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41. (はな)江戸(えど)(じょう) Part2(パートツー)

江戸(えど)城内(じょうない)探検(たんけん)だ!

二の丸中御門

たんけんだあ!
と、()うわけで、今回(こんかい)はいよいよ、江戸(えど)城内(じょうない)にせまりまする。
(かぞ)えきれない城門(じょうもん)(やぐら)多聞(たもん)御殿(ごてん)迷路(めいろ)のように()(なら)び、こいつはすごいワンダー・ランドだ。
この(なか)をいったいどれくらいたくさんの歴史上(れきしじょう)有名人(ゆうめいじん)(とお)っていったんだろう?
みんなもちょっと江戸城(えどじょう)住人(じゅうにん)気分(きぶん)になって、あちらこちらをのぞいてみよう。

タイムマシンがなくっても…
江戸城(えどじょう)火事(かじ)などで(うしな)われた部分(ぶぶん)もあったけど、明治(めいじ)維新(いしん)(とき)にもだいぶとりこわしがおこなわれた。それに関東(かんとう)大震災(だいしんさい)なんかもあったしね。それでも皇居(こうきょ)のまわりには、当時(とうじ)江戸城(えどじょう)のおもかげがあちらこちらに(のこ)ってるよ。

地図(ちず)()江戸(えど)(うつ)()わり

線路は目安のために入れました

1.江戸(えど)(だい)1()建設(けんせつ) 慶長(けいちょう)7(ねん)(1602)ごろ(「慶長(けいちょう)7(ねん)江戸(えど)()」より)
慶長7年江戸図

2.江戸(えど)(だい)2()建設(けんせつ) 慶長(けいちょう)13(ねん)(1608)ごろ(「慶長(けいちょう)13(ねん)江戸(えど)()」より)
慶長13年江戸図

3.江戸(えど)(だい)3()建設(けんせつ) 寛永(かんえい)9(ねん)(1632)ごろ(「武州豊嶋郡(ぶしゅうとしまぐん)江戸(えど)庄図(しょうず)」より)
武州豊嶋郡江戸庄図

4.江戸(えど)(だい)4()建設(けんせつ) 正保(しょうほう)(ねん)(1644)ごろ(「正保(しょうほう)年間(ねんかん)江戸(えど)()」より)
正保年間江戸図

江戸城(えどじょう)のつくり その1

お庭番見参! 1.(しろ)構造(こうぞう)
(しろ)と、その城下町(じょうかまち)は「(くるわ)」という、(るい)(とりで)と(ほり)とでかこまれた部分(ぶぶん)から()()っている。その(なか)仕組(しく)みはこうだ!

外郭(がいかく)(そとのくるわ) 城下町(じょうかまち)全体(ぜんたい)まで(ふく)める範囲(はんい)のこと。(ふる)くは「総構(そうがま)え」とも()った。

内郭(ないかく)(うちのくるわ) (しろ)のあるところを()う。本丸(ほんまる)()(まる)(さん)(まる)などからなる。
どうして「まる」なの?
(まる)」とは「(くるわ)」(「曲輪」とも()く)と(おな)意味(いみ)。とりでや(しろ)のまわりにめぐらす、土手(どて)石垣(いしがき)()い、またその内側(うちがわ)場所(ばしょ)をさす。
山城(やまじろ)があったりまえだった鎌倉(かまくら)時代(じだい)(やま)のてっぺんをまっ(たい)らにして(くるわ)(きず)いたのでその敷地(しきち)(まる)かった。そこから「(まる)」と()ばれるようになったんだって。
本丸(ほんまる) もっとも重要(じゅうよう)なところ。城主(じょうしゅ)()んで政治(せいじ)をおこなう役所(やくしょ)
()(まる) 城主(じょうしゅ)()どもなど、(ちか)血筋(ちすじ)(もの)たちの屋敷(やしき)()てられる。
(さん)(まる) 重臣(じゅうしん)たちが()んだり、(こめ)武器(ぶき)などの(くら)()かれる。
(おお)きい(しろ)になると、この(ほか)にこんな(まる)もつくる。
山里(やまざと)(まる) 城主(じょうしゅ)別荘(べっそう)
西(にし)(まる) 本丸(ほんまる)西(にし)につくる。城主(じょうしゅ)隠居(いんきょ)した(とき)屋敷(やしき)()てる。

そして、本丸(ほんまる)()(まる)(さん)(まる)()()わせの基本(きほん)パターンはこうだ!

梯郭式 (1)梯郭式(ていかくしき)
(さん)(まる)大手(おおて)正面(しょうめん))から、()(まる)本丸(ほんまる)(じゅん)(てい)階段(かいだん))をのぼるように(たか)くなる(かま)え。山城(やまじろ)平山城(ひらやまじろ)(おお)い。

環郭式

(2)環郭式(かんかくしき)
本丸(ほんまる)中心(ちゅうしん)にその(そと)(かん)())のように()(まる)(さん)(まる)をめぐらす(かま)え。平山城(ひらやまじろ)平城(ひらじろ)(おお)い。

連郭式

(3)連郭式(れんかくしき)
大手(おおて)から、(さん)(まる)()(まる)本丸(ほんまる)一列(いちれつ)()らねる(かま)え。平城(ひらじろ)(おお)い。

渦郭式

(4)渦郭式(かかくしき)
(さん)(まる)から(うず)まきのように、()(まる)本丸(ほんまる)へといたる(かま)え。平山城(ひらやまじろ)(おお)い。

江戸城(えどじょう)は(4)の渦郭式(かかくしき)(かま)えをとっている。
本丸(ほんまる)高台(たかだい)のまわりを、()(まる)(さん)(まる)西(にし)(まる)(きた)(まる)(うず)まき(じょう)()(かこ)む。(しろ)(かま)えとしてはもっとも複雑(ふくざつ)()められにくい。

2.江戸城(えどじょう)内郭(ないかく)
本丸(ほんまる)()(まる)(さん)(まる)西(にし)(まる)(きた)(まる)とそろったその面積(めんせき)全国(ぜんこく)(しろ)(なか)で、最大(さいだい)規模(きぼ)

まず本丸(ほんまる)
将軍(しょうぐん)住居(じゅうきょ)であり、政治(せいじ)をおこなう役所(やくしょ)でもある。この建物(たてもの)北西部(ほくせいぶ)には五層(ごそう)大天守(だいてんしゅ)(みなみ)はしには富士見(ふじみ)三層(さんそう)(やぐら)がそびえ()ち、天下(てんか)()おろしていた。
まいごになっちゃうよう 本丸(ほんまる)御殿(ごてん)(なか)はつぎの3つの区域(くいき)()かれる。
(おもて) 幕府(ばくふ)役所(やくしょ)大広間(おおひろま)遠侍(とおざむらい)白書院(しろしょいん)重臣(じゅうしん)(ひか)(しつ)などがある。「忠臣蔵(ちゅうしんぐら)」で有名(ゆうめい)松ノ廊下(まつのろうか)御成廊下(おなりろうか))もここにある。
中奥(なかおく) 将軍(しょうぐん)住居(じゅうきょ)。「(おもて)」が公用(こうよう)なのに(たい)して、ここからは将軍(しょうぐん)の「(わたくし)」のエリア。御休息(ごきゅうそく)()、御座の間、井呂裏之間(いろりのま)湯殿(ゆどの)などからなる。ここから御鈴(おすず)廊下(ろうか)(とお)って、大奥(おおおく)へいたる。
(おく) その(ひろ)さから「大奥(おおおく)」とも()ばれるようになる。将軍(しょうぐん)(おく)さんや、(おく)女中(じょちゅう)たちの住居(じゅうきょ)

ちょっとひとこと
江戸城(えどじょう)大天守(だいてんしゅ)明暦(めいれき)大火(たいか)(1657)で()けおちたあと、再建(さいけん)されることはなかった。
その()富士見(ふじみ)(やぐら)大天守(だいてんしゅ)役割(やくわり)をはたしていた。

()(まる)
将軍(しょうぐん)別荘(べっそう)として使(つか)われたり、世嗣(よつぎ)(つぎ)将軍(しょうぐん)になる予定(よてい)息子(むすこ))の住居(じゅうきょ)になることもあった。
()(まる)のいちばん(はじ)めの工事(こうじ)寛永(かんえい)7(ねん)・1630)と、つぎの工事(こうじ)寛永(かんえい)13(ねん)・1636)は小堀遠州(こぼりえんしゅう)設計(せっけい)(かつら)離宮(りきゅう)とくらべられるような、すばらしい庭園(ていえん)(つく)られた。明暦(めいれき)大火(たいか)(1657)や、延享(えんきょう)(1747)、文久(ぶんきゅう)(1863)の火事(かじ)()ける(たび)再建(さいけん)されたけれど、本丸(ほんまる)同様(どうよう)豪華(ごうか)さはひかえるようになった。

ぼくもまよっちゃったみたい(さん)(まる)
だいたい()(まる)(おな)じような役割(やくわ)りで使(つか)われた。

西(にし)(まる)
大御所(おおごしょ)引退(いんたい)した先代(せんだい)将軍(しょうぐん))の隠居所(いんきょじょ)(きた)(おか)には紅葉山(もみじやま)霊廟(れいびょう)先祖(せんぞ)(れい)をまつってあるところ)があり、まん(なか)(やかた)()つ。
その西南(せいなん)山里(やまざと)(まる)(にわ)(ひろ)がる。宝永(ほうえい)7(ねん)(1710)には「吹上(ふきあげ)御庭(おにわ)」も(もう)けられて、梅園(ばいえん)馬場(ばば)()んぼ、花壇(かだん)などがあった。さらにそのあちこちに、滝見(たきみ)茶屋(ちゃや)花壇(かだん)茶屋(ちゃや)紅葉(もみじ)茶屋(ちゃや)などの茶室(ちゃしつ)がちらばっていた。
神さまになっちゃった 慶長(けいちょう)20(ねん)(1615)5(がつ)大坂(おおさか)(なつ)(じん)豊臣家(とよとみけ)滅亡(めつぼう)()とどけると、よく(とし)元和(げんな)2(ねん)(1616)4(がつ)家康(いえやす)()くなった。そのなきがらは静岡(しずおか)久能山(くのうざん)にまつられ、(のち)日光(にっこう)にうつされた。
東照宮(とうしょうぐう)というのは家康(いえやす)をまつる神社(じんじゃ)なのだけれど、江戸(えど)城内(じょうない)西(にし)(まる)紅葉山(もみじやま)にも東照宮(とうしょうぐう)()てられた。

(きた)(まる)
もともとは重臣(じゅうしん)屋敷(やしき)のための土地(とち)だった。けれど明暦(めいれき)大火(たいか)(1657)以降(いこう)花畑(はなばたけ)とか将軍(しょうぐん)血筋(ちすじ)(もの)屋敷地(やしきち)になったりした。
火事(かじ)による焼失(しょうしつ)再建(さいけん)をくりかえし、徳川(とくがわ)時代(じだい)()わりを()げる(とき)西(にし)(まる)だけが江戸城(えどじょう)にのこされた最後(さいご)御殿(ごてん)になっていた。明治(めいじ)維新後(いしんご)はここが皇居(こうきょ)となり、明治(めいじ)6(ねん)(1873)に()けてしまうまで使(つか)われた。西(にし)(まる)皇居(こうきょ)となった理由(りゆう)だ。

3.江戸城(えどじょう)石垣(いしがき)()
慶長(けいちょう)10(ねん)(1605)4(がつ)家康(いえやす)隠居(いんきょ)し、()(だい)将軍(しょうぐん)秀忠(ひでただ)本格的(ほんかくてき)天下(てんか)普請(ふしん)()()いだ。(しろ)のまわりの石垣(いしがき)(きず)仕事(しごと)大名(だいみょう)たちに()()てられた。
日比谷(ひびや)入江(いりえ)()()()()むと、(おも)石垣(いしがき)(しず)んでしまう。そこで「筏地形(いかだじぎょう)」といって、()()ての(どろ)(なか)(いかだ)()んで()めてから、石垣(いしがき)()方法(ほうほう)がとられた。それでも石垣(いしがき)はくずれ、工事中(こうじちゅう)事故(じこ)でたくさんの死傷者(ししょうしゃ)()た。
そんななかで、加藤(かとう)清正(きよまさ) (注釈)は、 武蔵野(むさしの)(しげ)(かや)()りとらせ、泥地(どろち)()きつめると、10~15(さい)()どもを(あつ)め、その(うえ)(あそ)ばせた。こうしてじゅうぶん()みかためてから、石垣(いしがき)(きず)いた。おかげで、時間(じかん)はかかったけれど、地震(じしん)にもびくともしない頑丈(がんじょう)石垣(いしがき)ができあがったということだ。

秀吉様にはおトラとかわいがられました(注釈)加藤(かとう)清正(きよまさ)(1562-1611)
通称(つうしょう)虎之助(とらのすけ)(おさ)ない(ころ)から豊臣(とよとみ)秀吉(ひでよし)(つか)え、(おお)くの()がらをたてた。関ヶ原(せきがはら)(たたか)いでは徳川(とくがわ)(がた)についたが、秀吉(ひでよし)(おん)(おも)って、豊臣家(とよとみけ)大事(だいじ)にした。家康(いえやす)からは肥後国(ひごのくに)(あた)えられ、熊本(くまもと)城主(じょうしゅ)築城(ちくじょう)治水(ちすい)工事(こうじ)名人(めいじん)といわれたうえ、文学(ぶんがく)芸術(げいじゅつ)にも理解(りかい)(ふか)く、論語(ろんご)をよく()み、信仰心(しんこうしん)のあつい(ひと)だった。

石垣(いしがき)()みは、織田(おだ)信長(のぶなが)安土城(あづちじょう)以来(いらい)(しろ)(きず)くさいに大名(だいみょう)たちが一番(いちばん)(ちから)()れるところ。石垣(いしがき)使(つか)(いし)は、安山岩(あんざんがん)花崗岩(かこうがん)片麻岩(へんまがん)などだ。
そして、(いし)()(かた)にはいくつかの方法(ほうほう)がある。
(1)野面積(のづらづ)
自然(しぜん)(いし)をそのまま()む、というもっとも(ふる)いやり(かた)古代(こだい)中世(ちゅうせい)(しろ)石垣(いしがき)はこの方法(ほうほう)
(2)()()みハギ
自然(しぜん)(いし)()()げてから、石垣(いしがき)外側(そとがわ)部分(ぶぶん)だけを(たい)らに仕上(しあ)げる。それから、(いし)(いし)(あいだ)のつなぎに小石(こいし)をはさんで()()む。
信長(のぶなが)安土城(あづちじょう)以来(いらい)(ひろ)まった方法(ほうほう)でこの当時(とうじ)(しろ)はこのやり(かた)(もち)いた。
(3)()()みハギ
たて・(よこ)(なが)さの()をおよそ1(たい)1(たい)2の割合(わりあい)直方体(ちょくほうたい)(キャラメルの(はこ)(かたち))にして()()した(いし)()んでゆく。
(いし)(いし)(あいだ)にほとんどすき()がない。江戸(えど)(はじ)めに(さか)んになった方法(ほうほう)
もちろん江戸城(えどじょう)石垣(いしがき)は、これ。
石の積み方
石垣(いしがき)勾配(こうばい)は、野面積(のづらづ)みで67.5()()()みハギで75()()()みハギで75()というのが基本(きほん)
くずれたらコワイぞ… そして大事(だいじ)なのは、石垣(いしがき)(した)から中央(ちゅうおう)まで、たるみがありながら、(うえ)はしは垂直(すいちょく)になっているってことなんだ。これを「立水(たてみず)」(水平(すいへい)にしたものを垂直(すいちょく)にたてるという意味(いみ))という。さらに石積(いしづ)みの技術(ぎじゅつ)発達(はったつ)すると、石垣(いしがき)上端(うえはし)外側(そとがわ)にソリ()てくる。これを「(しの)(がえ)し」という。

4.そびえる天守(てんしゅ)
やぐらって何よ? 天守(てんしゅ)というのは本丸(ほんまる)にある最大(さいだい)(やぐら)をいう。戦争(せんそう)のさいには展望台(てんぼうだい)司令塔(しれいとう)、そして最後(さいご)のとりでともなる重要(じゅうよう)拠点(きょてん)だ。
天守(てんしゅ)家康(いえやす)時代(じだい)慶長(けいちょう)12(ねん)(1607)の工事(こうじ)では「環立式(かんりつしき)」という(かたち)をとった。これは戦国(せんごく)実戦用(じっせんよう)のつくりだった。本丸(ほんまる)中心(ちゅうしん)にそびえ()つ、大天守(だいてんしゅ)(ひがし)(きた)西(にし)順番(じゅんばん)(しょう)天守(てんしゅ)()てて、()のようにつなぐ。こうすると本丸(ほんまる)(なか)にさらに(よっ)つの天守(てんしゅ)(かこ)んだ「天守(てんしゅ)(まる)」という(くるわ)ができて、本丸(ほんまる)(てき)()めこまれても、この天守(てんしゅ)(まる)だけで籠城(ろうじょう)できる。
それが()(だい)将軍(しょうぐん)秀忠(ひでただ)時代(じだい)になると、元和(げんな)9(ねん)(1623)の工事(こうじ)で「単立式(たんりつしき)」という(かたち)()てかえられた。天守(てんしゅ)(しろ)のシンボルにすぎなくなった。
環立式単立式
さらに(さん)(だい)将軍(しょうぐん)家光(いえみつ)時代(じだい)寛永(かんえい)15(ねん)(1638)に工事(こうじ)があって、この(とき)完成(かんせい)した天守(てんしゅ)はどの方向(ほうこう)から()ても正面(しょうめん)()えるデザインだったので、「八方(はっぽう)正面(しょうめん)」と()ばれた。
江戸城(えどじょう)天守(てんしゅ)地震(じしん)台風(たいふう)(つよ)く、木造(もくぞう)でも土壁(つちかべ)(あつ)く、屋根(やね)銅瓦(どうがわら)ぶきの耐火(たいか)建築(けんちく)だった。
このころは土瓦(つちがわら)がふつうで、金属(きんぞく)(がわら)使(つか)ったのは江戸城(えどじょう)日本(にっぽん)最初(さいしょ)、だった。けれども(ひら)いた(まど)から()がはいってしまったおかげで、明暦(めいれき)大火(たいか)(1657)により()けてしまい、その()()(なお)されることはなかった。

今の皇居の図

かつての江戸城(えどじょう)(しの)ぶばかりが(のう)じゃないぞ!
皇居(こうきょ)のまわりは科学(かがく)技術館(ぎじゅつかん)あり、国立(こくりつ)近代(きんだい)美術館(びじゅつかん)あり、(はる)のお花見(はなみ)千鳥ヶ淵(ちどりがふち)のボート()りと(あそ)べる、(あそ)べる。

江戸城(えどじょう)のつくり その2

「幕末江戸城門絵図」を見ながら読んでね
5.城門(じょうもん)、たくさん
城門(じょうもん)は「見付(みつけ)」とも()ばれ、(ほり)(ふし)になっていた。「見付(みつけ)」は「見付(みつ)ける」-つまり、見張(みは)りのための場所(ばしょ)。そして、(くるわ)出入口(でいりぐち)になっているような重要(じゅうよう)(もん)はほとんどが枡形(ますがた)(もん)といわれるもの。枡形(ますがた)(もん)というのは、出入口(でいりぐち)四角形(しかくけい)一画(いっかく)(もう)けて、(しろ)外側(そとがわ)に「一の(もん)」、(しろ)内側(うちがわ)に「()(もん)」とふたつの(かん)(もん)(もう)けるもの。これは(てき)()めこまれにくいように、という工夫(くふう)のひとつだ。
門の数は90くらいあったとか
枡形門のしくみ 寛永(かんえい)3(ねん)(1626)には警備(けいび)規則(きそく)もできあがり、大手(おおて)(もん)(なか)(もん)中雀(ちゅうじゃく)(もん)など、中心(ちゅうしん)(ちか)(もん)警備(けいび)は、旗本(はたもと)御家人(ごけにん)担当(たんとう)した。本丸(ほんまる)西(にし)(まる)(もん)内郭(ないかく)(もん)大名(だいみょう)担当(たんとう)した。
江戸城(えどじょう)(もん)(ぞく)に「三十六見付(みつけ)」とよばれ、それだけたくさんあったんだってことなんだ。(いま)はもうなくなってしまった(もん)(おお)いけれど、そのいくつかを紹介(しょうかい)してみるね。
(カッコ)(ない)は「城門(じょうもん)絵図(えず)」の(なか)位置(いち)番号(ばんごう)

牛込(うしごめ)(もん)
江戸城(えどじょう)外郭(がいかく)(きた)寛永(かんえい)13(ねん)(1636)に()てたといわれる。そのころ、このあたりはカエデの(はやし)だったので、「紅葉(もみじ)(もん)」とも()ばれた。(44)

数寄屋橋(すきやばし)(もん)
日比谷(ひびや)(もん)から数寄屋町(すきやまち)への出口(でぐち)にあたっていたので、この()がついた。数寄屋町(すきやまち)というのは江戸(えど)(はじ)めにこのあたりに()んだ織田(おだ)有楽斎(うらくさい)(注釈)の数寄屋造(すきやづく)りの茶室(ちゃしつ)有名(ゆうめい)だったのでうまれた町名(ちょうめい)だとか。((ほか)にも(せつ)はあるらしいけれど。)(36)
(注釈)織田(おだ)有楽斎(うらくさい)(1547~1621)
織田(おだ)信長(のぶなが)(おとうと)千利休(せんのりきゅう)から作法(さほう)伝授(でんじゅ)された茶人(ちゃじん)でもある。数寄屋橋(すきやばし)(もん)(がい)屋敷(やしき)(あと)は「有楽町(ゆうらくちょう)」という()(いま)ものこる。

西(にし)(まる)大手(おおて)(もん)
やっぱりほら将軍のすまいだから (いま)皇居(こうきょ)(せい)(もん)二重橋(にじゅうばし)のところだ。家康(いえやす)隠居所(いんきょじょ)として()てられた西(にし)(まる)(せい)(もん)だった。(ほり)(わた)(はし)(うち)(そと)二重(にじゅう)にかけられて、「(いち)(はし)」を(わた)って「(いち)(もん)」にはいり、さらに「()(はし)」を(わた)らなければ城内(じょうない)にはいれない、というつくりで、警備(けいび)のかたい門構(もんがま)え。((いま)二重橋(にじゅうばし)とはつくりがちがっていた。)(1)

ちょっとめいわくかも…半蔵(はんぞう)(もん)
家康(いえやす)時代(じだい)伊賀(いが)(もの)たちの組頭(くみがしら)で、「(おに)半蔵(はんぞう)」と()ばれた服部(はっとり)石見守(いわみのかみ)正成(まさなり)(1542~1596)の(くみ)屋敷(やしき)があったので、この()がついた、と『御府内(ごふない)備考(びこう)』に()かれている。江戸城(えどじょう)から甲州(こうしゅう)街道(かいどう)(つう)じる重要(じゅうよう)(もん)だ。(26)

坂下(さかした)(もん)
江戸(えど)時代(じだい)には「西(にし)(まる)坂下(さかした)(もん)」といった。西(にし)(まる)から(くだ)った(さか)(した)にあったからだろう。(いま)宮内庁(くないちょう)出入口(でいりぐち)になっている。(2)

田安(たやす)(もん)
このあたり、むかしは田安(たやす)(むら)といい、月見(つきみ)名所(めいしょ)だったそうな。家康(いえやす)入国後(にゅうごくご)は、(かん)八州(はっしゅう)役人(やくにん)たちの屋敷(やしき)(もう)けられ、代官(だいかん)町となった。八代(はちだい)将軍(しょうぐん)吉宗(よしむね)は、次男(じなん)屋敷(やしき)をこの(もん)(うち)()てて、徳川(とくがわ)三卿(さんきょう)のひとつ、田安(たやす)()をつくった。(27)

あっちこっちに歴史上の有名人のなごりが!日比谷(ひびや)(もん)
寛永(かんえい)4(ねん)(1627)に()てられた。広島(ひろしま)浅野(あさの)()石壁(いしかべ)をつくり、あの、伊達(だて)正宗(まさむね)枡形(ますがた)(きず)いた。(24)

四谷(よつや)(もん)
寛永(かんえい)13(ねん)(1636)の建築(けんちく)といわれる。半蔵(はんぞう)(もん)(とお)って、この(もん)()て、そこからが甲州(こうしゅう)街道(かいどう)のスタートだ。そして、武蔵野(むさしの)台地(だいち)扇形(おうぎがた)(ひろ)がる、(かなめ)部分(ぶぶん)にあたる重要(じゅうよう)(もん)。だから、ここには徳川(とくがわ)三家(さんけ)のうちの、紀州(きしゅう)尾張(おわり)(りょう)大名(だいみょう)屋敷(やしき)()かれた。(42)

桜田(さくらだ)(もん)
警視庁(けいしちょう)建物(たてもの)()かい()っている。文禄(ぶんろく)年間(ねんかん)(1592~1596)に西(にし)(まる)()てられた(とき)(うち)桜田(さくらだ)(もん)(たい)して、ここを外桜田(そとさくらだ)(もん)とした。万延元(まんえんがん)(ねん)(1860)3(がつ)には、ここで大老(たいろう)井伊(いい)直弼(なおすけ)暗殺(あんさつ)されている。(25)

常磐橋(ときわばし)(もん)
慶長(けいちょう)年間(ねんかん)(ふる)絵図(えず)では「浅草口(あさくさぐち)」、寛永(かんえい)年間(ねんかん)()では「追手口(おってぐち)」と(しる)されている。(もん)()まえも時代(じだい)でかわるんだね。ここは江戸城(えどじょう)外郭(がいかく)(せい)(もん)であります。(33)

三卿について…
徳川(とくがわ)() 三家(さんけ)家門(かもん)三卿(さんきょう)庶流(しょりゅう)

家康(いえやす)慶長(けいちょう)8(ねん)(1603)に幕府(ばくふ)(ひら)いてから265年間(ねんかん)徳川(とくがわ)()代々(だいだい)将軍(しょうぐん)(しょく)()()いで()た。そして、将軍(しょうぐん)()分家(ぶんけ)は、「三家(さんけ)」、「家門(かもん)」、「三卿(さんきょう)」、「庶流(しょりゅう)」に()けられていった。
御三家(ごさんけ) 本家(ほんけ)()権利(けんり)()つ、つぎの家系(かけい)
家康(いえやす)の 9()義直(よしなお)初代(しょだい)とする尾張(おわり)()
10()頼宣(よりのぶ)初代(しょだい)とする紀州(きしゅう)()
11()頼房(よりふさ)初代(しょだい)とする水戸(みと)()
三卿(さんきょう) のちに御三家(ごさんけ)同様(どうよう)本家(ほんけ)()権利(けんり)をもつ家系(かけい)(くわ)わる。
八代(はちだい)将軍(しょうぐん)吉宗(よしむね)()宗武(むねたけ)初代(しょだい)とする田安(たやす)()
(おな)じく吉宗(よしむね)()宗尹(むねただ)初代(しょだい)とする一橋(ひとつばし)()
九代(きゅうだい)将軍(しょうぐん)家重(いえしげ)()重好(しげよし)初代(しょだい)とする清水(しみず)()
以上(いじょう)六家(ろっけ)は「徳川(とくがわ)(せい)()のった。
家門(かもん) 家康(いえやす)次男(じなん)結城(ゆうき)秀康(ひでやす)初代(しょだい)とする越前(えちぜん)松平(まつだいら)()
()(だい)将軍(しょうぐん)秀忠(ひでただ)()保科(ほしな)正之(まさゆき)(のち松平(まつだいら)をなのる)の会津(あいづ)松平(まつだいら)()
庶流(しょりゅう) 以上(いじょう)(いえ)子供(こども)たちのうち、大名(だいみょう)になった(もの)たちをいう。「松平(まつだいら)(せい)()のった。

6.大名(だいみょう)小路(こうじ)
一年(いちねん)自分(じぶん)領地(りょうち)で、つぎの一年(いちねん)江戸(えど)()らすという大名(だいみょう)参勤(さんきん)交代(こうたい)制度(せいど)は、江戸(えど)にたくさんの大名(だいみょう)屋敷(やしき)をつくりだすことになった。
大名(だいみょう)屋敷(やしき)はその役割(やくわり)で、みっつに区別(くべつ)される。
(かみ)屋敷(やしき) 大名(だいみょう)小路(こうじ)など、江戸城(えどじょう)内郭(ないかく)におかれ(明暦(めいれき)大火(たいか)以前(いぜん)はね)、大名(だいみょう)本人(ほんにん)()み、江戸城(えどじょう)出仕(しゅっし)出勤(しゅっきん))するのに便利(べんり)
(なか)屋敷(やしき) 外堀(そとぼり)内側(うちがわ)にあって、大名(だいみょう)(おく)さんや子供(こども)たちが()屋敷(やしき)(かみ)屋敷(やしき)補佐(ほさ)する役目(やくめ)もある。
(しも)屋敷(やしき) 外堀(そとぼり)(そと)()てられた。(おお)きな庭園(ていえん)などがあって別荘(べっそう)として使(つか)われた。

江戸城(えどじょう)(ひがし)部分(ぶぶん)、「大名(だいみょう)小路(こうじ)」とよばれる地域(ちいき)大名(だいみょう)屋敷(やしき)がずらりとならんだ。もっとも、明暦(めいれき)大火(たいか)(1657)以降(いこう)は、御三家(ごさんけ)()()しにともなって、これらの大名(だいみょう)たちも屋敷(やしき)()えをしなければならなかったけれど。それまでは、だいたいこんな配置(はいち)だった。

譜代(ふだい)大名(だいみょう)屋敷(やしき)関ヶ原(せきがはら)(たたか)(まえ)からの徳川(とくがわ)家臣(かしん)
江戸城(えどじょう)(せい)(もん)大手(おおて)(もん)一帯(いったい)(なか)でも、老中(ろうじゅう)若年寄(わかどしより)といった幕府(ばくふ)重要(じゅうよう)役職(やくしょく)者の屋敷(やしき)は、本丸(ほんまる)大手(おおて)(もん)西(にし)(まる)大手(おおて)(もん)(ちか)い「西(にし)(まる)(した)」に()かれた。このあたりはもう「松平(まつだいら)(せい)屋敷(やしき)のオンパレードなんだ。

外様(とざま)大名(だいみょう)屋敷(やしき)関ヶ原(せきがはら)(たたか)()徳川(とくがわ)家臣(かしん)となった大名(だいみょう)
大名(だいみょう)小路(こうじ)(みぎ)うずまきを()ばした(さき)日比谷(ひびや)(もん)区切(くぎ)られたむこうに屋敷(やしき)()かれた。日比谷(ひびや)桜田(さくらだ)霞ヶ関(かすみがせき)一帯(いったい)で、赤坂(あかさか)ため(いけ)まで(つづ)いた。

おまけ 大名(だいみょう)じゃないんだけど
旗本とは… 旗本(はたもと)屋敷(やしき)
赤坂(あかさか)(もん)から喰違(くいちがい)(もん)四谷(よつや)(もん)市ヶ谷(いちがや)(もん)牛込(うしごめ)(もん)筋違橋(すじちがいばし)(もん)一帯(いったい)にあった。このあたりは麹町(こうじまち)台地(だいち)があって(かわ)(すく)なく、自然(しぜん)地形(ちけい)だけでは防衛(ぼうえい)十分(じゅうぶん)でなかった。だから、将軍(しょうぐん)直属(ちょくぞく)家臣(かしん)である旗本(はたもと)をたくさん()いて、江戸城(えどじょう)(まも)りをかためた。そこから「番町(ばんちょう)」という(まち)()もおこった。

江戸城内郭全図

幕末(ばくまつ)江戸(えど)城門(じょうもん)絵図(えず)

幕末江戸城門絵図

1.西(にし)(まる)大手(おおて)(もん)
2.坂下(さかした)(もん)
3.西(にし)(まる)書院前(しょいんまえ)(もん)
4.西(にし)(まる)(うら)(もん)
5.仲仕切(なかしきり)(もん)
6.吹上(ふきあげ)(もん)
7.山里(やまざと)(もん)
8.大田(おおた)(もん)
9.紅葉山(もみじやま)(した)(もん)
10.半蔵(はんぞう)御庭(おにわ)入口(いりぐち)(もん)
11.西(にし)(もん)
12.植木(うえき)(もん)
13.矢来(やらい)(もん)
14.新門(しんもん?あたらしもん?)
15.一之(いちの)(もん)
16.ニ之(にの)(もん)
17.入隅(いりすみ)(もん)
18.御成(おなり)(もん)
19.十三間(じゅうさんげん)(もん)
20.(たか)(もん)
21.御橋(おはし)(もん)
22.和田倉(わだくら)(もん)
23.馬場先(ばばさき)(もん)
24.日比谷(ひびや)(もん)
25.外桜田(そとさくらだ)(もん)
26.半蔵(はんぞう)(もん)
27.田安(たやす)(もん)
28.清水(しみず)(もん)
29.雉子橋(きじばし)(もん)
30.竹橋(たけばし)(もん)
31.一ツ橋(ひとつばし)(もん)
32.神田橋(かんだばし)(もん)
33.常磐橋(ときわばし)(もん)
34.呉服橋(ごふくばし)(もん)
35.鍛冶橋(かじばし)(もん)
36.数寄屋橋(すきやばし)(もん)
37.山下橋(やましたばし)(もん)
38.幸橋(さいわいばし)(もん)
39.虎ノ(とらの)(もん)
40.赤坂(あかさか)(もん)
41.喰違(くいちがい)(もん)
42.四谷(よつや)(もん)
43.市ヶ谷(いちがや)(もん)
44.牛込(うしごめ)(もん)
45.小石川(こいしかわ)(もん)
46.筋違橋(すじちがいばし)(もん)
47.浅草橋(あさくさばし)(もん)

これが江戸城(えどじょう)本丸(ほんまる)御殿(ごてん)内部(ないぶ)だ!

江戸城本丸御殿内部

これが江戸城(えどじょう)本丸(ほんまる)御殿(ごてん)内部(ないぶ)だ! 解説編(かいせつへん)

表(おもて)
将軍(しょうぐん)への謁見(えっけん)(お目通(めどお)り)その()儀式(ぎしき)のための広間(ひろま)とか、ふだん役人(やくにん)たちが仕事(しごと)をする座敷(ざしき)などがある。
江戸城(えどじょう)の「役所(やくしょ)」のエリアだ。

1.中雀(ちゅうじゃく)(もん)
2.(のう)舞台(ぶたい)
(おおやけ)儀式(ぎしき)()などに、ここで(のう)がおこなわれる。
3.大広間(おおひろま) (たたみ)(かず)で400(じょう)をこす、文字通(もじどお)りの大広間(おおひろま)儀式(ぎしき)公式(こうしき)行事用(ぎょうじよう)部屋(へや)
4.松之(まつの)廊下(ろうか)
5.(やなぎ)之間(のま)
大名(だいみょう)登城(とじょう)した(とき)詰所(つめしょ)。(つまり(ひか)えの()
6.蘇鉄(そてつ)() 大名(だいみょう)供侍(ともざむらい)詰所(つめしょ)
7.(とら)之間(のま) 書院番(しょいんばん)詰所(つめしょ)書院番(しょいんばん)というのは江戸城(えどじょう)警備(けいび)や、将軍(しょうぐん)江戸(えど)市中(しちゅう)への巡回(じゅんかい)(したが)うことなどが(おも)仕事(しごと)
8.遠侍(とおざむらい) 御徒(おかち)詰所(つめしょ)。お目通(めどお)以下(いか)下級(かきゅう)武士(ぶし)で、将軍(しょうぐん)警備(けいび)にあたるのが御徒(おかち)だ。
9.目付衆(めつけしゅう)御用所(ごようしょ)目付(めつけ)」とは監督(かんとく)する(やく)(ひと)江戸(えど)時代(じだい)大名(だいみょう)監督(かんとく)する役人(やくにん)を「大目付(おおめつけ)」、旗本(はたもと)御家人(ごけにん)監督(かんとく)を「目付(めつけ)」といった。
10.帝鑑(ていかん)之間(のま) ここも大名(だいみょう)登城(とじょう)のさいの詰所(つめしょ)
11.白書院(しろしょいん) 公式(こうしき)行事用(ぎょうじよう)部屋(へや)だけれど「大広間(おおひろま)」にくらべると、ちょっと内輪(うちわ)儀式(ぎしき)(よう)
12.(きく)之間(のま) 番頭(ばんがしら)詰所(つめしょ)警備(けいび)護衛(ごえい)仕事(しごと)をする(ひと)番方(ばんかた)(または番衆(ばんしゅう))といったが、番頭(ばんがしら)はその(かしら)(ひと)のこと。
大名のおべんとうって…すごくごうかなんだろうなあ 13.(かり)之間(のま) ここも大名(だいみょう)登城(とじょう)のさいの詰所(つめしょ)
14.芙蓉(ふよう)之間(のま) 勘定(かんじょう)奉行(ぶぎょう)寺社(じしゃ)奉行(ぶぎょう)(まち)奉行(ぶぎょう)など江戸(えど)時代(じだい)にはいろいろな「お奉行(ぶぎょう)さま」がいたが、その詰所(つめしょ)
15.黒書院(くろしょいん) 11白書院(しろしょいん)役割(やくわ)(おな)じ。
16.御用(ごよう)部屋(べや) 老中(ろうじゅう)若年寄(わかどしより)()める。かなり(おく)まった位置(いち)にあるし、部屋(へや)(なか)に、密談(みつだん)(とき)()ばしで()()くための「いろり」があるところなど、なかなかのもんだ。
17.台所(だいどころ) 将軍(しょうぐん)食事(しょくじ)用意(ようい)するところ。大名(だいみょう)たちは、登城(とじょう)(とき)はそれぞれの屋敷(やしき)からお弁当(べんとう)(とど)いたらしい。
18.台所(だいどころ)(まえ)三重(さんじゅう)(やぐら)

中奥(なかおく)
将軍(しょうぐん)官邸(かんてい)住居(じゅうきょ)であるとともに、将軍(しょうぐん)書類(しょるい)()(とお)仕事(しごと)()でもあった。「(おもて)」とひとつづきだ。

19.地震(じなえ)之間(のま) 耐震(たいしん)建築(けんちく)。さすがに地震(じしん)(こく)日本(にっぽん)。こういう施設(しせつ)もあったんだねえ。
20.御休息(ごきゅうそく) 将軍(しょうぐん)寝室(しんしつ)
21.湯殿(ゆどの) もちろん、おフロだ。
22.井呂裏之間(いろりのま) 将軍(しょうぐん)がおそばの(もの)(たの)しくおしゃべりするための部屋(へや)
23.御座(ござ)之間(のま) 将軍(しょうぐん)のふだんの部屋(へや)であるとともに仕事(しごと)部屋(べや)でもある。
24.(おく)(のう)舞台(ぶたい) こちらの(のう)舞台(ぶたい)は「(おもて)」の舞台(ぶたい)とちがって、将軍(しょうぐん)自身(じしん)(たの)しみのためのもの。
25.側用人(そばようにん)部屋(へや) このあたりは将軍(しょうぐん)()のまわりの世話(せわ)をする側用人(そばようにん)(ひか)えの部屋(へや)などがある。
26.(おく)坊主(ぼうず)部屋(べや) 将軍(しょうぐん)にお(ちゃ)をいれたり、大名(だいみょう)接待(せったい)をする(やく)坊主(ぼうず)(おく)坊主(ぼうず)といった。

(おく)(おく、またの()を「大奥(おおおく)」)
将軍(しょうぐん)私邸(してい)御台所(みだいどころ)(おく)さん)を中心(ちゅうしん)に、将軍(しょうぐん)()どもや(おく)女中(じょちゅう)たちが生活(せいかつ)する。「(なか)(おく)」とは(へい)仕切(しき)られていて、「御鈴(おすず)廊下(ろうか)」と()ぶ、(なが)廊下(ろうか)だけでつながっている。(なか)(おお)きく3つのエリアに()かれる。

くるしゅうなーい (1)大奥(おおおく)御殿(ごてん)(むき) 将軍(しょうぐん)御台所(みだいどころ)(おく)さん)の住居(じゅうきょ)のエリア。
(2)御広敷(おひろしき) 大奥(おおおく)事務(じむ)をとり(あつか)役所(やくしょ)のエリア。
(3)長局向(ながつぼねむき) (おく)女中(じょちゅう)たちの生活(せいかつ)するエリア。

27.新座敷(しんざしき) 将軍(しょうぐん)のお(かあ)さんの住居(じゅうきょ)
28.御殿(ごてん)
29.対面所(たいめんしょ)
(そと)からのお(きゃく)さまを接待(せったい)するための部屋(へや)
30.御座(ござ)之間(のま) このあたりが将軍(しょうぐん)御台所(みだいどころ)(おく)さん)が対面(たいめん)するための部屋(へや)
31.御休息(ごきゅうそく)之間(のま)御化粧(おけしょう)之間(のま) このあたりが御台所(みだいどころ)(おく)さん)のふだんの部屋(へや)
32.長局(ながつぼね) (おく)女中(じょちゅう)たちの部屋(へや)

虎之間7.(とら)之間(のま)
将軍(しょうぐん)対面(たいめん)儀式(ぎしき)などをするのに大名(だいみょう)たちは玄関(げんかん)からはいり、遠侍(とおざむらい)(とお)って大広間(おおひろま)()かう。
(とら)之間(のま)遠侍(とおざむらい)大広間(おおひろま)をつなぐ位置(いち)にある部屋(へや)大名(だいみょう)将軍(しょうぐん)(やかた)では、玄関(げんかん)や、それにつづくお(きゃく)(むか)える部屋(へや)(とら)(たけ)()(かざ)ることが(おお)い。
(とら)之間(のま)は36(じょう)もある(ひろ)部屋(へや)だ。(とら)(たけ)のふすま()幕府(ばくふ)権威(けんい)武士(ぶし)(いさ)ましさの象徴(しょうちょう)だ。入側(いりがわ)(とお)大名(だいみょう)たちが建具(たてぐ)のすきまからこの部屋(へや)をのぞいた(とき)()にはいるよう、(とら)部屋(へや)東面(ひがしめん)北面(きためん)(えが)かれていた。
ぼくってそんないさましい?

帝鑑の間 10.帝鑑(ていかん)之間(のま)
格天井(ごうてんじょう) (注釈)で、ふすまには (とう)(むかしの中国(ちゅうごく)王朝(おうちょう))の皇帝(こうてい)(えが)かれている。
10万石(まんごく)以上(いじょう)譜代(ふだい)大名(だいみょう)交代(こうたい)寄合(よりあい)(3,000(ごく)以上(いじょう)旗本(はたもと)役職(やくしょく)につかない(もの)大名(だいみょう)(じゅん)じる。)が()める部屋(へや)
本丸(ほんまる)御殿(ごてん)(おもて)には大広間(おおひろま)から白書院(しろしょいん)黒書院(くろしょいん)のエリアにかけて(やなぎ)之間(のま)(かり)之間(のま)(おお)廊下(ろうか)など大名(だいみょう)詰所(つめしょ)となる部屋(へや)があちこちにある。
どの大名(だいみょう)がどの部屋(へや)()めるかは、その格式(かくしき)によって、きっちり、(きび)しく(さだ)められていた。
(注釈)格天井(ごうてんじょう);()を1メートルくらいの間隔(かんかく)正方形(せいほうけい)()み、(うえ)(いた)()った天井(てんじょう)
入側とは座敷と縁側の間の通路のことなんだよ

大奥新御殿 31.大奥(おおおく)(しん)御殿(ごてん)御休息(ごきゅうそく)之間(のま)など)
大奥(おおおく)(しん)御殿(ごてん)上段(じょうだん)下段(げだん)()之間(のま)御休息(ごきゅうそく)之間(のま)の4部屋(へや)には、(はる)(さくら)(あき)紅葉(もみじ)など、四季(しき)風景(ふうけい)(いろ)あざやかに(えが)かれていた。
なんて華やかなお部屋!

総構(そうがま)完成(かんせい)寛永(かんえい)17(ねん)・1640)のころの江戸城(えどじょう)外観(がいかん)

総構え完成(1640)のころの江戸城外観

大手門から本丸御殿表玄関まではおよそ600メートル

1.富士見(ふじみ)(やぐら) 慶長(けいちょう)11(ねん)(1606)に()てられた三重(さんじゅう)(やぐら)伏見(ふしみ)(やぐら)桜田(さくらだ)(たつみ)(やぐら)とともに(いま)(のこ)る。
2.月見(つきみ)(やぐら)
3.(のう)舞台(ぶたい)
4.中雀(ちゅうじゃく)(もん)
5.大広間(おおひろま)
6.松之(まつの)廊下(ろうか)
7.白書院(しろしょいん)
8.黒書院(くろしょいん)
9.地震(じなえ)之間(のま)
10.御座(ござ)之間(のま)
11.御休息(ごきゅうそく)之間(のま)
12.仕切(しき)(がき)
(おく)(なか)(おく)仕切(しき)
13.御守殿(ごしゅでん)
14.遠侍(とおざむらい)
15.(おお)台所(だいどころ)
16.大天守(だいてんしゅ)
17.(いぬい)(やぐら)
18.北拮橋(きたはねばし)(もん)
19.五十三間(ごじゅうさんげん)(やぐら)
20.(つぼね)
21.上梅林坂(かみばいりんざか)(もん)
22.梅林坂(ばいりんざか)
文明(ぶんめい)10(ねん)(1478)、道灌(どうかん)がここに菅原道真(すがわらみちざね)天神(てんじん)さまだ)をまつった(とき)(うめ)()数百本(すうひゃっぽん)()えたので、その(とき)からついた()かもしれない。
23.下梅林坂(しもばいりんざか)(もん)
24.(きた)(やぐら)
25.(うしとら)(やぐら)
26.文庫(ぶんこ)
27.松倉(まつくら)(やぐら)
28.東照宮(とうしょうぐう)
29.汐見坂(しおみざか)
()(まる)から本丸(ほんまる)へあがる(さか)日比谷(ひびや)入江(いりえ)()()てる(まえ)は、ここから(うみ)()えた。それで「汐見(しおみ)」と()がついている。
30.茶亭(ちゃてい)
31.下乗橋(げじょうばし)
32.白鳥堀(しらとりぼり)
33.台所(だいどころ)(まえ)(やぐら)
これも慶長(けいちょう)11(ねん)(1606)建築(けんちく)か?三重(さんじゅう)(やぐら)でありました。
34.大手(おおて)(さん)(もん)
35.(なか)(もん)
36.寺沢(てらざわ)(やぐら)
いつごろの建築(けんちく)かは不明(ふめい)明治(めいじ)6(ねん)(1873)ごろ、とりこわされたのかも…(不明(ふめい)なんです。)二重(にじゅう)(やぐら)だったのではないかという。

皇居へいったら

参考(さんこう)資料(しりょう)はパート1を()てね!

小平市に関すること
1.小平市内めぐり 2.小平れきし年表・小平の街道
4.探検!郷土資料室 5.みんなの町のなまえ
6.小平の鉄道の歴史 8.わたしたちの小学校
9.小平はじめて物語 10.戦争と小平
13.小平こだいらの道 14.小平歳時記
15.小平の新田 16.古い地名
19.公園に行こうよ! 26.小平のごちそう うどん
36.ぼくらの町の仕事(1)こだいらの農業 37.ぼくらの町の仕事(2)こだいらの商業
多摩に関すること
12.多摩戦国絵巻 18.多摩の絹の道 シルクロード
20.風雲!新選組 21.楽しい施設ガイド
25.東京のできるまで 27.神奈川県から東京府へ多摩移管百年うそ?ほんと?クイズ
29.多摩の芸能 32.八王子千人同心多摩をゆく
35.多摩の酒造 39.江戸時代の東京 文化文政(1800年代初め)の三多摩編
江戸・東京に関すること
23.幸運招来! 東京七福神めぐり 24.東京の水道
28.江戸をたのしむ 30.わたしのまちの木・花・鳥とシンボルマーク
38.江戸時代の東京 文化文政(1800年代初め)の特別区編 40.花の江戸城 Part1
41.花の江戸城 Part2  
玉川上水・小金井桜に関すること
3.玉川上水をしりたい 7.玉川上水とあそぼう!
17.満開!小金井桜 31.野火止用水をゆけば
その他
11.武蔵武士 22.コレラが町にやって来た
33.これが武蔵国だっ! 34.地震にそなえて

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