ここでは、図書館に寄せられた「小平に関するレファレンス」事例をご紹介します。(本欄の質問事例は、質問者のプライバシー保護に配慮し、掲載内容を一部編集・加工しています。)
レファレンス協同データベースに登録されている小平市立図書館のレファレンス事例集はこちらから
小平市立図書館レファレンス事例集
番号 | 資料のタイトル | 分類番号 | 該当ページ |
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1 | 『みんなでしらべたこだいらの野鳥』 | Q6/10 | p85 |
2 | 『みんなでしらべたこだいらの野草』 | Q5/10 | p1 |
3 | 『みんなでしらべたこだいらの樹木と昆虫』 | Q0/10 | p41,55 |
4 | 『玉川上水の野草1~3』 | Z1/10 | 目次 |
5 | 『玉川上水の野草たち』 | Z1/03 | 1冊 |
6 | 『玉川上水と分水』 | Z1/00 | p138 |
7 | 『玉川上水散策絵図』 | Z1/03 | |
8 | 『多摩らびNo.16』 | A5/03 | p37 |
9 | 『郷土こだいら』 | B1/10 | p12,28 |
10 | 『玉川上水四季さんぽ』 | Z1/20 |
青梅街道の南側にあり、各家の庭先を結んでいた道で、「宝の道」という人もいますが、「竹の原の道」というらしい。屋敷の裏にあって、北風の来ない南に面した日当たりのいいところにあり、青梅街道を通らなくても行き来できました。(資料1)
また農家の広い庭(農作業場)を「たから」と言い、その庭を繋いでいた道を言うようです。(資料2)
番号 | 資料のタイトル | 分類番号 | 該当ページ |
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1 | 『小平ちょっと昔』 | E5/10 | P21,22 |
2 | 『小川四番の女たちII』 | E3/10 | p15,80 |
新堀用水の上流に見られ、「ほっこぬき」「胎内掘り」のことをいいます。玉川上水からの分水工事の工法です。小川橋付近の上水は流域の中でももっとも深く掘られています(約5メートル)。
分水は幅が狭いので開削で深く掘るよりも、トンネル掘りの方が費用も労力も少なく済んだそうです。小川橋付近までの上流約900メートルがトンネルですが、両端から掘り進んだのでは時間がかかるので途中約60ヶ所に竪穴を堀り、作業の出入りと土の出し口として利用していました。これが「胎内掘り」すなわち「たぬき掘り」です。
現在は安全のため大部分が埋められていますが、4ヶ所鉄柵で囲われていて、そこから見ることができます。
番号 | 資料のタイトル | 分類番号 | 該当ページ |
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1 | 『玉川上水 水と緑と人間の賛歌』 | Z1/00 | p48「胎内掘り」 |
2 | 『玉川上水 親と子の歴史散歩』 | Z1/00 | p221「たいない掘り」 |
3 | 『玉川上水と分水 新訂増補版』 | Z1/00 | P83「ほっこぬき」 |
大正12年9月1日に起こった関東大震災後の住宅難の解消と大学等の再建を郊外で行う機運がたかまり、堤康次郎の箱根土地(株)の「学園都市」建設の構想で、大正13年に北豊島郡の大泉村(練馬区)と北多摩郡の小平村、大正14年に谷保村(国立市)を選定し、大学の誘致と住宅地の開発が始まりました。
小平村では100万坪近い広大な土地を、整然とした区画割りと道路付け(碁盤の目状)を計画して買収しようとしていましたが、実際には60万坪が買収されました。
箱根土地(株)は、分譲開始の前に明治大学の移転誘致をしていましたが、分譲地が都心部から離れていた上、大学の移転中止や不況も重なり、売れ行きは低調だったようです。
昭和3年の多摩湖鉄道の開通、昭和6年の津田英語塾の移転、昭和8年谷保村が誘致した東京商科大学の「予科」(石神井村にあった)の誘致に成功しましたが、分譲地のほとんどが売却済みになったのは昭和14年ころでした。
「小平学園都市」の名称は、「国分寺大学都市」、「国分寺厚生の家」と何度か変更されています。なお、箱根土地(株)は「国土計画」→「コクド」→「プリンスホテル」と名称変更しています。
番号 | 資料のタイトル | 分類番号 | 該当ページ |
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1 | 『小平市三十年史』 | B1/10 | |
2 | 『国立市史下巻』 | B1/23 | |
3 | 『多摩の鉄道百年』 | W4/03 | p160 |
4 | 『多摩のあゆみ第6号』『同第7号』 | W4/03 | |
5 | 『郊外住宅地の系譜』 | S1/00 | |
6 | 『国分寺市史下巻』 | B1/250 | p686 |
船溜まりとは、玉川上水に船が通っていたころの船着場のことです。明治2年9月朔日に通船の願いを出し、翌明治3年4月15日に船が通り始まりました。
船は多摩川上流から羽村の堰へ入り、玉川上水を通って四谷大木戸まで物産や人を運んでいました。その途中の立ち寄り場所を「船溜り」といいました。
小平市内の船溜りは、小川橋・久右衛門橋・喜平橋・茜屋橋・小金井橋の各橋の付近にありましたが、水質保全のため明治5年5月末で通船は禁止になりました。
なお、「玉川上水通船模型」を中央図書館2階で展示しています。
番号 | 資料のタイトル | 分類番号 | 該当ページ |
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1 | 『多摩東京移管前史資料展図録』 | G1/10 | P15~ |
2 | 『多摩東京移管前史資料展史料集』 | B2/10 | P11 |
3 | 『玉川上水通船ノート(1)(2)』 | Z1/00 | |
4 | 『指田家日記』 | B2/55 | P39 |
5 | 『玉川上水通船一件』 | Z1/03 |
ハンス・ハンター(英籍)=範多範三郎(日本籍)。父が英国人、母が日本人で、ハンター財閥の二男(1884~1947)、貿易商。小金井カントリー倶楽部の発起人の一人。
昭和12年ころ、このゴルフ場の北側隣接地に1万6千坪を買収し、農園を作り、それを範多農園と呼んでいました。栃木県塩原にあった庄屋の建物を移築しましたが、昭和20年4月19日の空襲で焼失。昭和22年9月24日死去、64歳でした。
この広大な土地は売却されましたが、現在土地の一部が農水省農薬検査所になっており、日本植物防疫研究所資料館のところに古風な白壁の土蔵がありますが、それは大岡越前守屋敷跡にあったものを移築したものと伝えられています。
「日光鱒釣紳士物語」に範多農園のことやハンターの写真が掲載されています。また、小平市玉川上水を守る会の運営サイト「玉川上水事典」の中に「範多農園」について掲載があります。
番号 | 資料のタイトル | 分類番号 | 該当ページ |
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1 | 『小平市三十年史』 | B1/10 | p185~186 |
2 | 『日光鱒釣紳士物語』 | D7/90 | |
3 | 『市報こだいら』の記事(昭和62年12月20日号) | ||
4 | 『ほのぼのマイタウン』の記事(2008年10/11月号No.134で特集) | ||
5 | HP『玉川上水事典』(小平市玉川上水を守る会) |
まいまいず井戸は別名「すり鉢井戸」ともいわれ、さし渡し(直径)20メートル~30メートルの地面をすり鉢形に地下水が湧き出るまで掘り下げた井戸です。水辺までらせん状に道をつけた形がカタツムリの殻に似ていたので、まいまいず井戸と呼ばれました。
小平のまいまいず井戸は、確かな史実と遺跡がないのが残念なところですが、言い伝えでは、小平区域に入ってからの鎌倉街道の脇で、旅人の飢渇に備えて、二ケ所あったと伝えられています。
その跡は探れないのですが、ブリヂストン東京工場の敷地内と、津田塾大学東側の畑地と思われます。その周り一帯に地下から掘り出された色の変わった小石が散在しています。
番号 | 資料のタイトル | 分類番号 | 該当ページ |
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1 | 『こだいらの文化財みて歩き』 | D7/10 | p11 |
2 | 『郷土こだいら』 | B1/10 | p122,123 p38に図 |
3 | 『玉川上水と分水』 | Z1/00 | |
4 | 『武蔵野の民話と伝説 中』 | E5/02 | p210~ |
5 | 『武蔵野歴史探訪』 | D2/02 | p61 |
小平市発行の「統計書」1自然条件、2気象のページに記載されています。統計書は昭和54年版からあります。また昭和54年版をみると、昭和44年から10年間分の統計を調べることができます。
番号 | 資料のタイトル | 分類番号 | 該当ページ |
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1 | 『小平市統計書』 | K1/10 |
古い街道は青梅街道(成木街道)、東京街道(江戸街道)、五日市街道、鎌倉街道、たかの街道、小金井街道(志木街道)、府中街道(所沢街道)等です。
青梅街道(成木街道)は、慶長年間に開かれた道で小平を東西に走っています。江戸城の修理に青梅から石灰が運ばれました。
東京街道(江戸街道)は、青梅街道より新しい道ですが、詳しくはわかりません。
五日市街道は、五日市から薪や炭を運ぶ道でした。
鎌倉街道は源頼朝が鎌倉幕府を開くにおよんで呼ばれた道で、千数百年の歴史を持ち沢山の史跡と伝説がのこっています。
たかの街道は、寛永年間以後小川村は徳川御三家のひとつ尾張徳川家のお鷹場になっており、この街道は隣の将軍家のお鷹場との境い目の道でした。
小金井街道(志木街道)は、小金井市から埼玉県志木に通じる道で、田無が開けていなかったころ麦等の穀物を売りに、また農具等を買うために行き来した道路です。
府中街道(所沢街道)は、鎌倉街道が近世になって衰退したため、この道がそれにかわりました。
そのほかに鈴木街道、回田道が、また近年では、学園中央通り(五間通り)、あかしあ通り、新青梅街道、新小金井街道等があります。
番号 | 資料のタイトル | 分類番号 | 該当ページ |
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1 | 『こだいらの文化財みて歩き』 | D7/10 | p13~ |
2 | 『としょかんこどもきょうどしりょう』 | B0/10 | p8 |
3 | 『郷土こだいら』 | B1/10 | p258~ |
4 | 『こだいら歩っとマップ』 | D4/10 |
青梅街道、東京街道、五日市街道など街道沿いに今でも見ることができます。屋敷森は家屋を守る防風林の役目をしています。冬は雨が少なく、秩父おろし・筑波おろしという砂混じりの冷たい北風を防ぎ、夏から秋は台風対策として、ここに暮す人々の知恵であり、武蔵野の代表的な風景でした。
樹種はケヤキ、カシ、シイ、スギ、タケ等です。また樹種の用途は、ケヤキは落ち葉が堆肥に、用材は柱などに適し、カシは成長が早く器具財として、タケは家具や野菜を入れる籠と、用途が広く一石二鳥の働きをしていました。
番号 | 資料のタイトル | 分類番号 | 該当ページ |
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1 | 『郷土こだいら』 | B1/10 | p2~ |
2 | 『多摩のあゆみNo.53号』 | B0/03 | p18~ |
3 | 『武蔵野の屋敷森』 | S4/02 | |
4 | 『樹 東京の巨樹』 | Q5/00 | p62~89 |
小平という地名が誕生したのは明治22年4月に小平村が成立した時です。この地域が平らな地形であるのと、小川村が最初の開拓村落であることから「平」の上に「小」をつけて、当時存在した7村を合併して「小平村」としました。
その後、昭和19年2月11日に小平町となり、昭和37年10月1日に8字あった地区名から現在も使用している33町名へ変更して小平市となりました。
それまで使っていた地番は天神町一丁目・鈴木町一丁目・御幸町以外はそのまま使用するというものでした。
昭和37年5月に住居表示に関する法律が施行され、小平市では昭和52年10月1日に学園西町を三つの丁目に分割して従来の地番表示から住居表示制度を導入しました。学園西町を皮切りに平成9年に栄町の住居表示を実施するまで、住居表示地区を増やし市制施行時の33町から65町となりました。そのうち50町で住居表示へ完全移行しています。
番号 | 資料のタイトル | 分類番号 | 該当ページ |
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1 | 『小平町誌』 | B1/10 | p403 |
2 | 『小平市三〇年史』 | B1/10 | p252 |
3 | 『小平町報縮刷版 昭和26年7月~昭和37年9月 』 | G5/10 | S37年9月5日号 |
4 | 『小平市報縮刷版 昭和37年10月~昭和42年12月 』 | G5/10 | S37年10月20 日号 |
5 | 小平市のホームページ | 小平市の住居表示 |
『小平町誌』には、村まつりと一年間の年中行事が季節を追って紹介されています。
『ききがき 小川四番の女たちII』には、『小平町誌』の年中行事と、ききがきした事柄を並べて記述されているのでよりわかりやすくなっています。
「市民まつり」については、『小平市三〇年史』に詳しく記述されています。「市民まつり」は、昭和51年に市で初めて完成した都市計画道路「あかしあ通り」で行われ、第3回から、期日は10月の第3日曜日に定着しました。まつりは、「あかしあ通り」を歩行者天国にして民謡流し踊り、パレード、鈴木ばやしの山車なども繰り出し、参加団体・市民それぞれが交流とふれないの輪を広げています。
番号 | 資料のタイトル | 分類番号 | 該当ページ |
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1 | 『小平町誌』 | B1/10 | p1205~1222 |
2 | 『ききがき 小川四番の女たちII』 | E3/10 | p18~68 |
3 | 『小平市三〇年史』 | B1/10 | p468~469 |
4 | 『としょかんこどもきょうどしりょう』 | B0/10 | p47 |
5 | 『写真で見る小平の年中行事』 | E4/10 |
『東京大空襲・戦災誌 第3巻』、『国分寺市史 下巻』によると、昭和20年1月9日、B29一機が小平町上空で撃墜され、空中分解し、機体の主要部分は、国分寺野中新田(現国分寺市北町三丁目)の畑に墜落、機体の一部は、現国分寺市並木町一丁目の畑に落下。また、小平町小川寺南(現武蔵野美術大学付近)の畑の中にも機体の一部が落下しました。
番号 | 資料のタイトル | 分類番号 | 該当ページ |
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1 | 『東京大空襲・戦災誌 第3巻』 | Z5/00 | p124 |
2 | 『国分寺市史 下巻』 | B1/25 | p305~307 |
3 | 『小平市三〇年史』 | B1/10 | p256 |
4 | 『多摩の空襲と戦災』 | Z5/03 | p42~43 |
5 | 『この悲しみをくり返さない 立川空襲の記録III』 | Z5/28 | p347~349 |
小平の区域内では、多くの軍関係施設が置かれていたため、空襲を免れず、多くの防空壕が存在していました。
『そのとき小平では 戦時下のくらし』の中で戦争当時、小平に住んでいた方の体験談から防空壕について多数出てきます。「道の両側に防空壕が掘ってあった。」「小川寺の炊事場の脇にあった。」「防空壕はどこの家にもあって、野菜を囲うムロとは別に掘っていた。」「ムロを防空壕代わりで使って、40人位入るような広いところもあった。」「竹藪や樹の下に一畳から一畳半くらいの広さに作った。」「青梅街道の道路の両端に側溝があり、中に石橋がかかっていて、その下に隠れて助かった人もいた。」などです。
『小平市立小平第一小学校 沿革誌資料集』には、小平第一国民学校(現小平1小)の校庭の片隅に防空壕があったことが記述されています。
このように、小平区域内にも学校・お寺・道路の脇・個人宅に数多く存在していて、これらの資料から、戦争中の様子がうかがい知ることができます。
番号 | 資料のタイトル | 分類番号 | 該当ページ |
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1 | 『ききがき そのとき小平では』 | Z5/10 | p5~19 |
2 | 『小平市立小平第一小学校 沿革誌資料集』 | O2/11 | p61 |
3 | 『小平市三〇年史』 | B1/10 | p258 |
4 | 『ききがき そのとき小平では 3』 | Z5/10 | p38 |
5 | 『疎開は勝つため国のため』 | Z5/10 | p47~50 |
6 | 『東京女子高等師範学校 学童の疎開 〔コピー版〕』 | Z5/00 | p7 |
7 | 『里にうつりて』 | Z5/10 | p12 |
8 | 『ききがき 小川四番の女たち』 | E3/10 | p28,27 |
『東京都水道史』には、施設の戦災被害状況として被害年月日、場所、状況等があり、7か所の場所は次のとおりです。
(北多摩郡玉川上水路)(1)砂川村砂川八之橋、(2)小平町小川橋下流、(3)小平町野中新田、(4)小平町小川新田、(5)西砂川村西砂川、(6)砂川村10番、(7)砂川村8番
地図上で場所がわかる資料は、『玉川上水文化財調査報告』で東小川橋下流(表示あり)と小川橋上流の2か所です。小平分水取入口付近に落ちた爆弾は、左右の両護岸を破壊しましたが、幸い通水には支障ありませんでした。
番号 | 資料のタイトル | 分類番号 | 該当ページ |
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1 | 『東京都水道史』 | Z1/00 | p392~393 |
2 | 『小平市三〇年史』 | B1/10 | p256 |
3 | 『東京大空襲・戦災誌 第3巻』 | Z5/00 | p290 |
4 | 『玉川上水文化財調査報告』 | Z1/00 | p122 |
5 | 『玉川上水事典』 | Z1/10 | p43 |
剥製のライオンは、昭和60年、中央図書館が開館した年に株式会社ブリヂストンより寄贈されました。このライオンは、ブリヂストンの創業者である石橋正二郎氏が、西鉄ライオンズが日本一になった昭和31年に、祝勝記念として贈ったものだそうです。
番号 | 資料のタイトル | 分類番号 | 該当ページ |
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1 | 『小平市立図書館20年のあゆみ 年表・資料』 | A1/10 | p9 |
2 | 『小平市立図書館30年のあゆみ』 | A1/10 | p17 |
3 | 『図書館だより59号』 | p3 | |
4 | 『正二郎はね』 | V3/00 | p202~206 |
小川村で最も古い地図は、延宝二年(1674)ころに描かれた地割図(区画された耕地を表した地図)です。この地図は小川家に現存し、『小平町誌』の付図になっています。 小川村の地割は、玉川上水と野火止用水の間に整然とした短冊形をしていて、検地帳から見ると、全部で109区画あります。多くの農民はおよそ18メートルの間口で、奥行については屋敷分が約45メートル、その先に450メートルあまりの耕地を所有していたことになります。
番号 | 資料のタイトル | 分類番号 | 該当ページ |
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1 | 『小平町誌 折込地図』 | D4/10 | |
2 | 『小平市史料集 第26集』 | B2/10 | p251~253 |
3 | 『小川家文書目録 上巻』 | B2/101 | 口絵p2~3 |
4 | 『小平市三〇年史』 | B1/10 | p34~37 |
『玉川上水文化財調査報告』P122~P124に橋名と由来が、P191~P208に写真が掲載されています。主な橋の由来は次のとおりです。
・小川橋
昭和29年3月架設 別名小川上ノ橋ともいい、立川街道、山口通り(青梅街道)の交差する旧街道で小川村に架かることに由来します。
・寺橋
昭和4年8月架設 小川九郎兵衛開基の小川寺南方に架かることに由来します。
・久右衛門橋
昭和7年1月架設 名主久右衛門の名に由来します。
・鎌倉橋
昭和52年3月架設 鎌倉古街道筋に当ることに由来します。
・山家橋
昭和50年9月架設 この辺一帯は山家新田でそのまま地名が残っていることに由来します。
番号 | 資料のタイトル | 分類番号 | 該当ページ |
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1 | 『玉川上水文化財調査報告』 | Z1/00 | p122~124,p191~208 |
2 | 『玉川上水 橋と碑と』 | Z1/00 | p60~64 |
3 | 『道草の参考書 グリーンロードのまち こだいら』 | D2/10 | p36 |
4 | 『小平周辺ぶらり散策コース』 | D2/10 | p5,29 |
5 | 『小平市三〇年史』 | B1/10 | p12,571 |
昭和36年10月、小平音頭普及会が結成され、ここが中心になって資金を集めて専門家に作詞、作曲を依頼しました。作詞は横沢千秋、作曲は葉山太郎で、昭和38年10月、一橋大学小平分校で発表会が行われ、その後、山口茂の振付けで踊りも加わり愛好者が増えました。歌詞は小平市三〇年史に掲載されています。カセットも所蔵しています。
番号 | 資料のタイトル | 分類番号 | 該当ページ |
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1 | 『小平市三〇年史』 | B1/10 | p470~471 |
2 | 『小平音頭』 | カセットテープ |
農産物については『こだいらの農業』に年度ごとの統計があります。 『道草の参考書 グリーンロードのまち こだいら』には、日本で初めて作物として栽培したのが小平であるなど、ブルーベリーについて詳しく書かれています。その他の名産として、小平梨、ぶどう、うど、うどん、名産を使った和洋菓子や、酒などもあります。
番号 | 資料のタイトル | 分類番号 | 該当ページ |
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1 | 『こだいらの農業』 | V4/10 | |
2 | 『道草の参考書 グリーンロードのまち こだいら』 | D2/10 | p89 |
3 | 『小平市三〇年史』 | B1/10 | p287~291 |
4 | 『農産物直売所マップ』 | D4/10 |
『小平町誌』によると、昭和28年6月18日午後4時15分、小川四番北裏(現在の小川町1丁目付近)に駐留軍機グローブマスターが墜落し、乗員129人全員が死亡しました。 『小平市史料集近現代編 第3集 小平市関連新聞記事集 下巻』には、当時の新聞記事が収録されており、墜落時の様子の状況や青梅街道や五日市街道の交通がマヒしたことなどいかに大惨事であったかがわかります。
番号 | 資料のタイトル | 分類番号 | 該当ページ |
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1 | 『小平市史料集 近現代編第3集小平市関連新聞記事集 下巻』 | B2/10 | p426~434 |
2 | 『小平町誌』 | B1/10 | p687 |
3 | 『小平町報縮刷版 昭和26年7月~昭和37年9月』 | G5/10 | p31 |
4 | 『小平事始め年表・索引(稿)』 | B1/10 | p51 |
5 | 『昭和災害史年表事典 2 昭和21年~昭和35年』 | R210.7 | p100 |
6 | 『近代日本総合年表 第4版』 | R210.6 | p396 |
7 | 『朝日年鑑 昭和29年版』 | R059.1 | p12・p280 |
8 | 朝日新聞データベース『聞蔵II』1953年6月19日(朝刊) | ||
9 | 朝日新聞データベース『聞蔵II』2011年6月18日(朝刊) | ||
10 | 中央評論 No.278 | B7/11 |
(番号1の内容)・『毎日新聞』都下版 ・『朝日新聞』第一都下版
以下の資料に小平の昔の写真が掲載されています。
『小平町誌』
昭和30年頃の小平の風景写真が掲載されている。
『こだいらの「郷土写真」 小平市史別冊写真集』
用水と街道の走るまち・変わりゆく農村・暮らしの諸相の3章から構成されて、写真が掲載されている。巻末には掲載写真一覧がある。
『市民の思い出写真集 小平市制施行30周年記念』
市制パレード・都市の景観・なつかしい思い出・自然の景観の4項目に分類されて、 写真が掲載されている。
『郷土写真展図録 市制施行50周年記念事業~小平のいまむかし~』
市制施行50周年を記念して、小平市立図書館が作成した資料。「図書館」、「玉川上水」や「青梅街道」等のテーマに沿った写真が掲載されている。
『郷土写真展図録 テーマ:風致地区』
『こだいら今昔 郷土写真展図録』
『この30年 市民の思い出写真展 小平市制30周年記念』
『小平いまむかし 写真でみるふるさとの移りかわり』
『目で見る国分寺・国立・小金井・小平の100年』
番号 | 資料のタイトル | 分類番号 | 該当ページ |
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1 | 『小平町誌』 | B1/10 | |
2 | 『こだいらの「郷土写真」 小平市史別冊写真集』 | Y9/10 | |
3 | 『市民の思い出写真集 小平市制施行30周年記念』 | Y9/10 | |
4 | 『郷土写真展図録 市制施行50周年記念事業~小平のいまむかし~』 | Y9/10 | |
5 | 『郷土写真展図録 テーマ:風致地区』 | Y9/10 | |
6 | 『こだいら今昔 郷土写真展図録』 | Y9/10 | |
7 | 『この30年 市民の思い出写真展 小平市制30周年記念』 | Y9/10 | |
8 | 『小平いまむかし 写真でみるふるさとの移りかわり』 | Y9/10 | |
9 | 目で見る国分寺・国立・小金井・小平の100年 | Y9/20 |
小平の一番古い地図は、「小川村の地割図(延宝2年頃)」(1670)です。掲載している資料は昭和32年に発行された「小平町誌」の付録の地図(No.1)や『小平市史別冊図録 近世の開発と村のくらし』(No.2)です。
明治初期に参謀本部陸軍部測量局の測量による『貳萬分之一 迅速測図』(No.3)が作成されています。これは、地図の作成を急ぐ明治初期に、三角測量をせずに作成されたものです。
小平市立図書館所蔵している一番古い小平の住宅地図は昭和39年の資料(No.4)があります。
番号 | 資料のタイトル | 分類番号 | 該当ページ |
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1 | 『小平町誌 折込地図』 | D4/10 | |
2 | 『小平市史別冊図録 近世の開発と村のくらし』 | B1/10 | p16 |
3 | 『貳萬分之一 迅速測図』 | D4/00 | |
4 | 『三多摩地区商工住宅名鑑 小平市 1964年(昭和39年)』 | D4/10 |
『小平のお寺』(No.1)と『小平の神社』(No.2)の資料は小平市教育委員会が文化財特別展で作成した解説です。1冊全てお寺と神社についての記載があります。
『小平市史 近世編』(No.3)には新田開発と寺社に関する記載、『小平市史 地理・考古・民俗編』(No.4)には各寺社の由緒来歴に関する記載があります。
また『近世の開発と村のくらし』(No.5)では寺社をカラー写真で見ることができます。
番号 | 資料のタイトル | 分類番号 | 該当ページ |
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1 | 『小平のお寺』 | E9/10 | |
2 | 『小平の神社』 | E9/10 | |
3 | 『小平市史 近世編』 | B1/10 | p215~251,433~448 |
4 | 『小平市史 地理・考古・民俗編』 | B1/10 | p487~519 |
5 | 『近世の開発と村のくらし』 | B1/10 | p20,35,43,54,62 |
6 | 『小平の歴史』 | B1/10 | p78~84 |