場
(今も同じ)
29 正田飛行機・三鷹航空・日本無線
(今、日産自動車・日本無線があるところ )
30 航空研究所
鉄道運輸研究所
(今、船舶技術研究所・航空宇宙技術研究所があるところ)
31 東京重機工業株式会社
おもに小銃をつくっていた。
(今、ジューキがあるところ)
32 国際電信研究所
(今、NTT中央電通学園があるところ)

参考にした本
郷土資料室から
各市町村史(市や町の歴史の本)、「東京百年史」第5巻
「東京大空襲・戦災史」1~5巻、「東京都35区区分地図帖 戦災焼失区域表示」
「里にうつりて」、「市報こだいら」
「多摩のあゆみ」第35号、「東京が燃えた日」
一.小創立百周年記念誌「協同」
二.小開校五十周年記念誌「文」
三.小百年のあゆみ「桜蔭」
児童コーナーから
「学研の図鑑 日本の歴史 近・現代の人々」
「現代知識情報事典 社会5」「世界反戦詩集」
「ほるぷ 日本の歴史」6・7巻
「父が子におくる1億人の昭和史(3)」
母と子で見るシリーズより
「広島・長崎」
「重慶からの手紙」「南京からの手紙」「ハルビンからの手紙」
「東京大空襲」「原爆を撮った男たち」「アウシュビッツ」「日本の空襲」
小平市に関すること
多摩に関すること
江戸・東京に関すること
玉川上水・小金井桜に関すること
その他