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32. 八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)多摩(たま)をゆく

八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)とは

そのむかし、江戸(えど)時代(じだい)多摩(たま)には「八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)」と()ばれる(ひと)たちがいた。ふだんは大地(だいち)(たがや)しつつ、ひとたび幕府(ばくふ)から(めい)がくだれば、(かたな)()し、武士(ぶし)として、懸命(けんめい)(はたら)いた。
「なんだ。八王子(はちおうじ)(はなし)なの~」と(おも)うのは大間違(おおまちが)いだ。
千人同心(せんにんどうしん)たちは、多摩(たま)のあちこちに()らばって、小平(こだいら)にだって()んでいた。((みぎ)()()てちょうだい。)ちなみに、大沼田(おおぬまた(おんた))新田(しんでん)千人同心(せんにんどうしん)はその()当麻(たいま)勇蔵(ゆうぞう)さんという。そして、千人同心(せんにんどうしん)たちがなした仕事(しごと)(なか)でも武蔵国(むさしのくに)地誌(ちし)調査(ちょうさ)などは、(いま)でもおおいに、多摩(たま)歴史(れきし)文化(ぶんか)研究(けんきゅう)する(ひと)たちの(やく)()っているんだ。
(とお)地方(ちほう)ならともかく、幕府(ばくふ)直接(ちょくせつ)支配(しはい)する土地(とち)で、半分(はんぶん)武士(ぶし)半分(はんぶん)農民(のうみん)組織(そしき)活躍(かつやく)した(れい)(ほか)にないんだそうだ。しかも、それが江戸(えど)(はじ)まりから(おわ)りまで(つづ)いたんだからね。一体(いったい)、どんな(ひと)たちだったんだろう?

千人同心は多摩のあちこちに!

八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)年表(ねんぴょう)

八王子千人同心年表
できごと
天正(てんしょう)10(ねん)(1582) 3(がつ) 武田氏(たけだし)(ほろ)びる。武田(たけだ)旧臣(きゅうしん)(おお)徳川氏(とくがわし)()しかかえられる。
6(がつ) 本能寺(ほんのうじ)(へん)織田(おだ)信長(のぶなが)死亡(しぼう)
天正(てんしょう)18(ねん)(1590) 6(がつ)23(にち) 八王子城(はちおうじじょう)落城(らくじょう)
7(がつ) 後北条氏(ごほうじょうし)(ほろ)びる。
7(がつ)29(にち) 甲州(こうしゅう)小人頭(こにんがしら)小人(こにん)250(にん)八王子(はちおうじ)城下(じょうか)(うつ)って、甲州口(こうしゅうぐち)警備(けいび)(めい)じられる。
8(がつ)1日(ついたち) 徳川(とくがわ)家康(いえやす)関東(かんとう)入国(にゅうごく)
天正(てんしょう)19(ねん)(1591) 大久保(おおくぼ)長安(ながやす)八王子(はちおうじ)奉行(ぶぎょう)となる。八王子宿(はちおうじじゅく)建設(けんせつ)
12(がつ)7日(なのか) 甲州口(こうしゅうぐち)(まも)小人(こにん)250(にん)()やす。500(にん)になる。
文禄(ぶんろく)2(ねん)(1593) 1(がつ) 原胤従(はらたねより)ら10(にん)小人頭(こにんがしら)と、100(にん)小人(こにん)(しゅう)八王子(はちおうじ)城下(じょうか)から、拝領(はいりょう)屋敷(やしき)八王子市(はちおうじし)千人町(せんにんちょう))に(うつ)る。
慶長(けいちょう)3(ねん)(1598) 8(がつ)18(にち) 豊臣(とよとみ)秀吉(ひでよし)死亡(しぼう)
慶長(けいちょう)5(ねん)(1600) 1(がつ)1日(ついたち) 甲州口(こうしゅうぐち)(まも)りをかためるため、小人(こにん)を500(にん)追加(ついか)。1000(にん)になる。
八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)誕生(たんじょう)
9(がつ)15(にち) (せき)(はら)(たたか)い。千人同心(せんにんどうしん)参加(さんか)
慶長(けいちょう)8(ねん)(1603) 2(がつ)12(にち) 家康(いえやす)征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となり、江戸(えど)幕府(ばくふ)(ひら)く。
慶長(けいちょう)19(ねん)(1614) 10(がつ) 大坂(おおさか)(ふゆ)(じん)
元和(げんな)(がん)(ねん)(1615) 4(がつ) 大坂(おおさか)(なつ)(じん)
5(がつ) 豊臣氏(とよとみし)(ほろ)びる。
元和(げんな)2(ねん)(1616) 4(がつ)17(にち) 家康(いえやす)死亡(しぼう)久能山(くのうざん)静岡県(しずおかけん))に(ほうむ)られる。
元和(げんな)3(ねん)(1617) 3(がつ) 家康(いえやす)遺骨(いこつ)久能山(くのうざん)から日光(にっこう)(うつ)る。
元和(げんな)4(ねん)(1618) 4(がつ) 八王子(はちおうじ)(ごう)代官(だいかん)18(にん)()かれ、関東(かんとう)30(ぐん)(おさ)めることになる。【関東(かんとう)十八代官(だいかん)
承応(じょうおう)(がん)(ねん)(1652) 6(がつ) 千人同心(せんにんどうしん)日光(にっこう)火之番(ひのばん)日光(にっこう)東照宮(とうしょうぐう)火消(ひけし)(やく))を(めい)じられる。
寛政(かんせい)4(ねん)(1792) 9(がつ)3日(みっか) ロシア使節(しせつ)ラクスマン、漂流民(ひょうりゅうみん)大黒屋(だいこくや)(こう)(光)太夫(だゆう)(おく)って根室(ねむろ)()て、日本(にっぽん)通商(つうしょう)(もと)める。
寛政(かんせい)11(ねん)(1799) 1(がつ)16(にち) 東蝦夷(ひがしえぞ)幕府(ばくふ)直轄地(ちょっかつち)直接(ちょくせつ)(おさ)める領地(りょうち))となる。
寛政(かんせい)12(ねん)(1800) 3(がつ)20日(はつか) (はら)半左衛門(はんざえもん)胤敦(たねあつ)同心(どうしん)や、その子弟(してい)100(にん)(ひき)いて蝦夷(えぞ)出発(しゅっぱつ)
享和(きょうわ)(がん)(ねん)(1801) 2(がつ)10日(とおか) 同心(どうしん)子弟(してい)30(にん)蝦夷(えぞ)出発(しゅっぱつ)
享和(きょうわ)2(ねん)(1802) 2(がつ)23(にち) 蝦夷(えぞ)に、蝦夷(えぞ)奉行(ぶぎょう)おかれる。
5(がつ)11(にち) 箱館(はこだて)奉行(ぶぎょう)()をかえる。
文化(ぶんか)6(ねん)(1809) 11(がつ)18(にち) (はら)半左衛門(はんざえもん)胤敦(たねあつ)千人頭(せんにんがしら)復帰(ふっき)
文化(ぶんか)9(ねん)(1812) 2(がつ) (はら)半左衛門(はんざえもん)胤敦(たねあつ)(めい)をうけ、湯島(ゆしま)大成殿(たいせいでん)()がり、多摩郡(たまぐん)地誌(ちし)調査(ちょうさ)について(はな)()う。
文化(ぶんか)11(ねん)(1814) 4(がつ) (はら)半左衛門(はんざえもん)胤敦(たねあつ)日光(にっこう)勤番(きんばん)(ちゅう)に、地誌(ちし)調査(ちょうさ)する(めい)をうける。
勤番(きんばん)から(かえ)るとすぐそのための人選(じんせん)にかかる。
文化(ぶんか)12(ねん)(1815) 3(がつ) 青梅(おうめ)のあたりの地誌(ちし)調査(ちょうさ)する。
世田谷(せたがや)のあたりの地誌(ちし)調査(ちょうさ)する。
文化(ぶんか)13(ねん)(1816) 3(がつ) 新町村(しんまちむら)青梅市(おうめし))のあたりの地誌(ちし)調査(ちょうさ)する。
文政(ぶんせい)3(ねん)(1820)6(がつ)文政(ぶんせい)4(ねん)(1821)4(がつ) 高麗(こま)(ぐん)地誌(ちし)調査(ちょうさ)する。
文政(ぶんせい)4(ねん)(1821) 植田(うえだ)孟縉(もうしん)、『武蔵(むさし)名所(めいしょ)図会(ずえ)』を完成(かんせい)させる。
文政(ぶんせい)5(ねん)(1822) 4(がつ)新編(しんぺん)武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)』の多摩郡(たまぐん)()完成(かんせい)湯島(ゆしま)聖堂(せいどう)(おさ)める。
11(がつ)新編(しんぺん)武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)』の高麗(こま)(ぐん)()完成(かんせい)湯島(ゆしま)聖堂(せいどう)(おさ)める。
文政(ぶんせい)6(ねん)(1823)(しょう)(がつ)文政(ぶんせい)7(ねん)(1824)11(がつ) 秩父(ちちぶ)(ぐん)地誌(ちし)調査(ちょうさ)原稿(げんこう)できあがる。
文政(ぶんせい)8(ねん)(1825) 新編(しんぺん)武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)』の秩父(ちちぶ)(ぐん)()完成(かんせい)湯島(ゆしま)聖堂(せいどう)(おさ)める。
文政(ぶんせい)10(ねん)(1827) (はら)半左衛門(はんざえもん)胤敦(たねあつ)死亡(しぼう)。81(さい)
天保(てんぽう)(がん)(ねん)(1830) 新編(しんぺん)武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)完成(かんせい)幕府(ばくふ)献上(けんじょう)される。
天保(てんぽう)2(ねん)(1831) 12(がつ) (はら)半左衛門(はんざえもん)胤禄(たねとし)相模国(さがみのくに)津久井県(つくいけん)神奈川県(かながわけん))の地誌(ちし)調査(ちょうさ)(めい)じられる。
天保(てんぽう)7(ねん)(1836) 12(がつ) (はら)半左衛門(はんざえもん)胤禄(たねとし)、『新編(しんぺん)相模国(さがみのくに)風土記(ふどき)稿(こう)』の津久井県(つくいけん)()
10(かん)献上(けんじょう)する。
嘉永(かえい)6(ねん)(1853) 6(がつ)3日(みっか) ペリー、浦賀(うらが)来航(らいこう)する。
嘉永(かえい)7(ねん)(1854) 3(がつ)3日(みっか) 日米(にちべい)和親(わしん)条約(じょうやく)(むす)ぶ。その()あいついで(ほか)(くに)とも条約(じょうやく)(むす)ぶ。
安政(あんせい)3(ねん)(1856) 10(がつ) 千人同心(せんにんどうしん)鉄砲方(てっぽうがた)江川(えがわ)太郎(たろう)左衛門(ざえもん)英敏(ひでとし)入門(にゅうもん)する。
12(がつ) 千人同心(せんにんどうしん)へ、200(ちょう)鉄砲(てっぽう)(わた)される。
慶応(けいおう)2(ねん)(1866) 7(がつ)20日(はつか) (だい)14(だい)将軍(しょうぐん)徳川(とくがわ)家茂(いえもち)死亡(しぼう)
10(がつ)28(にち) 千人同心(せんにんどうしん)、「千人隊(せんにんたい)」と名前(なまえ)をかえる。近代的(きんだいてき)軍隊(ぐんたい)へとかわってゆく。
慶応(けいおう)3(ねん)(1867) 10(がつ)15(にち) 大政奉還(たいせいほうかん)江戸(えど)幕府(ばくふ)朝廷(ちょうてい)政権(せいけん)(かえ)す。
慶応(けいおう)4(ねん)(1868) 1(がつ)3日(みっか) 鳥羽(とば)伏見(ふしみ)(たたか)い(戊辰(ぼしん)戦争(せんそう)(はじ)まり)。
4(がつ)11(にち) 江戸城(えどじょう)開城(かいじょう)
(うるう)4(がつ)10日(とおか) 千人頭(せんにんがしら)石坂(いしざか)弥次右衛門(やじえもん)自殺(じさつ)
(うるう)4(がつ)20日(はつか) 千人隊(せんにんたい)一部(いちぶ)上野(うえの)彰義隊(しょうぎたい)(くわ)わる。
5(がつ)15(にち) 上野(うえの)戦争(せんそう)彰義隊(しょうぎたい)官軍(かんぐん)(たたか)う。
6(がつ)9日(ここのか) 千人隊(せんにんたい)解体(かいたい)する。(組織(そしき)がバラバラになること。)
7(がつ)17(にち) 江戸(えど)は「東京(とうきょう)」となる。
9(がつ)8日(ようか) 元号(げんごう)明治(めいじ)」となる。

八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)歴史(れきし)

1.武田氏(たけだし)滅亡(めつぼう)
天正(てんしょう)10(ねん)(1582)3(がつ)甲斐(かい)(いま)山梨県(やまなしけん))の武田氏(たけだし)は、織田(おだ)信長(のぶなが)徳川(とくがわ)家康(いえやす)連合軍(れんごうぐん)との(たたか)いに(やぶ)れ、(ほろ)んだ。しかし、3か(げつ)()の6(がつ)には、本能寺(ほんのうじ)(へん)信長(のぶなが)死亡(しぼう)甲斐国(かいのくに)家康(いえやす)支配(しはい)するところとなる。甲斐国(かいのくに)(おさ)めるにあたって、家康(いえやす)武田氏(たけだし)軍隊(ぐんたい)のつくり(かた)政治(せいじ)のしかたを積極的(せっきょくてき)()()れた。そして、できるだけ、武田氏(たけだし)旧臣(きゅうしん)(もとの家臣(かしん))たちを採用(さいよう)して、徳川(とくがわ)家臣(かしん)(なか)()みこんでいった。

2.後北条氏(ごほうじょうし)滅亡(めつぼう)
天正(てんしょう)18(ねん)(1590)7(がつ)関東(かんとう)勢力(せいりょく)をもっていた後北条氏(ごほうじょうし)(ほろ)ぼして、豊臣(とよとみ)秀吉(ひでよし)天下(てんか)統一(とういつ)完成(かんせい)した。
秀吉(ひでよし)家康(いえやす)領土替(りょうどが)えを(もう)(わた)した。8(がつ)1日(ついたち)家康(いえやす)駿河(するが)(いま)静岡県(しずおかけん))から(うご)き、関東(かんとう)入国(にゅうごく)する。そして主君(しゅくん)をなくした後北条氏(ごほうじょうし)旧臣(きゅうしん)たちも、武田氏(たけだし)旧臣(きゅうしん)(おな)じように徳川(とくがわ)家臣(かしん)()()げられていった。

3.国境(こっきょう)警備(けいび)(ひと)びと
家康(いえやす)関東(かんとう)入国(にゅうごく)をきっかけに、9(にん)(かしら)(ひき)いられた250(にん)(おとこ)たちが、甲州口(こうしゅうぐち)警備(けいび)にあたることになった。この(ひと)たちは(すべ)て、武田氏(たけだし)旧臣(きゅうしん)だ。武田氏(たけだし)(つか)えていた時代(じだい)から、8~9(にん)(かしら)が2~300(にん)同心(どうしん)をまとめて国境(こっきょう)警備(けいび)にあたっていたのだ。
この250(にん)軍団(ぐんだん)が、八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)のもと、なんだ。甲州口(こうしゅうぐち)警備(けいび)にあたって、八王子(はちおうじ)城下(じょうか)にやって()た。
文禄(ぶんろく)2(ねん)(1593)1(がつ)には、千人頭(せんにんがしら)組頭(くみがしら)のおよそ100(にん)拝領(はいりょう)屋敷(やしき)(いま)八王子市(はちおうじし)千人町(せんにんちょう))に(うつ)()んだ。しかし、その()(おお)くの同心(どうしん)たちは(ひろ)く、多摩(たま)地域(ちいき)()って()んだ。

4.八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)誕生(たんじょう)
天正(てんしょう)19(ねん)(1591)、大久保(おおくぼ)石見守(いわみのかみ)長安(ながやす)八王子(はちおうじ)奉行(ぶぎょう)となって、宿(しゅく)建設(けんせつ)がすすむ(なか)同心(どうしん)は250(にん)()やされ、500(にん)となった。
さらに慶長(けいちょう)5(ねん)(1600)には、武田氏(たけだし)旧臣(きゅうしん)ばかりではなく、後北条氏(ごほうじょうし)旧臣(きゅうしん)や、その()浪人(ろうにん)など500(にん)(くわ)え、総勢(そうぜい)1,000(にん)。これで八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)誕生(たんじょう)だ。
ところで、なぜ、この時期(じき)同心(どうしん)人数(にんずう)()やされたんだろう。
秀吉(ひでよし)天下(てんか)をとった(あと)も、()っして()(なか)平和(へいわ)じゃなかった。
慶長(けいちょう)3(ねん)(1598)3(がつ)15(にち)秀吉(ひでよし)()ぬと、徳川(とくがわ)豊臣(とよとみ)(あいだ)危険(きけん)なふんいきになった。豊臣方(とよとみがた)石田(いしだ)三成(みつなり)徳川家(とくがわけ)対抗(たいこう)する(うご)きを()せはじめている。そして、この時期(じき)甲斐国(かいのくに)豊臣(とよとみ)(がわ)家臣(かしん)(おさ)めていたから、甲州口(こうしゅうぐち)から()(はな)せないわけだ。警備(けいび)をさらに厳重(げんじゅう)にするためにも人手(ひとで)必要(ひつよう)だった。
慶長(けいちょう)5(ねん)(1600)9(がつ)(せき)(はら)(たたか)いはおこった。天下(てんか)()()(たたか)いは徳川(とくがわ)勝利(しょうり)だった。しかし、豊臣(とよとみ)秀頼(ひでより)淀君(よどぎみ)中心(ちゅうしん)にまだ大坂城(おおさかじょう)君臨(くんりん)している。ひきつづき千人同心(せんにんどうしん)甲州口(こうしゅうぐち)警備(けいび)()(ひか)らせた。

5.八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)関東(かんとう)十八(じゅうはち)代官(だいかん)
後北条氏(ごほうじょうし)支城(しじょう)(なか)でも、八王子(はちおうじ)落城(らくじょう)はもっともむごかった。そして、落城(らくじょう)()も、八王子(はちおうじ)のまわりには落武者(おちむしゃ)()武士(ぶし)がうろついて、安心(あんしん)できない状態(じょうたい)だったという。その八王子(はちおうじ)徳川(とくがわ)支配(しはい)(あたら)しい(まち)づくりをするには、政治(せいじ)警備(けいび)をしっかりとかためなければならない。警備(けいび)担当(たんとう)したのが八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)だ。一方(いっぽう)政治(せいじ)担当(たんとう)したのは関東(かんとう)十八(じゅうはち)代官(だいかん)()ばれる代官(だいかん)たちだった。(かれ)らもまた(めい)()けて八王子(はちおうじ)()み、関東(かんとう)地方(ちほう)(おさ)めた。
十八(じゅうはち)代官(だいかん)武田氏(たけだし)旧臣(きゅうしん)がとても(おお)い。それから千人同心(せんにんどうしん)十八(じゅうはち)代官(だいかん)とをとりまとめ、指揮(しき)した大久保(おおくぼ)石見守(いわみのかみ)長安(ながやす)という(ひと)も、これまた武田氏(たけだし)旧臣(きゅうしん)だ。
八王子(はちおうじ)武田(たけだ)領地(りょうち)甲斐国(かいのくに)(ちか)いという理由(りゆう)もあるだろうけれど、武田氏(たけだし)旧臣(きゅうしん)には、地方(ちほう)(おさ)めるのに、すぐれた能力(のうりょく)()った(ひと)(おお)かった、ということもあるのかもしれない。

6.大久保(おおくぼ)石見守(いわみのかみ)長安(ながやす)
もともとは、武田氏(たけだし)(つか)えた猿楽師(さるがくし)という。(猿楽(さるがく)というのは、こっけいな(あじ)芝居(しばい)(のう)狂言(きょうげん)のもとになった。)のち、武士(ぶし)身分(みぶん)にとりたてられた。
武田氏(たけだし)(ほろ)んだあとは、家康(いえやす)見出(みいだ)され、とりわけ、役人(やくにん)としての能力(のうりょく)と、鉱山(こうざん)技術(ぎじゅつ)とを(みと)められた。八王子(はちおうじ)奉行(ぶぎょう)となったのは天正(てんしょう)19(ねん)(1591)、慶長(けいちょう)8(1603)(ねん)には、石見守(いわみのかみ)となる。
また、主君(しゅくん)であった武田(たけだ)信玄(しんげん)(むすめ)(まつ)(ひめ)を、千人同心(せんにんどうしん)たちとともにのちまでも()(まも)った。

7.八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)組織(そしき)のしくみ
同心(どうしん)千人頭(せんにんがしら)が10(にん)組頭(くみがしら)が100(にん)同心(どうしん)が900(にん)いた。千人頭(せんにんがしら)1人(ひとり)が、組頭(くみがしら)10(にん)()()ち、組頭(くみがしら)1人(ひとり)が9(にん)(ひら)同心(どうしん)をまとめた。千人頭(せんにんがしら)は200~500(こく)()りの旗本(はたもと)待遇(たいぐう)だ。(1(こく)はお(こめ)(やく)180リットル)同心(どうしん)御家人(ごけにん)待遇(たいぐう)で、30(ぴょう)1人(いちにん)扶持(ぶち)~10(ぴょう)1人(いちにん)扶持(ぶち)給料(きゅうりょう)をもらった。
10(ぴょう)1人(いちにん)扶持(ぶち)家族(かぞく)5(にん)がなんとか()べてゆける給料(きゅうりょう)だった。そして、この給料(きゅうりょう)基本(きほん)は、明治(めいじ)維新(いしん)千人隊(せんにんたい)解散(かいさん)するまで、ほとんど(かわ)らなかった。ぎりぎりの給料(きゅうりょう)武士(ぶし)としてのていさいも(ととの)えなければならないのだから、()りない(ぶん)農業(のうぎょう)をしてかせいだ。
拝領(はいりょう)屋敷(やしき)()むおよそ100(にん)組頭(くみがしら)クラス以外(いがい)大部分(だいぶぶん)同心(どうしん)は、農村(のうそん)()み、同心(どうしん)仕事(しごと)(とき)以外(いがい)農民(のうみん)として(はたら)いた。農業(のうぎょう)をすることを幕府(ばくふ)(みと)めていたんだ。武士(ぶし)農民(のうみん)区別(くべつ)がはっきりとしてきたこの時代(じだい)に、半分(はんぶん)武士(ぶし)で、半分(はんぶん)農民(のうみん)という千人同心(せんにんどうしん)のあり(かた)はとてもめずらしいものだ。
しかし、大宰(だざい)春台(しゅんだい)という儒学者(じゅがくしゃ)は『経済録(けいざいろく)』(1729(ねん)発行(はっこう))という(ほん)(なか)で、こう()っている。「このごろの武士(ぶし)はぜいたくばかりして、武士(ぶし)本分(ほんぶん)(わす)れている。その(てん)千人(せんにん)(しゅう)はわずかな給料(きゅうりょう)しかもらっていないけれど、田舎(いなか)()んで、耕作(こうさく)し、(おや)妻子(さいし)十分(じゅうぶん)(やしな)っている。百姓(ひゃくしょう)苦労(くろう)()り、文武(ぶんぶ)(はげ)み、主君(しゅくん)忠誠(ちゅうせい)をちかう、これが本当(ほんとう)武士(ぶし)だ。」

8.八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)仕事(しごと)
八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)仕事(しごと)は、甲州口(こうしゅうぐち)警備(けいび)だけではなかった。慶長(けいちょう)5(ねん)(1600)の(せき)(はら)(たたか)いに参加(さんか)して、家康(いえやす)秀忠(ひでただ)(2代目(だいめ)将軍(しょうぐん))の護衛(ごえい)にあたっているし、慶長(けいちょう)19(ねん)(1614)と元和(げんな)(がん)(ねん)(1615)の大坂(おおさか)(なつ)(じん)(ふゆ)(じん)でも秀忠(ひでただ)護衛(ごえい)をしている。
また、将軍(しょうぐん)たちが日光(にっこう)徳川(とくがわ)家康(いえやす)をまつった東照宮(とうしょうぐう)がある)にお(まい)りに()(とき)や、(きょう)にのぼる(とき)にも、たびたびお(とも)をしている。
しかし、徳川(とくがわ)幕府(ばくふ)(ちから)(たし)かなものとなり、戦乱(せんらん)心配(しんぱい)もなくなった慶安(けいあん)年間(ねんかん)以降(いこう)(1648~)は、甲州口(こうしゅうぐち)警戒(けいかい)心配(しんぱい)もかなり(すく)なくなった。そこで、幕府(ばくふ)千人同心(せんにんどうしん)日光(にっこう)火災(かさい)警備(けいび)(めい)じた。また寛政(かんせい)時代(じだい)(1788~)になると蝦夷地(えぞち)(いま)北海道(ほっかいどう))の警備(けいび)開拓(かいたく)にも()()けるようになった。
日光(にっこう)火之番(ひのばん)
日光(にっこう)()(ばん)には、2人(ふたり)千人頭(せんにんがしら)が50(にん)ずつ、(けい)100(にん)同心(どうしん)(ひき)いて()かう。往復(おうふく)8日(ようか)かかり、()(ばん)は50(にち)おこなう。だいたいこの2ヵ(げつ)単位(たんい)交替(こうたい)して(ばん)(つと)めた。
承応(じょうおう)(がん)(ねん)(1652)6(がつ)(めい)じられてから、慶応(けいおう)4(ねん)(1868)(うるう)4(がつ)日光(にっこう)官軍(かんぐん)にあけ(わた)すまでの216年間(ねんかん)に、およそ1,030(かい)もの日光(にっこう)()(ばん)(つと)めた。
蝦夷地(えぞち)警備(けいび)開拓(かいたく)
寛永(かんえい)(ころ)から、しばしばロシア(じん)日本(にっぽん)南下(なんか)して()るようになった。幕府(ばくふ)蝦夷地(えぞち)北海道(ほっかいどう))の(まも)りを(かた)めなければならなくなった。その(ころ)蝦夷(えぞ)といえば、()みつく日本人(にっぽんじん)(すく)なく、代々(だいだい)松前藩(まつまえはん)(おさ)めてきた土地(とち)だった。けれど、こういう事情(じじょう)で、寛政(かんせい)11(ねん)(1799)、蝦夷(えぞ)は、幕府(ばくふ)直接(ちょくせつ)(おさ)めることになり、享和(きょうわ)2(ねん)(1802)には、その本拠地(ほんきょち)として、箱館(はこだて)(函館)に奉行所(ぶぎょうしょ)()かれた。
蝦夷(えぞ)外国(がいこく)から(まも)るには、土地(とち)開拓(かいたく)し、(ひと)()みついて、警護(けいご)をしなければならない。
寛政(かんせい)11(ねん)(1799)3(がつ)千人頭(せんにんがしら)(はら)半左衛門(はんざえもん)は、同心(どうしん)次男(じなん)三男(さんなん)(ひき)いて、蝦夷地(えぞち)(まも)りと開拓(かいたく)仕事(しごと)につきたい、という内容(ないよう)(ねが)いを幕府(ばくふ)()した。(ねが)いは(ゆる)され、よく(とし)1(がつ)(はら)半左衛門(はんざえもん)は100(にん)同心(どうしん)や、その子弟(してい)()れて、蝦夷地(えぞち)()かった。享和(きょうわ)(がん)(ねん)(1801)にはさらに30(にん)(くわ)わった。また安政(あんせい)5(ねん)(1858)には、およそ300(にん)(わた)っている。けれど(きび)しい自然(しぜん)気候(きこう)(まえ)に、(おお)くの犠牲(ぎせい)()すこととなった。

八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)は、軍隊(ぐんたい)としてばかりではない。文化(ぶんか)(めん)でも、いろいろな(かつ)やくをした。
寛政(かんせい)改革(かいかく)(1787~93)で学問(がくもん)にも、武術(ぶじゅつ)にも(はげ)むことがすすめられ、千人同心(せんにんどうしん)でも剣道(けんどう)(やり)など、武術(ぶじゅつ)修行(しゅぎょう)(さか)んになった。学問(がくもん)(めん)でも、千人頭(せんにんがしら)組頭(くみがしら)子弟(してい)江戸(えど)昌平坂(しょうへいざか)学問所(がくもんじょ)(かよ)った。
昌平坂(しょうへいざか)学問所(がくもんじょ)
またの()昌平黌(しょうへいこう)ともいう。寛永(かんえい)7(ねん)(1630)、(はやし)羅山(らざん)上野(うえの)忍岡(しのぶがおか)邸地(やしきち)をたまわって、聖廟(せいびょう)(むかし)中国(ちゅうごく)有名(ゆうめい)学者(がくしゃ)儒学(じゅがく)()孔子(こうし)をお(まつ)りするところ)を()てたのが(はじ)まり。元禄(げんろく)3(ねん)(1690)11(がつ)20日(はつか)聖廟(せいびょう)神田台(かんだだい)()()す。これが湯島(ゆしま)聖堂(せいどう)だ。
寛永(かんえい)9(ねん)(1797)には、(りん)()8代目(だいめ)述斎(じゅっさい)幕府(ばくふ)に、官立(かんりつ)(つまり国立(こくりつ)だ)の学問所(がくもんじょ)をここに(ひら)くことを提案(ていあん)する。
この(とし)の12(がつ)1日(ついたち)には「昌平坂(しょうへいざか)学問所(がくもんじょ)」という()がついて旗本(はたもと)御家人(ごけにん)やその子弟(してい)のための最高(さいこう)教育(きょういく)()になった。「身分(みぶん)(たか)(ひく)いは()わない。次男(じなん)三男(さんなん)でも(こころざし)があればよい」という、当時(とうじ)としては自由(じゆう)気風(きふう)だった。
八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)でも、千人頭(せんにんがしら)はじめ、同心(どうしん)やその子弟(してい)入学(にゅうがく)をした(もの)はそうとうな人数(にんずう)だとみられている。
千人同心(せんにんどうしん)文化人(ぶんかじん)(なか)でも、ひときわ()(だか)い、植田(うえだ)孟縉(もうしん)塩野(しおの)適斎(てきさい)もここで(まな)んでいる。
あちこちの(はん)から優秀(ゆうしゅう)学生(がくせい)(あつ)まり、幕末(ばくまつ)にはたいそう活気(かっき)があった。しかし、明治(めいじ)維新(いしん)新政府(しんせいふ)()(わた)り、明治(めいじ)3(ねん)(1870)に休校(きゅうこう)となり、よく(とし)には、()じられてしまった。

9.幕末(ばくまつ)八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)
安政(あんせい)2(ねん)(1855)、千人同心(せんにんどうしん)は、老中(ろうじゅう)阿部(あべ)正弘(まさひろ)から、西洋銃(せいようじゅう)修行(しゅぎょう)(めい)じられた。慶応(けいおう)2(ねん)(1866)には「千人隊(せんにんたい)」と名前(なまえ)()え、幕末(ばくまつ)動乱(どうらん)(なか)西洋式(せいようしき)軍隊(ぐんたい)目指(めざ)す。
千人同心(せんにんどうしん)たちもまた、(おお)きな時代(じだい)(なが)れに()きこまれてゆくのだった。

西へ東へ この時期(じき)千人同心(せんにんどうしん)はほんと!(いそが)しい

  • 天狗党(てんぐとう)甲府(こうふ)(ぞく))の追討(ついとう)()かう。(1864(ねん)11(がつ)
  • 芸州(げいしゅう)広島(ひろしま)出陣(しゅつじん)。(1866(ねん)4(がつ)
  • 日野(ひの)農兵隊(のうへいたい)(とも)武州(ぶしゅう)一揆(いっき)鎮圧(ちんあつ)()かう。(1866(ねん)6(がつ)
  • 相模国(さがみのくに)神奈川県(かながわけん))で(あば)れている浪人(ろうにん)たち、八王子(はちおうじ)()るといわれ、全員(ぜんいん)(のこ)らず追討(ついとう)()かう。(1867(ねん)12(がつ)
慶応(けいおう)4(ねん)(1868)3(がつ)官軍(かんぐん)甲州(こうしゅう)勝沼(かつぬま)近藤勇(こんどういさみ)甲陽(こうよう)鎮撫隊(ちんぶたい)をやぶり、その(つき)11(にち)八王子(はちおうじ)にはいった。
千人隊(せんにんたい)官軍(かんぐん)参謀(さんぼう)板垣(いたがき)退助(たいすけ)兵器(へいき)をさしだし、新政府(しんせいふ)につつしんで(したが)った。隊士(たいし)(なか)には上野(うえの)彰義隊(しょうぎたい)(くわ)わったり、函館(はこだて)五稜郭(ごりょうかく)にこもって、最後(さいご)まで(たたか)(もの)もあった。また、最後(さいご)日光(にっこう)()(ばん)(かしら)となった石坂(いしざか)弥次右衛門(やじえもん)義礼(よしかた)は、日光(にっこう)官軍(かんぐん)にあけわたした責任(せきにん)をとって自害(じがい)。60(さい)だった。
この(とし)6(がつ)9日(ここのか)、280(ねん)(ちか)(つづ)いた八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)歴史(れきし)()わりを()げる。ある(もの)徳川家(とくがわけ)に、またある(もの)新政府(しんせいふ)(ぞく)することとなったけれど、大多数(だいたすう)武士(ぶし)()て、農民(のうみん)(えら)んだ。

新編(しんぺん)武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)

八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)がのちの()にのこした仕事(しごと)

植田(うえだ)孟縉(もうしん)塩野(しおの)適斎(てきさい)並木(なみき)以寧(これやす?もちやす?)設楽(しだら)三蔵(さんぞう)松本斗機蔵(まつもとときぞう)などの組頭(くみがしら)たちはまた、千人同心(せんにんどうしん)(なか)でも私塾(しじゅく)(つく)り、子弟(してい)たちに漢学(かんがく)書道(しょどう)(おし)えた。組頭(くみがしら)は、(くみ)をまとめてゆくためにも学問(がくもん)に、武術(ぶじゅつ)(はげ)必要(ひつよう)があったからだ。
文化(ぶんか)文政(ぶんせい)(ころ)には、幕府(ばくふ)地誌(ちし)(へん)さんの仕事(しごと)参加(さんか)して『新編(しんぺん)武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)』や『新編(しんぺん)相模国(さがみのくに)風土記(ふどき)稿(こう)』という(ほん)のため、調査(ちょうさ)にあたっている。知識(ちしき)体力(たいりょく)のいる仕事(しごと)なのだけれど、やりとげられたのも、ふだんのこういう努力(どりょく)結果(けっか)かもしれないね。

塩野(しおの)適斎(てきさい) 千人同心(せんにんどうしん)有名人(ゆうめいじん) その1
(あざな)所左衛門(しょざえもん)()(とおる)安永(あんえい)4(ねん)(1775)、八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)組頭(くみがしら)河西家(かさいけ)()まれ、(おな)組頭(くみがしら)塩野(しおの)()養子(ようし)になる。文学者(ぶんがくしゃ)としても、剣術家(けんじゅつか)としても、すぐれた才能(さいのう)があった。
文化(ぶんか)11(ねん)(1814)9(がつ)から『新編(しんぺん)武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)』のための調査(ちょうさ)仕事(しごと)参加(さんか)した。
また、(なが)(あいだ)調(しら)べたり、(あつ)めたりした史料(しりょう)をもとに、文政(ぶんせい)10(ねん)(1827)に『桑都(そうと)日記(にっき)』(正編(せいへん))を、天保(てんぽう)5(ねん)(1834)には『桑都(そうと)日記(にっき) 続編(ぞくへん)』をあらわした。
(ほか)にも(さか)んに文章(ぶんしょう)()いた。弘化(こうか)4(ねん)(1847)11(がつ)16(にち)、73(さい)死亡(しぼう)八王子(はちおうじ)市内(しない)極楽寺(ごくらくじ)(ほうむ)られた。

植田(うえだ)孟縉(もうしん) 千人同心(せんにんどうしん)有名人(ゆうめいじん) その2
宝暦(ほうれき)7(ねん)(1757)12(がつ)8日(ようか)熊本(くまもと)自庵(じあん)()として江戸(えど)屋敷(やしき)()まれ、安永(あんえい)4(ねん)(1775)11(がつ)、19(さい)(とき)八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)組頭(くみがしら)植田(うえだ)元政(もとまさ)養子(ようし)になった。(あざな)十兵衛(じゅうべえ)
塩野(しおの)適斎(てきさい)らと一緒(いっしょ)に『新編(しんぺん)武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)』の仕事(しごと)にたずさわる。その(かん)文政(ぶんせい)6(ねん)(1823)10(がつ)には『武蔵(むさし)名勝(めいしょう)図会(ずえ)』(多摩郡(たまぐん)中心(ちゅうしん)とした地誌(ちし))をあらわして、昌平坂(しょうへいざか)学問所(がくもんじょ)林述斎(はやしじゅっさい)献上(けんじょう)している。
また、日光(にっこう)()(ばん)のあいまに調(しら)べて()いた地誌(ちし)日光(にっこう)山志(さんし)』(5(かん))では日光(にっこう)植物(しょくぶつ)動物(どうぶつ)をていねいに観察(かんさつ)して写生(しゃせい)
日光(にっこう)山志(さんし)』は天保(てんぽう)8(ねん)(1837)、孟縉(もうしん)81(さい)(とき)幕府(ばくふ)(ゆる)しを()刊行(かんこう)された。渡辺(わたなべ)崋山(かざん)椿(つばき)椿山(ちんざん)など、当時(とうじ)有名(ゆうめい)画家(がか)がさし()をかいている。
(ほか)にも、
鎌倉(かまくら)攬勝考(らんしょうこう)』(10(かん) ): 鎌倉(かまくら)地誌(ちし)
日光(にっこう)名勝(めいしょう)(こう)』(10(かん) ): 日光(にっこう)地誌(ちし)
鎌倉(かまくら)名勝(めいしょう)図会(ずえ)』(10(かん) ): 鎌倉(かまくら)地誌(ちし)
浅草寺(せんそうじ)旧跡(きゅうせき)(こう)』(5(かん) ): 寺院(じいん)旧跡(きゅうせき)について()かれたもの。
横山(よこやま)史跡(しせき)拾遺(しゅうい)』(5(かん) ): 八王子(はちおうじ)横山(よこやま)史跡(しせき)について()かれたもの。
といった著作(ちょさく)があって、なんてエネルギッシュな(ひと)なんだ! と(おどろ)いてしまう。
天保(てんぽう)14(ねん)(1843)12(がつ)14()、87(さい)死亡(しぼう)八王子(はちおうじ)市内(しない)宗徳寺(そうとくじ)(ほうむ)られた。

新編(しんぺん)武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)』とは、(なん)なんだ?
なんなんだ風土記(ふどき)」とは、地方(ちほう)ごとに風土(ふうど)文化(ぶんか)など、その土地(とち)様子(ようす)(しる)したもののことをいう。つまり、「地誌(ちし)」だね。
日本(にっぽん)では、和銅(わどう)6(ねん)(713)、元明天皇(げんめいてんのう)(みことのり)で、諸国(しょこく)地名(ちめい)由来(ゆらい)だの、産物(さんぶつ)だの、伝説(でんせつ)などの記録(きろく)()させ、(へん)さんしたのが風土記(ふどき)(はじ)めて。でも、その(なか)できちんと(のこ)っているのは『出雲国(いずものくに)(いま)島根県(しまねけん)東部(とうぶ)風土記(ふどき)』ぐらい。
文化(ぶんか)7(ねん)(1810)、林述斎(はやしじゅっさい)(あたら)しい風土記(ふどき)(つく)りましょう!と幕府(ばくふ)提案(ていあん)。さっそく昌平坂(しょうへいざか)学問所(がくもんじょ)地理局(ちりきょく)をつくり、(へん)さんの事業(じぎょう)にとりかかった。
新編(しんぺん)武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)』は、その地誌(ちし)(へん)さん事業(じぎょう)最初(さいしょ)のものとして、できあがったんだ。
(あたま)に“新編(しんぺん)”とあるのは、和銅(わどう)(ころ)風土記(ふどき)(たい)して、「(あたら)しく(へん)さんした」という意味(いみ)。“稿(こう)下書(したが)きの意味(いみ))”の()最後(さいご)についているのは、これを資料(しりょう)として、完成(かんせい)(しょ)をつくろうと(おも)っていたからなんだ。(実現(じつげん)しなかったんだけどね。)
けれど文化(ぶんか)文政(ぶんせい)時代(じだい)武蔵国(むさしのくに)村々(むらむら)()きつくし、現在(げんざい)、このへんの歴史(れきし)文化(ぶんか)研究(けんきゅう)するのに()かせない、ねうちのある資料(しりょう)だ。
(ぜん)(かん)266(かん)(うち、(へん)さん(しゃ)()(しる)した付録(ふろく)が1(かん))。文化(ぶんか)7(ねん)(1810)に稿(こう)をおこし、文政(ぶんせい)11(ねん)(1828)に稿(こう)()え、(すこ)(あやま)りを(ただ)して、天保(てんぽう)(がん)(ねん)(1830)、幕府(ばくふ)献上(けんじょう)された。
20年って長いね (つい)やした時間(じかん)、20(ねん)仕事(しごと)にたずさわった(ひと)は40(めい)あまり。(へん)さんにあたって、幕府(ばくふ)村々(むらむら)役人(やくにん)連絡(れんらく)して、「地誌(ちし)取調(とりしらべ)書上(かきあげ)」(調査書(ちょうさしょ)だね)を提出(ていしゅつ)させ、武蔵国(むさしのくに)以外(いがい)(くに)(ぐん)からも必要(ひつよう)資料(しりょう)(あつ)めた。そして、この調査書(ちょうさしょ)をもとに2~3(にん)1(くみ)で、調査員(ちょうさいん)直接(ちょくせつ)村々(むらむら)出向(でむ)いて、()んでいる(ひと)たちに()いたり、ひとつひとつ事実(じじつ)(たし)かめていった。だから、内容(ないよう)はとてもくわしく、かつ正確(せいかく)だ。
調査(ちょうさ)のさいには「自然(しぜん)人物(じんぶつ)神社(じんじゃ)(てら)名所(めいしょ)旧跡(きゅうせき)旧家(きゅうか)(その(むら)につづく(ふる)家柄(いえがら))、古文書(こもんじょ)にいたるまでことごとく調査(ちょうさ)し、記録(きろく)」するように命令(めいれい)がでていたからね。
新編(しんぺん)武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)』が完成(かんせい)した天保(てんぽう)(がん)(ねん)(1830)には、(いき)つくひまなく『新編(しんぺん)相模国(さがみのくに)風土記(ふどき)稿(こう)』の(へん)さんが(はじ)まっている。天保(てんぽう)12(ねん)(1842)に完成(かんせい)。126(かん)
そして八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)は『新編(しんぺん)武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)』の多摩郡(たまぐん)と、ついで『新編(しんぺん)相模国(さがみのくに)風土記(ふどき)稿(こう)』の津久井(つくい)(ぐん)(いま)神奈川県(かながわけん)北部(ほくぶ))の実地(じっち)調査(ちょうさ)(めい)じられたのだった。

これが『新編(しんぺん)武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)』のなかみだ!!
さて、『新編(しんぺん)武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)』。実際(じっさい)のなかみにはどんなことが()いてあるのかな、と。では、小平市(こだいらし)のはじまり、小川(おがわ)(むら)のところをちょいとのぞいてみようかな。

小川(おがわ)(むら)は、多摩郡(たまぐん)東北(とうほく)村山(むらやま)(ごう)にある。(ひがし)小川(おがわ)新田(しんでん)(いま)喜平町(きへいちょう)のへん)、(みなみ)南野中(みなみのなか)新田(しんでん)榎戸(えのきど)新田(しんでん)国分寺市(こくぶんじし))、西(にし)砂川(すながわ)立川市(たちかわし))、芋窪(いもくぼ)高木(たかぎ)(ひがし)大和市(やまとし))の村々(むらむら)(きた)野口(のぐち)(むら)(ひがし)村山市(むらやまし))。砂川(すながわ)(むら)から野口(のぐち)(むら)のあたりは、野火止(のびどめ)用水(ようすい)境界(きょうかい)だ。
東西(とうざい)およそ一()(四キロメートルくらい)。南北(なんぼく)は二(ちょう)(二二〇メートルくらい)(あま)り。四方(しほう)(たい)らな土地(とち)で、人家(じんか)は二二〇(けん)(はやし)(おお)く、水田(すいでん)はなく、陸田(りくでん)だけだ。
(むら)(なか)には(ふる)街道(かいどう)があって、道幅(みちはば)は二(けん)(三・六メートル)ばかり。府中(ふちゅう)から国分寺(こくぶんじ)(こい)(くぼ)などの(むら)(とお)ってここに(つう)じ、(きた)()れると久米川(くめがわ)(ほう)()く。鎌倉(かまくら)から陸奥(むつ)青森県(あおもりけん))への(みち)だ。
この(むら)(ひら)かれた(とき)のことをたずねると、小川(おがわ)九郎兵衛(くろべえ)という(ひと)(きし)(むら)にいて、武蔵野(むさしの)石塔ヶ窪(せきとうがくぼ)という(ところ)開発(かいはつ)する(ねが)いを()した。小川(おがわ)という(ひと)(ひら)いたので、小川(おがわ)新田(しんでん)といったけれど、その()子孫(しそん)新田(しんでん)(ひら)いたので、小川(おがわ)(むら)というようになった、という。
高札場(こうさつば)高札(こうさつ)をたてる場所(ばしょ)(むら)(なか)ほど
(はし) 小川(おがわ)(ばし)ほかニか(しょ)玉川上水(たまがわじょうすい)にかかっている。
水利(すいり)(みず)便利(べんり)
玉川上水(たまがわじょうすい)砂川(すながわ)(むら)からはいり、小川(おがわ)新田(しんでん)にそそぐ。
野火止(のびどめ)用水(ようすい)・これも砂川(すながわ)(むら)からはいり、となり(むら)との境界(きょうかい)になっている。
神社(じんじゃ)
神明宮(しんめいぐう) 小川(おがわ)(むら)鎮守(ちんじゅ)例祭(れいさい)は九(がつ)十九(にち)神主(かんぬし)殿ヶ谷(とのがや)(むら)瑞穂町(みずほまち))の阿豆(あず)佐美(さみ)天神(てんじん)神主(かんぬし)宮崎(みやざき)なんとか、という(ひと)配下(はいか)の、宮崎(みやざき)加賀(かが)という(ひと)だ。
日吉(ひえ)山王社(さんのうしゃ) 江戸(えど)麹町(こうじまち)山王(さんのう)神主(かんぬし)樹下(きのした)()配下(はいか)山口(やまぐち)大和(やまと)という(ひと)神主(かんぬし)だ。
寺院(じいん)
小川寺(しょうせんじ) 江戸(えど)市ヶ谷(いちがや)新宿区(しんじゅくく)月桂寺(げっけいじ)末寺(まつじ)碩林(せきりん)という(そう)(ひら)いた。()てたのは小川(おがわ)九郎兵衛(くろべえ)なので、その()をとって、小川寺(しょうせんじ)とする。臨済宗(りんざいしゅう)
妙法寺(みょうほうじ) 中藤(なかとう)(むら)武蔵(むさし)村山市(むらやまし)長円寺(ちょうえんじ)末寺(まつじ)(ひら)いた(そう)はわからないが、(いま)名主(なぬし)弥四郎(やしろう)祖先(そせん)吉野(よしの)又兵衛(またべえ)二人(ふたり)(ちから)()わせてつくったそうだ。
小川(おがわ)一小(いっしょう)小川(おがわ)(ちょう)丁目(ちょうめ))のあたりにあったけれど、明治(めいじ)四二(ねん)(がつ)国分寺市(こくぶんじし)にひっこした。
旧家(きゅうか)
百姓(ひゃくしょう)弥四郎(やしろう) (いま)名主(なぬし)祖先(そせん)小川(おがわ)次郎(じろう)助義(すけよし)治承(じしょう)(ころ)平安(へいあん)時代(じだい)(いく)さで()がらをたてた。その子孫(しそん)九郎兵衛(くろべえ)がこの(むら)をひらく。もと、後北条氏(ごほうじょうし)家臣(かしん)武蔵(むさし)七党(しちとう)西党(にしとう)小川(おがわ)()あり。
江戸時代の小川村!

多摩郡(たまぐん)調査(ちょうさ)をした千人同心(せんにんどうしん)メンバー(ひょう)
(はら)半左衛門(はんざえもん)胤敦(たねあつ)(この仕事(しごと)責任者(せきにんしゃ)千人頭(せんにんがしら)。)
(はら)半左衛門(はんざえもん)胤廣(たねひろ)胤敦(たねあつ)(おとうと)で、その死後(しご)(はら)()11代目(だいめ)をつぐことになる。)
(はら)新七郎(しんしちろう)胤禄(たねとし)胤廣(たねひろ)後継(あとつ)ぎで、(はら)()12代目(だいめ)…つまり(はら)()は3(だい)にわたってこの仕事(しごと)にたずさわったわけ。)
植田(うえだ)十兵衛(じゅうべえ)孟縉(もうしん)山本組(やまもとぐみ)組頭(くみがしら)。)
塩野(しおの)所左衛門(しょざえもん)(とおる)(はら)(ぐみ)組頭(くみがしら)。つまり適斎(てきさい)。)
秋山(あきやま)喜左衛門(きざえもん)定克(さだかつ)石坂(いしざか)(ぐみ)組頭(くみがしら)。)
筒井(つつい)恒蔵(つねぞう)元恕(もとよし)[怒](河野組(こうのぐみ)組頭(くみがしら)。)
風祭(かざまつり)彦右衛門(ひこえもん)公寛(ただひろ)志村組(しむらぐみ)組頭(くみがしら)。)
八木(やぎ)孫右衛門(まごえもん)[甚右衛門(じんえもん)とも]忠譲(ただのり?ただよし?)志村組(しむらぐみ)組頭(くみがしら)。)
神宮寺(じんぐうじ)豊五郎(とよごろう)正敷(まさのぶ)荻原(おぎわら)頼母組(たのもぐみ)組頭(くみがしら)。)
河西(かさい)井三郎(いさぶろう)愛貴(よしたか)山本組(やまもとぐみ)組頭(くみがしら)。)
(はら)利兵衛(りへえ)胤明(たねあき)(はら)(ぐみ)組頭(くみがしら)(はら)半左衛門(はんざえもん)()(しん)せき(すじ)ではないか、と。)

林述斎(はやしじゅっさい)地誌(ちし)(へん)さんの事業(じぎょう)をはじめて2(ねん)()文化(ぶんか)9(ねん)(1812)2(がつ)千人頭(せんにんがしら)(はら)半左衛門(はんざえもん)胤敦(たねあつ)は、(めい)()けて、湯島(ゆしま)大成殿(たいせいでん)でおこなわれる多摩郡(たまぐん)地誌(ちし)(へん)さんについての(はな)()いに(くわ)わるようになった。さらに文化(ぶんか)11(ねん)(1814)4(がつ)には、地誌(ちし)調査(ちょうさ)をするよう命令(めいれい)がおりて、(はら)半左衛門(はんざえもん)はただちに参加者(さんかしゃ)(かお)ぶれを(えら)んだ。メンバーは(みな)組頭(くみがしら)として、ひときわ学問(がくもん)もあり、ものの見方(みかた)もしっかりしている(ひと)たちばかりだった。
あるいて調べて書いてスケッチまでこなしてたんだ 千人同心(せんにんどうしん)がかかわった地誌(ちし)調査(ちょうさ)は、
武蔵国(むさしのくに)のうち 多摩郡(たまぐん) 40(かん)
高麗(こま)(ぐん) 10(かん)
秩父(ちちぶ)(ぐん) 20(かん)
以上(いじょう)(へん)さんを文政(ぶんせい)8(ねん)(1825)までに()え、『新編(しんぺん)武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)』は完成(かんせい)。さらに天保(てんぽう)4(ねん)(1833)から天保(てんぽう)7(ねん)(1836)までは(はら)胤禄(たねとし)責任者(せきにんしゃ)に『新編(しんぺん)相模国(さがみのくに)風土記(ふどき)稿(こう)』の津久井県(つくいけん)(ぐん))の調査(ちょうさ)をおこなった。(じつ)に20(ねん)月日(つきひ)だった。

そう、オンパレード その人物(じんぶつ)名前(なまえ)について、ど~しても()みがわからないものについては、『寛政(かんせい)重修(ちょうしゅう)諸家(しょか)()』の()(かた)にしたがいました。これは江戸(えど)時代(じだい)寛政(かんせい)年間(ねんかん)(1789~1801)に幕府(ばくふ)(へん)さんした、お()()以上(いじょう)武士(ぶし)たちの家系(かけい)(ほん)で、()まえ、()まえのオンパレードだ。
千人同心の人たちってからだも丈夫だったのね

桑都(そうと)日記(にっき)」に()多摩郡(たまぐん)調査(ちょうさ)日々(ひび)

わたし、塩野(しおの)適斎(てきさい)は、同僚(どうりょう)(はら)利兵衛(りへえ)胤明(たねあき)とともに(めい)をうけて、多摩(たま)地誌(ちし)調査(ちょうさ)をしているのである…。

4(がつ)8日(ようか) (あめ)
戸倉(とくら)(むら)にて 名主(なぬし)常右衛門(つねえもん)道案内(みちあんない)をたのんだら…
領主さまの命令がないとできません
乙津(おつ)(むら)にて 名主(なぬし)弥兵衛(やへえ)いわく、「この(さと)は13の()()かれて、()ごとに1人(ひとり)ずつ、(むら)役人(やくにん)がいます。全員(ぜんいん)あつまってからでないと、あなたのご質問(しつもん)(こた)えるわけにはゆきません。」
はい、全員集合ね

その()
あさよーっ 13(にん)全員(ぜんいん)(あつ)まってから、この(むら)についていろいろ質問(しつもん)する。半分(はんぶん)もすまないうちにニワトリが()いて午前(ごぜん)5()。つい夢中(むちゅう)になって徹夜(てつや)してしまった。
気分はハイだ

4(がつ)9日(ここのか) ちょびっと(あめ)
霧雨(きりさめ)(なか)()(ばし)(わた)る。(はり)(はしら)はなくて、(なが)さは18メートル。水底(みなぞこ)まで9メートル。(わた)(とき)()がくらみ、(あし)がちぢむ。おそれおののいて、(いき)(ころ)して(わた)る。
こわくなんかあるもんかあ

4(がつ)10日(とおか) ()かけるのに苦労(くろう)なほどの大雨(おおあめ)
合羽(かっぱ)()て、(つえ)()ってゆく。坂道(さかみち)のぬかるみに1()あるいては()()まり、()(した)(やす)み、(いし)(うえ)でうずくまり、()きしるしている。
なんでこう雨ばっかり!

なんのっ! 4(がつ)11(にち) ようやく()
養沢(ようざわ)から御岳山(みたけさん)()かう。とちゅう(たか)さ6メートルの(いわ)がどーん。(はら)ばいになってのぼる。

4(がつ)12(にち) ()
御岳(みたけ)神社(じんじゃ)調査(ちょうさ)をしてから、大岳山(おおたけさん)(のぼ)る。標高(ひょうこう)1,267メートル。のぼりはけわしく、岩場(いわば)では()をかけて(わた)ったり、(はら)ばいになって(わた)ったり。
(もど)りに近道(ちかみち)をしたら、()(あと)はあるけれど、(みち)はないっ!
胤明(たねあき)はふくらはぎをくじいたり、何度(なんど)もころんだりして、もう大変(たいへん)。とっても、とっても(つか)れた1(にち)だった…。
またかっ?

4(がつ)13(にち) ()
胤明(たねあき)記録(きろく)をとりつづけ、(やす)まず。
御岳(みたけ)(むら)滝本(たきもと)名主(なぬし)(いえ)夕食(ゆうしょく)山女魚(やまめ)がでて、とってもおいしかった!
(よる)、10()まで()きとりをする。
あしたもがんばろうな

その橋ね、舟にのるつもりで渡るんですよ 4(がつ)14() ()
沢井(さわい)(むら)をめざし、永久橋(えいきゅうばし)という(はし)(わた)る。この(はし)もすごかった。(ふね)()っているみたいにめちゃくちゃゆれる(はし)で、おまけにまん(なか)のつなぎ()(ふる)くなって、くさっている。

この(とき)2人(ふたり)(ある)いた地域(ちいき)(いま)五日市町(いつかいちまち)青梅市(おうめし)のあたり。その奮闘(ふんとう)ぶりがしのばれる、適斎(てきさい)日記(にっき)でありまする。

参考(さんこう)にした(ほん)

八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)()
「わが(まち)歴史(れきし) 八王子(はちおうじ)
多摩(たま)のあゆみ (だい)23(ごう) 特集(とくしゅう)八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)
江戸(えど)幕府(ばくふ)八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)
八王子(はちおうじ)市史(しし) ()(かん)
江戸(えど)時代(じだい)八王子宿(はちおうじじゅく)
八王子(はちおうじ)物語(ものがたり) (ちゅう)
新編(しんぺん)武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)
桑都(そうと)日記(にっき) 続編(ぞくへん)」そのほか、いろいろ…。

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