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31. 野火止(のびどめ)用水(ようすい)をゆけば

野火止(のびどめ)用水(ようすい)とは

野火止(のびどめ)用水(ようすい)って、()ってる?
承応(じょうおう)4(ねん)(1655)に(つく)られた玉川(たまがわ)上水(じょうすい)分水(ぶんすい)なんだ。
取入口(とりいれぐち)多摩郡(たまぐん)小川村(おがわむら)(いま)小平市(こだいらし)中島町(なかじまちょう))だった。
水路(すいろ)小平市(こだいらし)東大和市(ひがしやまとし)東村山市(ひがしむらやまし)清瀬市(きよせし)東久留米市(ひがしくるめし)(あいだ)をぬって埼玉県(さいたまけん)にはいる。
むかしは新座市(にいざし)から志木市(しきし)新河岸川(しんかしがわ)(なが)れこむコースだったけれど、(いま)は、平林寺(へいりんじ)のちょいと(さき)から地下(ちか)にもぐり、導水管(どうすいかん)柳瀬川(やなせがわ)にそそいでいる。(「野火止(のびどめ)用水(ようすい)おさんぽマップ」を参考(さんこう)にしてね。)
完成(かんせい)当時(とうじ)、その距離(きょり)24キロメートル(25キロメートルとも)。(みず)(ふか)さは(ふか)いところでおよそ90センチメートル。浅いところで60センチメートル。幅は狭いところで1.8メートル。玉川(たまがわ)上水(じょうすい)からの分水(ぶんすい)(りょう)は30パーセント。
玉川(たまがわ)上水(じょうすい)分水(ぶんすい)(なか)では、野火止(のびどめ)用水(ようすい)最大(さいだい)規模(きぼ)だ。
もっとも(ふる)く、もっとも距離(きょり)(なが)く、もっとも分水(ぶんすい)(りょう)(おお)い。
野火止(のびどめ)用水(ようすい)は、どうやって誕生(たんじょう)したんだろう? どんな歴史(れきし)があるんだろう? ちょっとのぞいてみたいよね。
どこに行こうかな

野火止(のびどめ)用水(ようすい) 年表(ねんぴょう)

野火止用水 年表
できごと
承応(じょうおう)(がん)(ねん)(1652) 老中(ろうじゅう)松平(まつだいら)伊豆守(いずのかみ)信綱(のぶつな)総奉行(そうぶぎょう)となって、庄右衛門(しょうえもん)清右衛門(せいえもん)兄弟(きょうだい)に、玉川(たまがわ)上水(じょうすい)工事(こうじ)(めい)じる。
承応(じょうおう)2(ねん)(1653) 玉川(たまがわ)上水(じょうすい)工事(こうじ)(はじ)まる。2(かい)失敗(しっぱい)(のち)安松(やすまつ)金右衛門(きんえもん)兄弟(きょうだい)手助(てだす)けをしたといわれている。
信綱(のぶつな)野火止(のびどめ)新田(しんでん)開発(かいはつ)(はじ)め、農家(のうか)55()(54()という(せつ)も)を移住(いじゅう)させる。
承応(じょうおう)3(ねん)(1654) 玉川(たまがわ)上水(じょうすい)完成(かんせい)。そのてがらとして、信綱(のぶつな)自分(じぶん)領土(りょうど)である野火止(のびどめ)への分水(ぶんすい)幕府(ばくふ)から(ゆる)される。
承応(じょうおう)4(ねん)(1655) だあっしゅー!2(がつ)10日(とおか)より、野火止(のびどめ)用水(ようすい)工事(こうじ)(はじ)まり、3(がつ)20日(はつか)完成(かんせい)する。24~5キロメートルの水路(すいろ)をわずか40日間(にちかん)()(とお)したわけだ。
寛文(かんぶん)2(ねん)(1662) 信綱(のぶつな)()くなる。
寛文(かんぶん)3(ねん)(1663) 信綱(のぶつな)()輝綱(てるつな)岩槻(いわつき)平林寺(へいりんじ)野火止(のびどめ)(うつ)す。
明治(めいじ)36(ねん)(1903) 野火止(のびどめ)用水(ようすい)使用(しよう)組合(くみあい)できる。この組合(くみあい)による用水(ようすい)管理(かんり)は、(いま)も、新座市(にいざし)朝霞市(あさかし)志木市(しきし)によって()きつがれている。
昭和(しょうわ)19(ねん)(1944) 埼玉県(さいたまけん)野火止(のびどめ)用水(ようすい)県史跡(けんしせき)指定(してい)
昭和(しょうわ)24(ねん)(1949) 野火止(のびどめ)地区(ちく)簡易(かんい)水道(すいどう)ができはじめ、()(みず)としての利用(りよう)()(はじ)める。
昭和(しょうわ)30(ねん)(だい)後半(こうはん) 流域(りゅういき)で、(きゅう)宅地化(たくちか)がすすむ。
昭和(しょうわ)48(ねん)(1973) 東京都(とうきょうと)(みず)事情(じじょう)悪化(あっか)などの理由(りゆう)から、玉川(たまがわ)上水(じょうすい)からの分水(ぶんすい)()められる。
6(がつ)、「平林禅寺(へいりんぜんじ)自然(しぜん)(まも)(かい)」より、東京都(とうきょうと)野火止(のびどめ)用水(ようすい)の「歴史(れきし)環境(かんきょう)保全(ほぜん)地域(ちいき)指定(してい)と、用水(ようすい)(まも)ってほしいという要望書(ようぼうしょ)()される。
9(がつ)東京都(とうきょうと)埼玉県(さいたまけん)連絡(れんらく)会議(かいぎ)で、埼玉県(さいたまけん)野火止(のびどめ)用水(ようすい)(なが)れを復活(ふっかつ)させることを要望(ようぼう)する。
昭和(しょうわ)49(ねん)(1974) 4(がつ)立川市(たちかわし)東大和市(ひがしやまとし)東村山市(ひがしむらやまし)清瀬市(きよせし)東久留米市(ひがしくるめし)、そして小平市(こだいらし)とで「野火止(のびどめ)用水(ようすい)保全(ほぜん)対策(たいさく)協議(きょうぎ)(かい)」をつくる。
12(がつ)東京都(とうきょうと)条例(じょうれい)(もと)づいて、野火止(のびどめ)用水(ようすい)を「歴史(れきし)環境(かんきょう)保全(ほぜん)地域(ちいき)」に指定(してい)
昭和(しょうわ)54(ねん)(1979) 東京都(とうきょうと)埼玉県(さいたまけん)連絡(れんらく)会議(かいぎ)で、野火止(のびどめ)用水(ようすい)(なが)れを(はや)くもとにもどそうと()める。(とお)(みず)には多摩川(たまがわ)上流(じょうりゅう)処理場(しょりじょう)下水(げすい)処理水(しょりすい)利用(りよう)することにする。
昭和(しょうわ)56(ねん)(1981) 野火止(のびどめ)用水(ようすい)への導水管(どうすいかん)工事(こうじ)(はじ)まる。
昭和(しょうわ)59(ねん)(1984) いろいろあったのね工事(こうじ)完成(かんせい)。この(とし)、ついに野火止(のびどめ)用水(ようすい)(なが)れは復活(ふっかつ)した。

野火止(のびどめ)用水(ようすい)歴史(れきし) その1

のぶつな ねんぴょう
できごと
慶長(けいちょう)(がん)(ねん)(1596) 10(がつ)30(にち) 大河内(おおこうち)金兵衛(きんべえ)久綱(ひさつな)長男(ちょうなん)として()まれる。
6(ねん)(1601) 叔父(おじ)松平(まつだいら)正綱(まさつな)養子(ようし)となる。
8(ねん)(1603) 徳川(とくがわ)秀忠(ひでただ)(2(だい)将軍(しょうぐん))、ついで家康(いえやす)初代(しょだい)将軍(しょうぐん))に(はつ)おめみえする。
9(ねん)(1604) 7(がつ)17(にち) 徳川(とくがわ)家光(いえみつ)(3(だい)将軍(しょうぐん)誕生(たんじょう)
7(がつ)25(にち) 信綱(のぶつな)家光(いえみつ)のお()きとなる。
16(ねん)(1611) 11(がつ)15(にち) 信綱(のぶつな)元服(げんぷく)。(つまり成人式(せいじんしき)
元和(げんな)9(ねん)(1623) 7(がつ) 伊豆守(いずのかみ)(にん)ぜられる。
寛永(かんえい)10(ねん)(1633) 5(がつ)5日(いつか) 老中(ろうじゅう)(しょく)につく。
3万石(まんごく)武蔵国(むさしのくに)忍城(おしじょう)城主(じょうしゅ)となる。
15(ねん)(1638) 2(がつ)28(にち) 島原(しまばら)(らん)をおさめる。
16(ねん)(1639) (がつ)5日(いつか) 島原(しまばら)(らん)のてがらにより、6万石(まんごく)川越城(かわごえじょう)城主(じょうしゅ)となる。
慶安(けいあん)4(ねん)(1651) 4(がつ)20日(はつか) 家光(いえみつ)()くなる。
信綱(のぶつな)家綱(いえつな)(4(だい)将軍(しょうぐん))につかえるようになる。
承応(じょうおう)(がん)(ねん)(1652) 玉川(たまがわ)上水(じょうすい)工事(こうじ)総奉行(そうぶぎょう)となる。
2(ねん)(1653) 野火止(のびどめ)新田(しんでん)開発(かいはつ)にのりだす。
3(ねん)(1654) 玉川(たまがわ)上水(じょうすい)完成(かんせい)
4(ねん)(1655) 野火止(のびどめ)上水(じょうすい)完成(かんせい)
寛文(かんぶん)2(ねん)(1662) 3(がつ)16(にち) 信綱(のぶつな)()くなる。67(さい)金重村(かなしげむら)平林寺(へいりんじ)埋葬(まいそう)
寛文(かんぶん)3(ねん)(1663) 信綱(のぶつな)生前(せいぜん)計画(けいかく)どおり、平林寺(へいりんじ)野火止(のびどめ)(うつ)す。

まるでボクみたい? 寛永(かんえい)10(ねん)(1634)、忍城(おしじょう)(いま)埼玉県(さいたまけん)行田市(ぎょうだし))3万石(まんごく)城主(じょうしゅ)となった松平(まつだいら)伊豆守(いずのかみ)信綱(のぶつな)禄高(ろくだか)こそ(おお)くはないが、将軍(しょうぐん)家光(いえみつ)自慢(じまん)家臣(かしん)だった。
なにしろ、この(ひと)、「知恵(ちえ)伊豆(いず)」(“知恵(ちえ)()ず”にかけてる)と()ばれるほどに(あたま)がいい。
伊豆(いず)のような家来(けらい)がもうひとりいたら、(自分(じぶん)は)天下(てんか)世話(せわ)などやかなくてすむ」とか「将軍(しょうぐん)になる(ひと)(おお)いだろうけど、自分(じぶん)くらい(しあわ)(もの)はいない。右手(みぎて)讃岐(さぬき)老中(ろうじゅう)1人(ひとり)酒井(さかい)忠勝(ただかつ)のこと。この(ひと)も、まじめ、努力家(どりょくか)有能(ゆうのう))、左手(ひだりて)伊豆(いず)がいる」とかね。家光(いえみつ)にほめられまくってるんだ。
幕府(ばくふ)(なか)にあっては老中(ろうじゅう)として基礎(きそ)づくりに(ちから)()くし、川越(かわごえ)藩主(はんしゅ)としては、野火止(のびどめ)用水(ようすい)()いて、新田(しんでん)開発(かいはつ)をし、(はん)政治(せいじ)(たし)かなものにするため、(はたら)いた。

2.まずは、玉川(たまがわ)上水(じょうすい)
ふえる一方(いっぽう)江戸(えど)住民(じゅうみん)()(みず)()()れるため、玉川(たまがわ)上水(じょうすい)計画(けいかく)された。多摩川(たまがわ)(みず)羽村(はむら)から()いて、四谷(よつや)大木戸(おおきど)まで43キロメートルの水路(すいろ)(つく)ろうというわけなんだ。
工事(こうじ)担当(たんとう)したのは庄右衛門(しょうえもん)清右衛門(せいえもん)玉川(たまがわ)兄弟(きょうだい)一方(いっぽう)松平(まつだいら)伊豆守(いずのかみ)信綱(のぶつな)は、この計画(けいかく)総奉行(そうぶぎょう)(めい)じられた。(司令官(しれいかん)のようなものだね。)
工事(こうじ)はたてつづけに2()失敗(しっぱい)幕府(ばくふ)計画(けいかく)中止(ちゅうし)しようとした。けれど信綱(のぶつな)はあきらめなかった。
3度目(どめ)は、信綱(のぶつな)家臣(かしん)安松(やすまつ)金右衛門(きんえもん)が、得意(とくい)測量(そくりょう)技術(ぎじゅつ)をいかして、玉川(たまがわ)兄弟(きょうだい)仕事(しごと)(たす)けたともいわれ(でも、ちゃんとした記録(きろく)(のこ)っていないんだよね)、承応(じょうおう)3(ねん)(1654)、玉川(たまがわ)上水(じょうすい)完成(かんせい)する。

3.野火止(のびどめ)平林寺(へいりんじ)
信綱(のぶつな)一族(いちぞく)平林寺(へいりんじ)とのつながりは、祖父(そふ)大河内(おおこうち)金兵衛(きんべえ)秀綱(ひでつな)がこの(てら)(ほうむ)られたことに(はじ)まる。
もともとは武蔵国(むさしのくに)金重村(かなしげむら)(いま)埼玉県(さいたまけん)岩槻市(いわつきし))にあった。それを野火止(のびどめ)(うつ)そうとした信綱(のぶつな)のねらいは新田(しんでん)開発(かいはつ)にかかわりがあるという。
平林寺(へいりんじ)新田(しんでん)開発(かいはつ)中心(ちゅうしん)にすえて、開拓(かいたく)農民(のうみん)たちの(こころ)(ささ)えにしたかったのだ。
また、こういう(せつ)もある。
川越(かわごえ)江戸城(えどじょう)(まも)大事(だいじ)拠点(きょてん)だ。万一(まんいち)江戸城(えどじょう)()められた(とき)には、たくさんの武士(ぶし)(あつ)められる場所(ばしょ)必要(ひつよう)になる。平林寺(へいりんじ)(うつ)したのはそのためだ。(いく)(よう)食糧(しょくりょう)野火止(のびどめ)新田(しんでん)から調達(ちょうたつ)できるしね。玉川(たまがわ)上水(じょうすい)(みず)を30(パーセント)分水(ぶんすい)できるようになっているのも、こうした非常(ひじょう)事態(じたい)(かんが)えてのことかもしれない。
うーむ、あなどれない…

4.技術者(ぎじゅつしゃ) 安松(やすまつ)金右衛門(きんえもん)
安松(やすまつ)金右衛門(きんえもん)吉実(よしざね)先祖(せんぞ)播州(ばんしゅう)兵庫県(ひょうごけん))の()だという。正保(しょうほう)(がん)(ねん)(1644)より信綱(のぶつな)につかえるようになった。信綱(のぶつな)(めい)()け、野火止(のびどめ)用水(ようすい)(つく)ったのはこの(ひと)だ。
玉川(たまがわ)上水(じょうすい)(とき)も、その設計(せっけい)技術(ぎじゅつ)をいかして、庄右衛門(しょうえもん)清右衛門(せいえもん)兄弟(きょうだい)工事(こうじ)手助(てだす)けをしたのではないかと()われる。
寛文(かんぶん)2(ねん)(1662)3(がつ)信綱(のぶつな)()くなると、その()輝綱(てるつな)につかえた。「独礼(どくれい)」といっておおやけの儀式(ぎしき)(とき)1人(ひとり)藩主(はんしゅ)()い、あいさつすることのできる名誉(めいよ)格式(かくしき)(あた)えられていた。それはやっぱり、金右衛門(きんえもん)がやりとげてきた仕事(しごと)(みと)められていたからなんだろうね。
貞享(じょうきょう)3(ねん)(1686)10(がつ)川越(かわごえ)()くなった。なきがらは新宿(しんじゅく)大宗寺(たいそうじ)(ほうむ)られたけれど、昭和(しょうわ)10(ねん)(1935)11(がつ)平林寺(へいりんじ)(うつ)された。(いま)は、(かれ)能力(のうりょく)をいかしてくれた主君(しゅくん)信綱(のぶつな)のそばに(ねむ)っている。

4.野火止(のびどめ)(みず)を!
川越(かわごえ)城主(じょうしゅ)になった信綱(のぶつな)は、新田(しんでん)開発(かいはつ)(かんが)えていた。その舞台(ぶたい)野火止(のびどめ)玉川(たまがわ)上水(じょうすい)計画(けいかく)(うご)(はじ)めた承応(じょうおう)2(ねん)(1653)には信綱(のぶつな)はそう()めていた。
野火止(のびどめ)(みず)にめぐまれない武蔵野(むさしの)台地(だいち)だ。玉川(たまがわ)上水(じょうすい)完成(かんせい)のあかつきには、ここにも(みず)()くぞ、と信綱(のぶつな)(かんが)えていたのだろう。
そして、(おな)(とし)の8(がつ)には、(はや)くも川越(かわごえ)領内(りょうない)から55()(54()という(せつ)も)の農家(のうか)野火止(のびどめ)(うつ)って()た。やがて、新座(にいざ)志木(しき)富士見(ふじみ)清瀬(きよせ)東久留米(ひがしくるめ)のあたりからも開発(かいはつ)のための()かせぎがはいってくる。それだけでなく、(はん)家臣(かしん)たちも(くわ)わった。(自分(じぶん)のところで使(つか)っている(もの)たちに耕作(こうさく)をさせたりしたんだ。)
(はん)をあげての新田(しんでん)開発(かいはつ)は、承応(じょうおう)4(ねん)(1655)に完成(かんせい)した野火止(のびどめ)用水(ようすい)(みず)にうるおされ、めざましく生産(せいさん)(りょう)をあげていった。
野火止(のびどめ)新田(しんでん)開発(かいはつ)はその()武蔵野(むさしの)新田(しんでん)開発(かいはつ)(はじ)まりでもあった。明暦(めいれき)2(ねん)(1656)には小川村(おがわむら)(もちろん小平市(こだいらし)!)が()のりをあげ、よく(とし)玉川(たまがわ)上水(じょうすい)2本目(ほんめ)分水(ぶんすい)小川(おがわ)分水(ぶんすい)(つく)られた。

番外(ばんがい) まわるよ、水車(すいしゃ)
日本(にっぽん)での水車(すいしゃ)についての記録(きろく)は、『日本(にほん)書記(しょき)』の610(ねん)のところに()てくるのが最初(さいしょ)なんだ。“水車(すいしゃ)(ちから)でひく石臼(いしうす)をつくった”と()かれているよ。
江戸(えど)時代(じだい)にはいって、新田(しんでん)開発(かいはつ)(さか)んになると、農業(のうぎょう)発達(はったつ)した。(いま)までより農産物(のうさんぶつ)がたくさんとれるようになると、今度(こんど)はそれを商品化(しょうひんか)するようになる。商品(しょうひん)をたくさん(つく)るには人間(にんげん)(ちから)だけでは()にあわない。そこで水車(すいしゃ)動力(どうりょく)注目(ちゅうもく)された。
武蔵野(むさしの)場合(ばあい)は、江戸(えど)(ちか)いし、(むぎ)やソバの畑作(はたさく)地帯(ちたい)だったから、水車(すいしゃ)(ちから)でそれらを製粉(せいふん)しては、商品(しょうひん)として、江戸(えど)(はこ)んだ。
でも、水車(すいしゃ)(だれ)にも(かれ)にも(つく)れたわけじゃない。(つく)費用(ひよう)(たか)かったし、水車(すいしゃ)商売(しょうばい)をするには、「冥加金(みょうがきん)」(税金(ぜいきん)です)が必要(ひつよう)だった。
そういうお(かね)負担(ふたん)しても、充分(じゅうぶん)()あう(はたら)きをする。それが水車(すいしゃ)だったから、江戸(えど)時代(じだい)(なか)ばから、明治(めいじ)(ころ)まで水車(すいしゃ)かせぎは(さか)んだった。

水車のしくみ

野火止(のびどめ)用水(ようすい)歴史(れきし) その2

5.生活(せいかつ)とむすびついた(みず)
野火止(のびどめ)用水(ようすい)(みず)は、()(みず)風呂(ふろ)、すいじ、(せん)たく、と生活(せいかつ)のあらゆることに使(つか)われて、これが終戦後(しゅうせんご)まで(つづ)いた。(みず)(あそ)びや、火事(かじ)(とき)消火(しょうか)のためにも使(つか)われたし、(みず)(なが)れを利用(りよう)して水車(すいしゃ)がまわされた。
宝暦(ほうれき)12(ねん)(1762)に最初(さいしょ)水車(すいしゃ)(つく)られてから、大正(たいしょう)時代(じだい)(ごろ)まで、新座(にいざ)市内(しない)だけでも野火止(のびどめ)用水(ようすい)でまわる水車(すいしゃ)は34()以上(いじょう)精米(せいまい)製粉(せいふん)をして(はたら)いていた。
大切(たいせつ)用水(ようすい)(みず)は、江戸(えど)時代(じだい)から野火止(のびどめ)(むら)など9か(そん)(つく)った組合(くみあい)管理(かんり)をしてきた。(みず)がれの(とき)は、江戸(えど)()(みず)である玉川(たまがわ)上水(じょうすい)優先(ゆうせん)で、野火止(のびどめ)用水(ようすい)にまわされる(みず)は「2歩止(ぶど)め」「3歩止(ぶど)め」と制限(せいげん)される。そんな(とき)組合(くみあい)が、幕府(ばくふ)役所(やくしょ)などに、(みず)をまわしてもらう(ねが)いを()しに()ったりした。
守って当然みんなの用水 組合(くみあい)ばかりではなく、平林寺(へいりんじ)も、野火止(のびどめ)用水(ようすい)(まも)るため、高札(こうさつ)掲示板(けいじばん)みたいなもの)で、まわりの人々(ひとびと)()びかけた。用水(ようすい)(みず)はみんなの大切(たいせつ)(いのち)(みず)だったからね。
明治(めいじ)36(ねん)(1903)5(がつ)には、北足立郡(きたあだちぐん)大和田町など2(ちょう)2(そん)で、用水(ようすい)管理(かんり)のための組合(くみあい)(つく)られた。これは現在(げんざい)新座市(にいざし)朝霞市(あさかし)志木市(しきし)の3()(つく)る「野火止(のびどめ)用水(ようすい)使用(しよう)組合(くみあい)」に(つづ)くものだ。

6.()められた野火止(のびどめ)用水(ようすい)
戦後(せんご)東京(とうきょう)はたびたび異常(いじょう)渇水(かっすい)におそわれた。(つまり、(みず)不足(ぶそく)。こどもきょうどしりょうNo.24『東京(とうきょう)水道(すいどう)』を参考(さんこう)にしてね。)
そのつど、野火止(のびどめ)用水(ようすい)玉川(たまがわ)上水(じょうすい)とともに(なが)れる(みず)(りょう)()り、流域(りゅういき)(ひと)たちは(こま)ってしまった。
さらに昭和(しょうわ)26(ねん)(1951)、用水(ようすい)(みず)から赤痢(せきり)発生(はっせい)。このことが昭和(しょうわ)24(ねん)(1949)に誕生(たんじょう)していた簡易(かんい)水道(すいどう)普及(ふきゅう)をうながすことになった。
昭和(しょうわ)30(ねん)(だい)後半(こうはん)になると、上流(じょうりゅう)小平市(こだいらし)東村山市(ひがしむらやまし)宅地化(たくちか)(きゅう)(すす)んだ。家庭(かてい)使(つか)った(よご)れた(みず)(なが)れこむようになり、野火止(のびどめ)用水(ようすい)汚染(おせん)していった。
流域(りゅういき)新座(にいざ)町では、野火止(のびどめ)用水(ようすい)(たよ)らない、本格的(ほんかくてき)上水(じょうすい)(どう)(つく)ろうと(うご)きだした。
用水(ようすい)汚染(おせん)上水(じょうすい)(どう)普及(ふきゅう)(なか)昭和(しょうわ)48(ねん)(1973)、ついに東京都(とうきょうと)は、野火止(のびどめ)用水(ようすい)への分水(ぶんすい)()めたのだった。

番外(ばんがい)野火止(のびどめ)用水(ようすい)の「いろは(どい)
野火止(のびどめ)用水(ようすい)(はじ)新河岸川(しんかしがわ)(なが)れこんでいた。けれど対岸(たいがん)宗岡(むねおか)(むら)(いま)埼玉県(さいたまけん)志木市(しきし))の地頭(じとう)岡部(おかべ)忠直(ただなお)(ねが)いによって、(かわ)懸樋(かけどい)でまたいで、用水(ようすい)(みず)(かわ)()こうの水田(すいでん)かんがいに利用(りよう)することになった。設計(せっけい)工事(こうじ)担当(たんとう)したのは忠直(ただなお)家臣(かしん)白井(しらい)武左衛門(ぶざえもん)安松(やすまつ)金右衛門(きんえもん)(つく)ったという(せつ)も。)武左衛門(ぶざえもん)は、柳瀬川(やなせがわ)新河岸川(しんかしがわ)合流(ごうりゅう)する地点(ちてん)下流(かりゅう)に48()のます(がた)(とい)をつなぎ()わせて、(みず)(とお)そうと(かんが)えた。
寛文(かんぶん)2(ねん)(1662)、野火止(のびどめ)用水(ようすい)ができて7(ねん)()懸樋(かけどい)(つく)られた。(なが)さ358m。(はば)60cm。ます(がた)(とい)(かず)から、いろは48文字(もじ)になぞらえて、「いろは(どい)」と()ばれた。
いろは樋のしくみ (『玉川(たまがわ)上水(じょうすい)分水(ぶんすい)参考(さんこう))
(さか)(うえ)(つく)った()(はこ)()ます)に(みず)をため、そこから地面(じめん)(した)()(とい)をつたって、(おお)ますまで(いきお)いよく、(みず)(とお)す。(おお)ますいっぱいになった(みず)は、そのまま、いろは(どい)によって、新河岸川(しんかしがわ)(わた)る。(みず)をいったん(たか)(ところ)にあげてから(ひく)(ところ)(うつ)す、「サイフォン(しき)」だ。

野火止(のびどめ)」の地名(ちめい)
飛鳥(あすか)奈良(なら)時代(じだい)朝鮮(ちょうせん)半島(はんとう)から日本(にっぽん)(わた)って()(ひと)たちがいた。(かれ)らは武蔵野(むさしの)()にも()みついて、(あさ)紫根(しこん)(ムラサキの根、染料だよ)を栽培(さいばい)して、この原野(げんや)焼畑(やきはた)農業(のうぎょう)をおこなった。
(はたけ)()野火(のび)(けむり)は、(とお)くからながめると紫色(むらさきいろ)()える。「(むらさき)にかすむ()」が武蔵野(むさしの)()のはじまりともいうし、紫根(しこん)がとれるので「紫野(むらさきの)」と()ばれたのがはじまりだともいう。野火止(のびどめ)地名(ちめい)は、焼畑(やきはた)農業(のうぎょう)にかかわりがある。「野火止(のびどめ)」というのは、野焼(のや)きの()(いえ)()()しないように(きづ)かれる(つか)(つつみ)のこと。はじめ「野火留」と()くことが(おお)かったけれど、元禄(げんろく)10(ねん)(1697)(ごろ)から、「野火止」とも()かれるようになっていた。
野火止(のびどめ)用水(ようすい)、またの()は…
ずばり、「伊豆(いず)殿堀(どのぼり)」。野火止(のびどめ)用水(ようすい)恩恵(おんけい)()けた(ひと)びとは、伊豆守(いずのかみ)であった信綱(のぶつな)への感謝(かんしゃ)をこめて、こう()んだ。地元(じもと)では「いずてんぼり」とも()うらしい。

よかったね 7.復活(ふっかつ)
野火止(のびどめ)用水(ようすい)(なが)れを()(もど)そうという(こえ)はすぐにあがった。
昭和(しょうわ)48(ねん)(1973)6(がつ)、「平林禅寺(へいりんぜんじ)自然(しぜん)文化(ぶんか)(まも)(かい)」が水質(すいしつ)調査(ちょうさ)をして、東京都(とうきょうと)知事(ちじ)に、野火止(のびどめ)用水(ようすい)都内(とない)流域(りゅういき)(すべ)てを「歴史(れきし)環境(かんきょう)保全(ほぜん)地域(ちいき)」に指定(してい)するように要望(ようぼう)した。(埼玉県(さいたまけん)では昭和(しょうわ)19(ねん)3(がつ)31(にち)史跡(しせき)指定(してい)している。)
3ヶ(げつ)()の9(がつ)には、東京都(とうきょうと)埼玉県(さいたまけん)連絡(れんらく)会議(かいぎ)で、野火止(のびどめ)用水(ようすい)整備(せいび)問題(もんだい)がとりあげられた。
12(がつ)には埼玉県(さいたまけん)が、また昭和(しょうわ)49(ねん)(1974)6(がつ)には埼玉県(さいたまけん)野火止(のびどめ)用水(ようすい)使用(しよう)組合(くみあい)協力(きょうりょく)して、用水(ようすい)流域(りゅういき)文化財(ぶんかざい)や、環境(かんきょう)水質(すいしつ)などの調査(ちょうさ)をおこなった。
それから半年(はんとし)()の12(がつ)東京都(とうきょうと)小平市(こだいらし)から、野火止(のびどめ)用水(ようすい)小金井(こがねい)街道(かいどう)にぶつかる埼玉県(さいたまけん)(ざかい)までの9.6キロメートルを「歴史(れきし)環境(かんきょう)保全(ほぜん)地域(ちいき)」に指定(してい)した。
昭和(しょうわ)54(ねん)(1979)11(がつ)東京都(とうきょうと)埼玉県(さいたまけん)連絡(れんらく)会議(かいぎ)で、多摩川(たまがわ)上流(じょうりゅう)処理場(しょりじょう)昭島市(あきしまし))の処理水(しょりすい)(おく)り、野火止(のびどめ)用水(ようすい)(なが)れを復活(ふっかつ)させようという提案(ていあん)がされる。
そのためには昭島市(あきしまし)処理場(しょりじょう)から、小平市(こだいらし)栄町(さかえちょう)放流口(ほうりゅうぐち)まで、処理水(しょりすい)(おく)導水管(どうすいかん)(とお)さなければならない。工事(こうじ)には昭和(しょうわ)56年度(ねんど)~59年度(ねんど)まで、4年間(ねんかん)(つい)やした。
昭和(しょうわ)59(ねん)(1984)8(がつ)、ついに野火止(のびどめ)用水(ようすい)(なが)れが(かえ)ってきた。300(ねん)もの(あいだ)地域(ちいき)(ひと)のくらしにむすびついて、()きてきた用水(ようすい)は11(ねん)ぶりに(いき)()(かえ)したのだった。

えーっとね 歴史(れきし)環境(かんきょう)保全(ほぜん)地域(ちいき)って?
歴史的(れきしてき)遺産(いさん)とひとつになった自然(しぜん)があり、その両方(りょうほう)保護(ほご)する必要(ひつよう)のある地域(ちいき)のこと。

野火止(のびどめ)用水(ようすい)おさんぽマップ

野火止用水おさんぽマップ

1.東京都(とうきょうと)薬用(やくよう)植物園(しょくぶつえん)
小平市(こだいらし)中島町(なかじまちょう)21-1 東大和市(ひがしやまとし)(えき)下車(げしゃ)徒歩(とほ)2(ふん)
薬草(やくそう)理解(りかい)してもらうために、昭和(しょうわ)20(ねん)9(がつ)にできた植物園(しょくぶつえん)。およそ32,500平方メートルの園内(えんない)には世界中(せかいじゅう)薬草(やくそう)が1,600種類(しゅるい)()えられ、季節(きせつ)ごとに(はな)()くよ。

2.野火止(のびどめ)緑地(りょくち)
小平市(こだいらし)栄町(さかえちょう)市境(しざかい)地域(ちいき) 東大和市(ひがしやまとし)(えき)下車(げしゃ)徒歩(とほ)15(ふん)
野火止(のびどめ)(ばし)から、ふれあい(ばし)、どんぐり(ばし)野火止(のびどめ)用水(ようすい)(くだ)ってゆけば、雑木林(ぞうきばやし)にかこまれたグリーン・ロード。すてきな散歩道(さんぽみち)だ。

3.九道(くどう)(つじ)公園(こうえん)
小平市(こだいらし)小川(おがわ)東町(ひがしちょう)2-3-4 八坂(やさか)(えき)下車(げしゃ)徒歩(とほ)3(ぷん)
玉川(たまがわ)上水(じょうすい)(おな)じく歴史的(れきしてき)遺産(いさん)野火止(のびどめ)用水(ようすい)()つ「(みず)」「武蔵野(むさしの)」をイメージした彫刻(ちょうこく)がならぶ。
平成(へいせい)(がん)(ねん)にできた(いけ)(たき)築山(つきやま)、あずまやがそろった和風(わふう)公園(こうえん)

4.都立(とりつ)東村山(ひがしむらやま)中央(ちゅうおう)公園(こうえん)
東村山市(ひがしむらやまし)富士見町(ふじみちょう)5-4-67 八坂(やさか)(えき)下車(げしゃ)徒歩(とほ)5(ぷん)
121,099平方メートルの(ひろ)園内(えんない)には(はやし)あり、バード・サンクチュアリーあり。狭山(さやま)境緑道(さかいりょくどう)のすぐそばだから、サイクリングの(とき)()るのもいいよね。

5.恩多(おんた)野火止(のびどめ)水車(すいしゃ)(えん)
東村山市(ひがしむらやまし)恩多町(おんたちょう)3-32-3 八坂(やさか)(えき)下車(げしゃ)
天明(てんめい)2(ねん)(1782)から昭和(しょうわ)26(ねん)(1951)の(あいだ)、ここには「当麻(とうま)水車(すいしゃ)」とよばれる水車(すいしゃ)があった。
野火止(のびどめ)用水(ようすい)(なが)れを利用(りよう)して、製粉(せいふん)精米(せいまい)自家(じか)発電(はつでん)をおこない、貴重(きちょう)動力(どうりょく)だった。この水車(すいしゃ)再現(さいげん)した水車(すいしゃ)(えん)野火止(のびどめ)用水(ようすい)(ある)(ひと)たちのいこいの()として平成(へいせい)3(ねん)につくられた。

6.万年(まんねん)(ばし)(おお)ケヤキ
東村山市(ひがしむらやまし)恩多町(おんたちょう)1-11
承応(じょうおう)3(ねん)(1654)、野火止(のびどめ)用水(ようすい)()(とき)に、すでに大木(たいぼく)だったので、その(した)(とお)して水路(すいろ)をつくった。()(はし)のように用水(ようすい)をまたいでいるので「万年(まんねん)(ばし)」とよばれるようになった。樹令(じゅれい)は600(ねん)くらいだ、という(せつ)といやいや、野火止(のびどめ)用水(ようすい)ができたあとだ。樹令(じゅれい)300(ねん)くらいだ、という(せつ)があり。いずれにしても(おお)ケヤキ! 昭和(しょうわ)44(ねん)3(がつ)()天然(てんねん)記念物(きねんぶつ)指定(してい)

7.下里(しもざと)本邑(ほんむら)遺跡(いせき)公園(こうえん)
東久留米市(ひがしくるめし)野火止(のびどめ)3-3-4 東久留米(ひがしくるめ)(えき)より西武(せいぶ)バス「都大橋(みやこおおはし)下車(げしゃ)徒歩(とほ)5(ふん)
この地域(ちいき)人間(にんげん)歴史(れきし)(ふる)い!
(やく)25,000(ねん)(まえ)先土器(せんどき)時代(じだい)から、縄文(じょうもん)弥生(やよい)奈良(なら)平安(へいあん)時代(じだい)(およ)遺跡(いせき)がある。
黒目川(くろめがわ)水源地(すいげんち)だった東久留米市(ひがしくるめし)(ない)には(ほか)にも130以上(いじょう)もの遺跡(いせき)()つかっている。やっぱり(みず)って生活(せいかつ)にはかかせないもんね。

8.小山台(こやまだい)遺跡(いせき)公園(こうえん)
東久留米市(ひがしくるめし)1-10 東久留米(ひがしくるめ)(えき)下車(げしゃ)徒歩(とほ)10分
中学生(ちゅうがくせい)中心(ちゅうしん)に、市民(しみん)()調査(ちょうさ)した縄文(じょうもん)時代(じだい)遺跡(いせき)竪穴(たてあな)(しき)住居(じゅうきょ)復原(ふくげん)してあるし、ここの高台(たかだい)からは市内(しない)がひと()()わたせる。

9.竹丘(たけおか)自然(しぜん)公園(こうえん)
清瀬市(きよせし)竹丘(たけおか)3-691-6 清瀬(きよせ)(えき)下車(げしゃ)徒歩(とほ)30(ぷん)
それほど(ひろ)くはないけれど、武蔵野(むさしの)ではめずらしくなった野草(やそう)保護(ほご)されていて、野草(やそう)公園(こうえん)として人気(にんき)あり。

10.松山(まつやま)緑地(りょくち)公園(こうえん)
清瀬市(きよせし)中里(なかざと)4-650 清瀬(きよせ)(えき)下車(げしゃ)徒歩(とほ)15分
(いけ)中心(ちゅうしん)に、(たき)にふん(すい)(ひろ)芝生(しばふ)(ひろ)さは43,300平方メートル。武蔵野(むさしの)のふんいきをあじわえる。

11.西堀(にしぼり)新堀(しんぼり)コミュニティーセンター
新座市(にいざし)新堀(しんぼり)1-5-9
野火止(のびどめ)用水(ようすい)史跡(しせき)資料(しりょう)展示室(てんじしつ)があって、江戸(えど)時代(じだい)用水(ようすい)古絵図(こえず)のパネルや写真(しゃしん)資料(しりょう)などがある。展示室(てんじしつ)利用(りよう)されている()もあるから、見学(けんがく)できるかは、()(まえ)(たし)かめようね。
042-492-4655

12.新座(にいざ)市立(しりつ)歴史(れきし)民俗(みんぞく)資料館(しりょうかん) (げつ)よう、祝日(しゅくじつ)、お(やす)み!
新座市(にいざし)片山(かたやま)1-21-25
野火止(のびどめ)用水(ようすい)にはかつてたくさんの水車(すいしゃ)がかかっていた。ここではその水車(すいしゃ)資料(しりょう)をあつめ、展示(てんじ)している。

13.平林寺(へいりんじ)
新座市(にいざし)野火止(のびどめ)3-1-1 新座市(にいざし)(えき)下車(げしゃ)
調布(ちょうふ)深大寺(じんだいじ)とならぶ武蔵野(むさしの)歴史(れきし)あるお(てら)。もともとは永和(えいわ)(がん)(ねん)(1375)に太田(おおた)道灌(どうかん)のおとうさんが武蔵国(むさしのくに)金重村(かなしげむら)(いま)岩槻市(いわつきし))に()てたのがはじまり。松平(まつだいら)伊豆守(いずのかみ)信綱(のぶつな)も、安松(やすまつ)金右衛門(きんえもん)もここに(ねむ)る。

1. 多摩川(たまがわ)上流(じょうりゅう)処理場(しょりじょう)
昭和(しょうわ)53(ねん)5(がつ)(うご)()した下水(げすい)処理場(しょりじょう)昭島(あきしま)福生(ふっさ)青梅(おうめ)立川(たちかわ)武蔵村山(むさしむらやま)羽村(はむら)瑞穂(みずほ)下水(げすい)処理(しょり)している。この処理水(しょりすい)野火止(のびどめ)用水(ようすい)(なが)れにいかされている。

2. 小平(こだいら)監視所(かんしじょ)
江戸(えど)時代(じだい)()えば水番所(みずばんしょ)上水(じょうすい)のゴミをとりのぞいたり、水位(すいい)監視(かんし)したり。ここから(さき)導水管(どうすいかん)上水(じょうすい)東村山(ひがしむらやま)浄水場(じょうすいじょう)(おく)る。

3. 東村山(ひがしむらやま)浄水場(じょうすいじょう)
多摩川(たまがわ)(けい)利根川(とねがわ)(けい)両方(りょうほう)から(みず)をとり()れ、浄化(じょうか)して、あちこちに(みず)(おく)っている。小平(こだいら)市内(しない)(とお)っているサイクリング道路(どうろ)(した)にはその水道管(すいどうかん)(とお)っているよ。

その歴史を知ると身近な気がしてくるよね

参考(さんこう)にした(ほん)

野火止(のびどめ)用水(ようすい)
新座市(にいざし)()
清流(せいりゅう)復活(ふっかつ)
東久留米市(ひがしくるめし)文化財(ぶんかざい)
東村山(ひがしむらやま)文化財(ぶんかざい)史跡(しせき)
九道(くどう)(つじ)公園(こうえん)あんない」
玉川(たまがわ)上水(じょうすい)(おや)()歴史(れきし)散歩(さんぽ)
西武(せいぶ)新宿線(しんじゅくせん)歴史(れきし)散歩(さんぽ)
最新(さいしん)多摩(たま)あるくマップ」
史跡(しせき)探訪(たんぼう)関東(かんとう)100(せん)
「わたしの(まち)散歩道(さんぽみち)
小平市(こだいらし)東村山市(ひがしむらやまし)清瀬市(きよせし)東久留米市(ひがしくるめし)新座市(にいざし)
志木市(しきし)、その()地域(ちいき)地図(ちず)…などいろいろ。

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