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22. コレラが(まち)にやって()
-明治(めいじ)(ころ)のコレラさわぎ-

コレラとは?

 コレラはものすごい伝染病(でんせんびょう)だ。(くち)からはいったコレラ(きん)小腸(しょうちょう)(なか)(どく)をうみ、お(こめ)のとぎ(じる)のような下痢(げり)嘔吐(おうと)()くこと)をくり(かえ)して、からだ(じゅう)水分(すいぶん)がぬけ、ほおっておけばほとんどの患者(かんじゃ)()んでしまう。
 (いま)医学(いがく)進歩(しんぽ)して、きちんと手当(てあ)てを()ければなおる。けれど幕末(ばくまつ)から明治(めいじ)にかけて、日本(にっぽん)何度(なんど)()こったコレラの大流行(だいりゅうこう)は、人々(ひとびと)恐怖(きょうふ)におとしいれた。
 病気(びょうき)()たと(おも)ったら、2~3(にち)で、バタバタと()んでゆく。あんまりあっけなくって「コロリ」(狐狼狸・コロリ、コロリと人が死ぬのと、コレラという病名をかけた)などと()ばれたもんだ。
 コレラはもともとインドのガンジス(がわ)流域(りゅういき)特有(とくゆう)伝染病(でんせんびょう)だった。それが世界(せかい)()()すようになったのは19世紀(せいき)近代(きんだい)文明(ぶんめい)発展(はってん)して、西欧(せいおう)国々(くにぐに)がアジアとの交通(こうつう)(さか)んにするようになってからだ。
 イギリスがインドを完全(かんぜん)支配(しはい)するようになった1817(ねん)最初(さいしょ)世界(せかい)(てき)コレラ流行(りゅうこう)()きる。日本(にっぽん)中国(ちゅうごく)経由(けいゆ)でコレラの攻撃(こうげき)()けた。文政(ぶんせい)5(1822)(ねん)のことだ。ただし、この(とき)西(にし)日本(にっぽん)中心(ちゅうしん)で、江戸(えど)にはいたらなかった。
 (つぎ)流行(りゅうこう)安政(あんせい)5(1858)(ねん)長崎(ながさき)入港(にゅうこう)したアメリカ軍艦(ぐんかん)ミシシッピ(ごう)乗組員(のりくみいん)()ちこんだ。この(とき)のコレラは日本(にっぽん)全国(ぜんこく)箱館(はこだて)までおよび、江戸(えど)だけでも死者(ししゃ)10万人(まんにん)、いや、26万人(まんにん)ともいう。
 幕末(ばくまつ)()(なか)不安定(ふあんてい)だし、江戸(えど)安政(あんせい)2(1855)(ねん)大地震(おおじしん)にみまわれたばかりでもあった。
こういうのって、ふんだりけったりっていわない?
 コレラは世界(せかい)()()すのが(おそ)かったにもかかわらず、その症状(しょうじょう)のすごさ、急激(きゅうげき)さから『国際(こくさい)伝染病(でんせんびょう)花形(はながた)』といわれる。
 『衛生(えいせい)(はは)』という()もついている。というのもこの病気(びょうき)流行(りゅうこう)は、その(くに)清潔(せいけつ)環境(かんきょう)とか病気(びょうき)予防(よぼう)などについて(かんが)えさせるきっかけとなるからだ。
 明治(めいじ)、というと「文明(ぶんめい)開化(かいか)」とすぐ(おも)ってしまうけど、一般(いっぱん)(ひと)たちの生活(せいかつ)江戸(えど)時代(じだい)のまま。上下(じょうげ)水道(すいどう)整備(せいび)されていないし…。
 そんな環境(かんきょう)だったから、コレラもはびこった。それにつれて、コレラをはじめ伝染病(でんせんびょう)予防(よぼう)のための法律(ほうりつ)だの、衛生(えいせい)(かい)だの、水道(すいどう)をより衛生(えいせい)(てき)なものに改良(かいりょう)しようという(かんが)えだのも()まれていった。

江戸(えど)東京(とうきょう) 流行病(はやりやまい)年表(ねんぴょう)

江戸・東京 流行病年表
できごと
文政(ぶんせい)5(1822) 2(がつ) オランダ商館長(しょうかんちょう)ブロムホフと商館(しょうかん)医師(いし)トゥルリング、幕府(ばくふ)官医(かんい)たちにインド、ジャワで流行(りゅうこう)(ちゅう)の「コレラ」の(はなし)をする。
8(がつ)下旬(げじゅん) 対馬(つしま)下関(しものせき)ルートで、コレラ、日本(にっぽん)初上陸(はつじょうりく)九州(きゅうしゅう)四国(しこく)近畿(きんき)大被害(だいひがい)
文政7(1824) 麻疹(ましん)(はしか)流行(りゅうこう)
天保(てんぽう)1(1830) 疫病(えきびょう)伝染病(でんせんびょう)流行(りゅうこう)
天保2(1831) 風邪(かぜ)流行(りゅうこう)
天保6(1835) 風邪(かぜ)流行(りゅうこう)
天保7(1836) 風疹(ふうしん)麻疹(ましん)流行(りゅうこう)
天保8(1837) 疫病(えきびょう)流行(りゅうこう)
弘化(こうか)3(1846) 痘瘡(とうそう)天然痘(てんねんとう)流行(りゅうこう)
嘉永(かえい)3(1850) 風邪(かぜ)流行(りゅうこう)
嘉永5(1852) 疫病(えきびょう)流行(りゅうこう)
嘉永6(1853) 6(がつ)3日(みっか) ペリー浦賀(うらが)来航(らいこう)
安政(あんせい)1(1854) 風邪(かぜ)流行(りゅうこう)
3(がつ)3日(みっか) 下田(しもだ)箱館(はこだて)開港(かいこう)
安政4(1857) 風邪(かぜ)流行(りゅうこう)
安政5(1858) 5(がつ)21(にち) アメリカ軍艦(ぐんかん)ミシシッピ(ごう)、コレラに感染(かんせん)した乗組員(のりくみいん)をのせて、長崎(ながさき)入港(にゅうこう)。コレラも日本(にっぽん)上陸(じょうりく)
6(がつ) コレラ、東海道(とうかいどう)(とお)り、7(がつ)江戸(えど)にはいる。
8(がつ) コレラ、全国(ぜんこく)流行(りゅうこう)
8(がつ)13(にち) 来日(らいにち)(ちゅう)のフランス軍艦(ぐんかん)から、コレラ予防(よぼう)意見書(いけんしょ)をもらう。
8(がつ)23(にち) 幕府(ばくふ)、コレラの予防(よぼう)治療法(ちりょうほう)(くば)る。
9(がつ) 幕府(ばくふ)、コレラ流行(りゅうこう)(こま)っている(ひと)(すく)うため、52万人(まんにん)(ぶん)(こめ)代金(だいきん)6万両(まんりょう))を()す。
安政6(1859) 2(がつ)15(にち) 幕府(ばくふ)(かわ)にごみを()てることを禁止(きんし)する。
3(がつ) 麻疹(ましん)流行(りゅうこう)
(なつ) コレラ流行(りゅうこう)
文久(ぶんきゅう)2(1862) 6(がつ) 麻疹(ましん)流行(りゅうこう)(なつ)、コレラ流行(りゅうこう)江戸(えど)だけで7(まん)3,000(にん)死亡(しぼう)相模(さがみ)武蔵(むさし)にもコレラ流行(りゅうこう)
8(がつ) 小平(こだいら)小川村(おがわむら))でコレラ流行(りゅうこう)。9(がつ)までに死者(ししゃ)80(にん)以上(いじょう)
慶応(けいおう)3(1867) 6(がつ) 風邪(かぜ)流行(りゅうこう)
10(がつ)15(にち) 徳川(とくがわ)慶喜(よしのぶ)大政奉還(たいせいほうかん)
明治(めいじ)5(1872) 5(がつ)30(にち) 明治(めいじ)3(ねん)4(がつ)15(にち)許可(きょか)されたばかりの玉川(たまがわ)上水(じょうすい)通船(つうせん)禁止(きんし)となる。
明治6(1873) 9(がつ)8日(ようか) 文部省(もんぶしょう)衛生(えいせい)(きょく)からコレラ予防(よぼう)のための意見書(いけんしょ)がでる。
明治10(1877) 2(がつ)15(にち)~9(がつ)24(にち) 西南(せいなん)戦争(せんそう)
8(がつ) コレラ、上海(しゃんはい)から長崎(ながさき)上陸(じょうりく)
8(がつ)27(にち) 内務省(ないむしょう)、「コレラ(びょう)予防(よぼう)心得(こころえ)」を公布(こうふ)
9(がつ)5日 横浜(よこはま)2人(ふたり)、コレラ患者(かんじゃ)発生(はっせい)
9(がつ)14() 牛込(うしごめ)早稲田(わせだ)(いま)新宿区(しんじゅくく))にコレラ患者(かんじゃ)発生(はっせい)東京(とうきょう)府下(ふか)(ひろ)がりはじめる。
深川(ふかがわ)などに避病院(ひびょういん)できる。
11(がつ) 神奈川県(かながわけん)でもコレラ流行(りゅうこう)
明治12(1879) 3(がつ) コレラ発生(はっせい)
6(がつ) 東京(とうきょう)大流行(だいりゅうこう)
6(がつ)17(にち) 内務省(ないむしょう)、「コレラ(びょう)予防(よぼう)および消毒法(しょうどくほう)心得(こころえ)」を発表(はっぴょう)
6(がつ)27(にち) 「コレラ予防(よぼう)仮規則(かりきそく)公布(こうふ)
8(がつ)2日(ふつか) 東京(とうきょう)()日本橋(にほんばし)蠣殻町(かきがらちょう)東京(とうきょう)地方(ちほう)衛生(えいせい)(かい)開設(かいせつ)
8(がつ)16(にち) 中央(ちゅうおう)衛生(えいせい)(かい)をつくる()らせがでる。
8(がつ)22(にち) 明治(めいじ)天皇(てんのう)、「コレラ撲滅(ぼくめつ)(かん)する勅諭(ちょくゆ)」を(はっ)する。
8(がつ)27(にち) 府下(ふか)大久保村(おおくぼむら)(いま)新宿区(しんじゅくく))にコレラの避病院(ひびょういん)できる。
明治13(1880) 4(がつ) 内務省(ないむしょう)から「虎列刺(これら)予防(よぼう)諭解(さとし)」でる。(わかりやすくコレラの予防(よぼう)(ほう)説明(せつめい)した(ほん)。)
7(がつ)9日(ここのか) 「伝染病(でんせんびょう)予防(よぼう)規則(きそく)公布(こうふ)
9(がつ)10日(とうか) 「伝染病(でんせんびょう)予防(よぼう)心得(こころえ)(しょ)公布(こうふ)
この当時(とうじ)の6(だい)伝染病(でんせんびょう)は「コレラ」「(ちょう)チフス」「赤痢(せきり)」「ジフテリア」「発疹(はっしん)チフス」「痘瘡(とうそう)
明治14(1881) 5(がつ)21(にち) 北多摩郡(きたたまぐん)衛生(えいせい)委員会(いいんかい)ができる。
明治15(1882) 4(がつ)26(にち) 横浜(よこはま)でコレラ発生(はっせい)
5(がつ)29(にち) 東京(とうきょう)()でもコレラ発生(はっせい)
(あき)にかけて流行(りゅうこう)
7(がつ)17(にち) 東京(とうきょう)()、コレラ流行(りゅうこう)のため、東京(とうきょう)検疫(けんえき)(きょく)伝染病(でんせんびょう)予防(よぼう)する機関(きかん))を(もう)ける。
9(がつ)2日(ふつか) 日本橋(にほんばし)避病院(ひびょういん)できる。
明治16(1883) ドイツの細菌(さいきん)学者(がくしゃ)ロベルト・コッホ、コレラ(きん)発見(はっけん)
明治18(1885) 2~3(がつ) 麻疹(ましん)流行(りゅうこう)
明治19(1886) (なつ)から(あき)にかけて、コレラ、全国(ぜんこく)(てき)(ひろ)がる。
6(がつ)6日(むいか) 大日本(だいにっぽん)衛生(えいせい)(かい)、わかりやすく()いたコレラの予防(よぼう)心得(こころえ)発行(はっこう)新聞(しんぶん)にのせたり、旅館(りょかん)銭湯(せんとう)(くば)る。
8(がつ)7日(なのか) 東京(とうきょう)神奈川(かながわ)、コレラ流行(りゅうこう)()指定(してい)される。
(おな)じく8(がつ)神奈川県(かながわけん)西(にし)多摩郡(たまぐん)()長淵村(ながぶちむら)(いま)青梅市(おうめし))で、コレラ患者(かんじゃ)(よご)(もの)多摩川(たまがわ)(せん)たくした、というニュースが(なが)れる。
明治20(1887) 痘瘡(とうそう)流行(りゅうこう)
明治21(1888) 3(がつ)1日(ついたち) 伝染病(でんせんびょう)予防(よぼう)消毒(しょうどく)取締(とりしまり)規則(きそく)
明治22(1889) 2(がつ)11(にち) 大日本(だいにっぽん)帝国(ていこく)憲法(けんぽう)発布(はっぷ)
明治23(1890) 7(がつ)18(にち) 横浜(よこはま)入港(にゅうこう)していたエルトグロール(ごう)からコレラ患者(かんじゃ)発生(はっせい)
8(がつ) コレラ流行(りゅうこう)
10(がつ)11(にち) 内務省(ないむしょう)、「伝染病(でんせんびょう)予防(よぼう)心得(こころえ)(しょ)公布(こうふ)
12(がつ) 東京(とうきょう)()、インフルエンザ流行(りゅうこう)
明治24(1891) 4(がつ) (ちょう)チフス流行(りゅうこう)
明治28(1895) 5~12(がつ) コレラ流行(りゅうこう)
11(がつ)21(にち) 北里柴三郎(きたざとしばさぶろう)、コレラ治療(ちりょう)のための血清(けっせい)療法(りょうほう)効果(こうか)について発表(はっぴょう)する。
明治29(1896) ジフテリア流行(りゅうこう)
明治30(1897) 1~6(がつ) 痘瘡(とうそう)流行(りゅうこう)
4(がつ)1日(ついたち) 「伝染病(でんせんびょう)予防(よぼう)(ほう)公布(こうふ)
5(がつ) 東京(とうきょう)麻疹(ましん)大流行(だいりゅうこう)
この(とし)三多摩(さんたま)赤痢(せきり)大流行(だいりゅうこう)小平(こだいら)(むら)でも患者(かんじゃ)260(にん)死者(ししゃ)60(にん)をだす。
下鈴木(しもすずき)(いま)鈴木町(すずきちょう))の宝寿院(ほうじゅいん)一部(いちぶ)避病院(ひびょういん)にあてる。
明治31(1898) (ちょう)チフス流行(りゅうこう)。ジフテリア流行(りゅうこう)
この(とし)小平(こだいら)(むら)小川(おがわ)新田(しんでん)山家(さんや)避病院(ひびょういん)できる。((いま)喜平町(きへいちょう)警察(けいさつ)学校(がっこう)構内(こうない)。)
明治33(1900) 1(がつ)15(にち) ペスト予防(よぼう)のため、東京(とうきょう)()、ネズミを1(ぴき)5(せん)()()げはじめる。
ジフテリア流行(りゅうこう)
明治35(1902) ペスト流行(りゅうこう)
この(とし)からコレラの予防(よぼう)接種(せっしゅ)はじまる。
明治36(1903) 1(がつ) 東京(とうきょう)市内(しない)でペスト流行(りゅうこう)
明治40(1907) ペスト流行(りゅうこう)
この1年間(ねんかん)、ペスト予防(よぼう)のために横浜市(よこはまし)()()げたネズミは48(まん) 5,760 (ぴき)
大正(たいしょう)1(1912) 9(がつ)25(にち) 上海(しゃんはい)で8(がつ)発生(はっせい)したコレラが東京(とうきょう)侵入(しんにゅう)
大正2(1913) 12(がつ) ペスト流行(りゅうこう)
大正5(1916) 荏原(えばら)(いま)品川区(しながわく))にコレラ発生(はっせい)東京(とうきょう)市中(しちゅう)流行(りゅうこう)
大正7(1918) 5(がつ) スペイン風邪(かぜ)大流行(だいりゅうこう)
大正9(1920) 1(がつ) スペイン風邪(かぜ)大流行(だいりゅうこう)
小平(こだいら)でもたくさんの患者(かんじゃ)がでる。
昭和(しょうわ)4(1929) その時代、時代の流行病がある 7(がつ)17(にち) 小平(こだいら)(むら)ほか8か町村(ちょうそん)による組合立(くみあいりつ)伝染病(でんせんびょう)専門(せんもん)病院(びょういん)北多摩郡(きたたまぐん)昭和(しょうわ)病院(びょういん)」できる。

明治(めいじ)()全国(ぜんこく)コレラにかかっちゃった(ひょう)
患者(かんじゃ)人数(にんずう)届出(とどけで)(ぶん)だけなので実際(じっさい)はもっと(おお)い?!)
明治期全国コレラにかかった患者
(ねん) 患者(かんじゃ)(すう)
死亡者数(しぼうしゃすう)
(ねん) 患者(かんじゃ)(すう)
死亡者数(しぼうしゃすう)
明治[流行]10 13,816
(8,027)
明治[流行]35 12、891
(8、012)
11 902
(275)
36 172
(139)
[流行]12 162,637
(105,786)
37 1
(48)
13 1,580
(618)
38 -
(34)
14 9,389
(6,237)
39 -
(29)
[流行]15 51,631
(33,784)
40 3、632
(1、702)
16 669
(434)
41 652
(297)
17 904
(417)
42 328
(158)
[流行]18 13,824
(9,329)
43 2、849
(1、656)
[流行]19 155,923
(108,405)
44 9
(35)
20 1,228
(654)
45・大正1 2、614
(1、763)
21 811
(410)
2 87
(106)
22 751
(431)
3 5
(100)
[流行]23 46,019
(35,227)
4 -
(63)
24 11、142
(7,760)
5 10、371
(7、482)
25 874
(497)
6 894
(718)
26 633
(364)
7 -
(32)
27 546
(314)
8 407
(356)
[流行]28 55,144
(40,154)
9 4、969
(3、417)
29 1,481
(907)
10 29
(35)
30 894
(488)
11 743
(542)
31 655
(374)
12 4
(31)
32 829
(487)
13 -
(-)
33 377
(-)
14 624
(363)
34 101
(-)
15・昭和1 25
(13)
数字(すうじ)(まえ)に[流行]がついているのは、コレラ大流行(だいりゅうこう)(とし)

コレラの歴史(れきし)

1.文政(ぶんせい)5(1822)(ねん)
箱根の関はこえなかった  この流行(りゅうこう)(とき)は、腹冷(はらび)え、冷気(れいき)(あた)り、霍乱(かくらん)中風(ちゅうぶ)などと言われた。ふつうの急性(きゅうせい)胃腸炎(いちょうえん)とごちゃまぜにされていたのだ。
 対馬(つしま)からはいって京都(きょうと)大坂(おおさか)へ。さらに東海道(とうかいどう)(すす)んだが、静岡県(しずおかけん)沼津(ぬまづ)のあたりで()まり、この(とき)コレラ(きん)江戸(えど)にははいらなかった。日本(にっぽん)最初(さいしょ)のコレラ襲来(しゅうらい)だ。
 (じつ)はこの流行(りゅうこう)(まえ)(おな)(とし)の2(がつ)にオランダ商館長(しょうかんちょう)ブロムホフとオランダ商館(しょうかん)医師(いし)トウルリングが江戸(えど)訪問(ほうもん)(さい)幕府(ばくふ)官医(かんい)たちにこの病気(びょうき)のことを(はな)している。
 「東方(とうほう)(くに)でむかしから(おお)くある病気(びょうき)で、老若(ろうにゃく)男女(なんにょ)(だれ)でもかかる。とつぜん発病(はつびょう)してすごいはやさで(わる)くなるから治療(ちりょう)もすみやかにしなければならない。病気(びょうき)がでて1~2時間(じかん)()ぬこともある。その病気(びょうき)()は、ラテン()で『コレラ・モルブス』」

2.安政(あんせい)5(1858)(ねん)
 文政(ぶんせい)(とき)原因(げんいん)不明(ふめい)、まったく()のうちようがなかった。
 安政(あんせい)流行(りゅうこう)では、原因(げんいん)不明(ふめい)ながら伝染(でんせん)する病気(びょうき)だということはわかったので、奉行所(ぶぎょうしょ)各藩(かくはん)伝染(でんせん)(ふせ)ぐための御触書(おふれがき)やお(たっ)しを()している。
 また、長崎(ながさき)のオランダ(じん)医師(いし)ポンペはヨーロッパの医学(いがく)情報(じょうほう)をとりいれ、この病気(びょうき)治療(ちりょう)()()んでいる。(すく)なくともコレラという病気(びょうき)にどんな症状(しょうじょう)がでるか、という知識(ちしき)は、医師(いし)たちの(あいだ)(ひろ)まった。
 この(とき)流行(りゅうこう)はアメリカ軍艦(ぐんかん)ミシシッピ(ごう)長崎(ながさき)入港(にゅうこう)した5(がつ)にはじまる。7(がつ)には江戸(えど)侵入(しんにゅう)赤坂(あかさか)築地(つきじ)芝海岸(しばかいがん)佃島(つくだじま)など海岸(かいがん)沿()いの地域(ちいき)から流行(りゅうこう)がはじまった。(みなと)外国(がいこく)から(おとず)れる(ひと)(もの)玄関(げんかん)だから、病気(びょうき)もまた(おな)じところからはいってくるんだね。
 江戸(えど)人々(ひとびと)は、コレラの流行(りゅうこう)に、玉川(たまがわ)上水(じょうすい)(みず)()まず、(もん)には(まも)(ふだ)をはり、おみこしを()したり、しし(がしら)をかついだりしてこの悪疫(あくえき)(わる)流行(りゅうこう)(びょう))を()いはらおうとした。
失礼ねっ!  「玉川(たまがわ)上水(じょうすい)(どく)(しょう)じてこの悪疫(あくえき)流行(りゅうこう)するのだ」とか、「怨霊(おんりょう)のせいだ」とか、「妖怪(ようかい)変化(へんげ)のせいだ」とか、「長崎(ながさき)停泊(ていはく)したアメリカ(じん)()っていたキツネを()いていって、そのキツネから病気(びょうき)がうつった。キツネを退治(たいじ)しないと病気(びょうき)はおさまらない」とか、さまざまなうさわも(みだ)れとぶのだった。

3.文久(ぶんきゅう)2(1862)(ねん)
 (なつ)流行(りゅうこう)全国(ぜんこく)にコレラ患者(かんじゃ)56万人(まんにん)江戸(えど)だけでも死者(ししゃ)7(まん)3,000(にん)

4.明治(めいじ)10(1877)(ねん)
 明治(めいじ)にはいると、西欧(せいおう)からコレラについての文献(ぶんけん)輸入(ゆにゅう)されるようになった。明治(めいじ)政府(せいふ)はこれをもとにコレラ対策(たいさく)(かんが)えるようになった。
 この(とし)九州(きゅうしゅう)でくりひろげられた西南(せいなん)戦争(せんそう)はイギリス軍艦(ぐんかん)長崎(ながさき)にもちこんだコレラを全国(ぜんこく)(ひろ)めた。すでに九州(きゅうしゅう)流行(りゅうこう)しはじめていたコレラに感染(かんせん)した兵隊(へいたい)たちの大移動(だいいどう)でばらまかれたのだ。
 もう(ひと)つ、(みなと)横浜(よこはま)でもこれとは(べつ)経路(けいろ)でコレラ発生(はっせい)。こっちは輸入品(ゆにゅうひん)から感染(かんせん)したらしい。
 9(がつ)14()、コレラはついに東京(とうきょう)()侵入(しんにゅう)
 牛込(うしごめ)早稲田(わせだ)(いま)新宿区(しんじゅくく))に患者(かんじゃ)()たのをはじまりに府下(ふか)(ひろ)がる。

5.明治(めいじ)12(1879)(ねん)
 日本(にっぽん)史上(しじょう)最悪(さいあく)のコレラ流行(りゅうこう)(とし)
 (コレラ(びょう)死者(ししゃ)明治(めいじ)19(ねん)(もっと)(おお)いが、コレラにかかった(ひと)はこの(とし)一番(いちばん)だ。)
 3(がつ)14()愛媛県(えひめけん)からはじまったコレラは6(がつ)には(ひがし)日本(にっぽん)におよび、8(がつ)下旬(げじゅん)もっともひどくなる。
 8(がつ)22(にち)明治(めいじ)天皇(てんのう)は、流行(りゅうこう)のまっただ(なか)、「コレラ撲滅(ぼくめつ)(かん)する勅諭(ちょくゆ)」を(はっ)する。
 “人生(じんせい)最大(さいだい)のわざわいは病毒(びょうどく)であり、わけてもいちばん悲惨(ひさん)なのは伝染病(でんせんびょう)だ。(たお)れる(もの)(まず)しい(もの)(よわ)(もの)(おお)いのはあわれである。病気(びょうき)原因(げんいん)がわかり、治療(ちりょう)方法(ほうほう)もできあがって、患者(かんじゃ)()ぬことなく、(だれ)もが簡単(かんたん)予防(よぼう)できるようにし、衛生(えいせい)成功(せいこう)をおさめてほしい。”という内容(ないよう)だ。

検疫(けんえき)(けん)(伝染病の疑いのある船や乗員を大丈夫とわかるまで上陸させない権利)
 コレラは(みなと)からはいってくる。病気(びょうき)原因(げんいん)不明(ふめい)でも、そのことはみんなわかっていた。
 文久(ぶんきゅう)2(1862)(ねん)、すでに幕府(ばくふ)各国(かっこく)に「コレラ患者(かんじゃ)のいる(ふね)入港(にゅうこう)しないでほしい」と(もう)()れている。しかし、外国(がいこく)治外(ちがい)法権(ほうけん)理由(りゆう)に「日本(にっぽん)規則(きそく)(まも)必要(ひつよう)はない」という態度(たいど)(つよ)かった。
 完全(かんぜん)検疫(けんえき)(けん)()()れたのは明治(めいじ)32(1899)(ねん)。これもコレラ流行(りゅうこう)下火(したび)にした理由(りゆう)(ひと)つだ。

明治(めいじ)15(1882)(ねん)
 4(がつ)26(にち)横浜(よこはま)にコレラ患者(かんじゃ)がでて、神奈川県(かながわけん)からすこしずつ全国(ぜんこく)(ひろ)がる。
 コレラの流行(りゅうこう)にともなって、加持(かじ)祈祷(きとう)(かみ)さまや(ほとけ)さまに(たす)けてくれるよういのること)もはやるようになった。
 7(がつ)10日、内務省(ないむしょう)はこれをひかえるように通知(つうち)をだした。祈祷(きとう)一生懸命(いっしょうけんめい)になって、治療(ちりょう)(あと)まわしになってはならないからだ。
 「加持(かじ)祈祷(きとう)をおこないたい(ひと)は、まず医師(いし)治療(ちりょう)をしてもらってから。」という注意(ちゅうい)だ。

明治(めいじ)16(1883)(ねん)
 ドイツの細菌(さいきん)学者(がくしゃ)、ロベルト・コッホがコレラ(きん)発見(はっけん)。が、これで(なに)もかも解決(かいけつ)!というわけではない。
 (ただ)しい治療(ちりょう)方法(ほうほう)予防(よぼう)方法(ほうほう)発見(はっけん)されるまでにままだまだ時間(じかん)がかかるのだった。

明治(めいじ)19(1886)(ねん)
 このころになると(つぎ)のようなコレラ予防(よぼう)原則(げんそく)があげられる。
(1)清潔(せいけつ)(みず)使(つか)う。
(2)土壌(どじょう)(つまり土地(とち))をいつも清潔(せいけつ)(たも)つ。
(3)(いえ)をいつも清潔(せいけつ)(たも)つ。(いえ)(なか)排水(はいすい)設備(せつび)便所(べんじょ)をつくる。
(4)なるべく、(おお)くの(ひと)たちを集合(しゅうごう)させない。
 この(とし)は、コレラによる死亡者(しぼうしゃ)一番(いちばん)(おお)かった。19(ねん)には1年中(ねんじゅう)伝染病(でんせんびょう)猛威(もうい)をふるい、コレラをはじめ赤痢(せきり)(ちょう)チフス、痘瘡(とうそう)で14(まん)6,000(にん)死亡(しぼう)日露(にちろ)戦争(せんそう)戦死者(せんししゃ)(かた)をならべる人数(にんずう)だ。東京(とうきょう)避病院(ひびょういん)では、あまりに(おお)患者(かんじゃ)()()れきれず重症(じゅうしょう)(もの)()ぬのを()(あいだ)もなく火葬場(かそうば)へ。
 市内(しない)(すべ)ての火葬場(かそうば)徹夜(てつや)()きつづけたが()いつかなかった。

それ以降(いこう)
 明治(めいじ)23(ねん)、28(ねん)流行(りゅうこう)にみまわれたがだんだんと下火(したび)に。コッホのコレラ(きん)発見(はっけん)から10(ねん)日本(にっぽん)でもコレラ(きん)相手(あいて)に、検査(けんさ)したり、治療(ちりょう)(かんが)えたりする時代(じだい)にはいった。検疫(けんえき)(注釈)(けん)獲得(かくとく)した。
 明治(めいじ)28(ねん)には北里柴三郎(きたざとしばさぶろう)がコレラ治療(ちりょう)血清(けっせい)療法(りょうほう)効果(こうか)について講演(こうえん)をおこなっている。
 明治(めいじ)35(ねん)には日本(にっぽん)最初(さいしょ)のコレラ予防(よぼう)接種(せっしゅ)(はじ)まった。それでも明治(めいじ)年間(ねんかん)、コレラによる死者(ししゃ)37万人(まんにん)あまり。日清(にっしん)日露(にちろ)戦死者(せんししゃ)をはるかに上回(うわまわ)被害(ひがい)だった。

 (注釈)検疫(けんえき)(けん)外国(がいこく)からの伝染病(でんせんびょう)(ふせ)ぐための検査(けんさ)

コレラのあれこれ

病名票(びょうめいひょう)
明治(めいじ)10(ねん)8(がつ)27(にち)公布(こうふ)された「コレラ(びょう)予防(よぼう)(ほう)心得(こころえ)」。その(なか)病名票(びょうめいひょう)のとりきめがある。まわりへの伝染(でんせん)(ふせ)ぐために、患者(かんじゃ)()(いえ)()(ぐち)に「コレラ伝染病(でんせんびょう)あり」と病名票(びょうめいひょう)をはりなさい、というもの。
しかし、明治(めいじ)15(ねん)流行(りゅうこう)(とき)人々(ひとびと)はこれをはるのをいやがり、患者(かんじゃ)()たことをかくしたりして、その(がい)(ほう)問題(もんだい)になった。
そこで、この(とし)の8(がつ)26(にち)には、人情(にんじょう)(かんが)えて病名票(びょうめいひょう)をはるのは()あわせよう、という結論(けつろん)になった。

避病院(ひびょういん)
これは伝染病(でんせんびょう)(ひろ)がるのを(ふせ)ぐため、患者(かんじゃ)をみんなから(はな)しておくための病院(びょういん)安政(あんせい)5(ねん)流行(りゅうこう)(とき)長崎(ながさき)(つく)られたのがそのはじまり。
明治(めいじ)10(ねん)流行(りゅうこう)には、東京(とうきょう)()でも北品川(きたしながわ)洲崎(すざき)市ヶ谷(いちがや)富久町(とみひさちょう)本郷向ケ岡(ほんごうむこうがおか)本所(ほんじょ)緑町(みどりちょう)などに避病院(ひびょういん)ができた。
明治(めいじ)14(ねん)(つく)られた「コレラ予防(よぼう)(ほう)協議(きょうぎ)手控(てびかえ)」に避病院(ひびょういん)は、こうとり()められている。

  • 避病院(ひびょういん)(つく)場所(ばしょ)人家(じんか)(ちか)くなく、井戸(いど)(かわ)(いずみ)のそば、交通(こうつう)(おお)いところはさける。
  • 重症(じゅうしょう)軽症(けいしょう)回復(かいふく)にむかっている(もの)にわけて、4(じょう)1人(ひとり)。せまくても1帖(いちじょう)1人(ひとり)までの面積(めんせき)にする。
  • 看護人(かんごにん)患者(かんじゃ)2人(ふたり)(たい)して1人(ひとり)昼夜(ちゅうや)交代(こうたい)させる。
  • 見舞客(みまいきゃく)病院(びょういん)()(とき)は、行水(ぎょうずい)でからだをきれいにさせ、(ふく)はかんたんな燻蒸(くんじょう)(いぶして、むして、(むし)・バイキンを(ころ)す)を(おこな)う。
しかし、病院(びょういん)とはいってもバラックの板囲(いたがこ)い。医師(いし)看護婦(かんごふ)不足(ふそく)で、患者(かんじゃ)はろくな手当(てあ)てもうけず、10(にん)(ちゅう)8、9(にん)()んでいった。避病院(ひびょういん)役目(やくめ)をおえると()きすてられた。
避病院(ひびょういん)にはいると()きて(かえ)れない」とか、「入院(にゅういん)すると()()をぬきとられる」「きもを(うば)われる」などといううわさが(なが)れ、入院(にゅういん)をいやがったり、入院(にゅういん)しても()()(ひと)もいたり。

虎列刺(これら)豫防諭解(よぼうのさとし)
内務省(ないむしょう)社寺(しゃじ)(きょく)衛生(えいせい)(きょく)編集(へんしゅう)して、明治(めいじ)13(ねん)4(がつ)11(にち)出版(しゅっぱん)したコレラ予防(よぼう)(ほん)
この時代(じだい)伝染病(でんせんびょう)のためのいろいろなきまりやお()らせがでるがそうした政府(せいふ)衛生(えいせい)キャンペーンのひとつ。
伝染病(でんせんびょう)原因(げんいん)空気(くうき)・のみ(みず)()べもの・(ひと)とのまじわりの4つ。また避病院(ひびょういん)はひどい(あつか)いをするところではないからすぐに病院(びょういん)をいれなさい。」などと注意(ちゅうい)をあたえている。


コレラ・その他の伝染病  明治のころの予防(よぼう)(ほう)あれこれ

予防法あれこれ

たべすぎない、のみすぎないという注意もあったよ コレラの流行(りゅうこう)以来(いらい)、さまざまな予防(よぼう)(ほう)()されたけれど、そのほとんどの基本(きほん)()(みず)環境(かんきょう)清潔(せいけつ)(たも)つ、ということだった。
けれど明治(めいじ)のころの日本(にっぽん)は「富国(ふこく)強兵策(きょうへいさく)」のまっただ(なか)(くに)(つよ)くすることにたくさんのお(かね)がかかって、一般(いっぱん)(ひと)たちの生活(せいかつ)環境(かんきょう)(ととの)える(ほう)にはなかなか()がまわらない。いちばんかんじんの環境(かんきょう)衛生(えいせい)(てき)ではなかったのだから、伝染病(でんせんびょう)流行(りゅうこう)はおさまらなかった。

きまり、ご注意(ちゅうい)いろいろでた!

安政(あんせい)5(ねん)8(がつ)
コレラの応急(おうきゅう)手当(てあて)について御触書(おふれがき) がでる。

明治(めいじ)10(ねん)8(がつ)24()
「コレラ流行(りゅうこう)(せつ)各自(かくじ)注意(ちゅうい)すべき養生(ようじょう)(ほう)公布(こうふ)
このときすでに「のみ (みず)はわかしたほうがいい」と()かれている。

明治(めいじ)10(ねん)8(がつ)27(にち)
「コレラ予防(よぼう)心得(こころえ)公布(こうふ)
検疫(けんえき)伝染病(でんせんびょう)検査(けんさ))からコレラが発生(はっせい)したときの届出(とどけで)埋葬(まいそう)のしかたまでとりきめられている。
これ以降(いこう)伝染病(でんせんびょう)についての規則(きそく)のお手本(てほん)となる。

明治(めいじ)11(ねん)3(がつ)14()
一般(いっぱん)予防(よぼう)(ほう)」でる。
内務省(ないむしょう)東京(とうきょう)()実行(じっこう)するよう()したもの。
井戸(いど)便所(べんじょ)・ミゾ・ドブ・ゴミの掃除(そうじ)から患者(かんじゃ)()(あつか)いまで() められている。

明治(めいじ)11(ねん)5(がつ)9()
飲水(いんすい)(ほう)公布(こうふ)
井戸(いど)修理(しゅうり)補修(ほしゅう)して、(よご)れた(みず)がはいらないようにしなさい、と() っている。

明治(めいじ)12(ねん)6(がつ)27(にち)
「コレラ(びょう)予防(よぼう)仮規則(かりきそく)公布(こうふ)

明治(めいじ)13(ねん)7(がつ)9()
伝染病(でんせんびょう)予防(よぼう)規則(きそく)公布(こうふ)
清潔(せいけつ)(ほう)摂生(せっせい)(ほう)隔離(かくり)(ほう)消毒法(しょうどくほう)などが(さだ)められている。

明治(めいじ)15(ねん)
伝染病(でんせんびょう)予防(よぼう)心得(こころえ)(しょ)
清潔(せいけつ)(ほう)摂生(せっせい)(ほう)などが(さだ)められている。

明治(めいじ)21(ねん)3(がつ)1日(ついたち)
伝染病(でんせんびょう)予防(よぼう)消毒(しょうどく)取締(とりしまり)規則(きそく)公布(こうふ)

明治(めいじ)23(ねん)10(がつ)11(にち)
伝染病(でんせんびょう)予防(よぼう)心得(こころえ)(しょ)公布(こうふ)
患者(かんじゃ)()した(いえ)やその(ちか)くの(いえ)予防(よぼう)消毒(しょうどく)のしかたから流行(りゅうこう)までの予防(よぼう)(ほう)まで。

明治(めいじ)29(ねん)4(がつ)22(にち)
東京(とうきょう)()警視庁(けいしちょう)。たべもの・井戸(いど)下水(げすい)修理(しゅうり)便所(べんじょ)掃除(そうじ)などの注意(ちゅうい)()す。

明治(めいじ)30(ねん)4(がつ)1日(ついたち)
伝染病(でんせんびょう)予防(よぼう)(ほう)公布(こうふ)

このほかにも、コレラ患者(かんじゃ)()るたび、警視庁(けいしちょう)東京(とうきょう)()などいろいろな注意(ちゅうい)()している。

小平(こだいら)伝染病(でんせんびょう) 江戸(えど)末期(まっき)

コレラの流行(りゅうこう)
 安政(あんせい)5(1858)(ねん)全国(ぜんこく)(てき)コレラ流行(りゅうこう)の4年後(ねんご)文久(ぶんきゅう)2(1862)(ねん)小川村(おがわむら)でコレラの大量(たいりょう)発生(はっせい)があったという。なにしろ当時(とうじ)人口(じんこう)が1、200(にん)程度(ていど)(むら)で80(にん)以上(いじょう)死者(ししゃ)()た。
 明治(めいじ)17(1884)(ねん)にも5~6(にん)ほどコレラ患者(かんじゃ)がでたようだ。

避病院(ひびょういん) ~明治(めいじ)のころ~
 小平(こだいら)避病院(ひびょういん)がなかった(ころ)は、伝染病(でんせんびょう)患者(かんじゃ)()ると、戸板(といた)にのせ、荷車(にぐるま)埼玉県川越(さいたまけんかわごえ)病院(びょういん)まで(はこ)んでいった。30キロメートルの(みち)のりだ。1(にち)がかりで()れて()っても、病院(びょういん)()(まえ)患者(かんじゃ)()んでしまうことが(おお)かったという。
 小平(こだいら)最初(さいしょ)避病院(ひびょういん)下鈴木(しもすずき)(いま)鈴木町(すずきちょう))の宝寿院(ほうじゅいん)明治(めいじ)30(1897)(ねん)5(がつ)赤痢(せきり)大流行(だいりゅうこう)して臨時(りんじ)にここに()かれた。
 よく(とし)明治(めいじ)31(1898)(ねん)小川(おがわ)新田(しんでん)山家(さんや)(いま)喜平町(きへいちょう))に独立(どくりつ)した避病院(ひびょういん)()った。(いま)警察(けいさつ)学校(がっこう)敷地(しきち)(なか)だ。病室(びょうしつ)は5つあった。
 (むら)(つた)わる(はなし)によると、病院(びょういん)といっても、医師(いし)看護婦(かんごふ)もいないも(おな)じ。患者(かんじゃ)家族(かぞく)()うこともできずいたましいものだったとか。
 「病院(びょういん)()れて()かれると()きて(かえ)れない」と患者(かんじゃ)(かく)したりした。

伝染病(でんせんびょう)原因(げんいん)
 小平(こだいら)伝染病(でんせんびょう)原因(げんいん)はおもに()(みず)だった。村人(むらびと)たちの(おお)くは、玉川(たまがわ)上水(じょうすい)からの分水(ぶんすい)()(みず)として使(つか)っていた。だから、玉川(たまがわ)上水(じょうすい)上流(じょうりゅう)(よご)れた(みず)がはいりこんだり、伝染病(でんせんびょう)がでたりすると、影響(えいきょう)をうけてしまう。この(ころ)はきちんとした下水(げすい)なんてなかったし。
 (ねん)に1、2(かい)(かわ)さらいを行事(ぎょうじ)にしたけれど、あまり効果(こうか)はあがらなかった。
お水は大切!

昭和(しょうわ)病院(びょういん)誕生(たんじょう) ~昭和(しょうわ)
 昭和(しょうわ)2(1927)(ねん)警視庁(けいしちょう)衛生(えいせい)()田無(たなし)警察署(けいさつしょ)と、北多摩(きたたま)地区(ちく)伝染病(でんせんびょう)対策(たいさく)について(はな)()った。(この当時(とうじ)警察(けいさつ)衛生(えいせい)のお仕事(しごと)もしていたんだね。)
 それで田無(たなし)署管内(しょかんない)田無(たなし)(まち)小平(こだいら)(むら)保谷(ほうや)(むら)久留米(くるめ)(むら)清瀬(きよせ)(むら)大和(やまと)(むら)村山(むらやま)(むら)(武蔵村山だよ)・(ひがし)村山(むらやま)(むら)の8か町村(ちょうそん)共同(きょうどう)して伝染病(でんせんびょう)隔離(かくり)病院(びょういん)をつくることに()めた。
 これが昭和(しょうわ)病院(びょういん)だ。
 昭和(しょうわ)4(1929)(ねん)7(がつ)12(にち)小平(こだいら)(むら)設立(せつりつ)病室(びょうしつ)28(しつ)、ベッド(すう)51からスタートした。

古文書(こもんじょ)()小平(こだいら)のコレラ1
 宮崎家(みやざきけ)神明宮(しんめいぐう))の7代目(だいめ)義智(よしとも)小川村(おがわむら)のお医者(いしゃ)(さま)だった。()くなったのが明治(めいじ)23(1890)(ねん)。コレラが一番(いちばん)流行(りゅうこう)している時代(じだい)()きた(ひと)なんだ。
 だから、この(いえ)古文書(こもんじょ)にはコレラに(かん)するものがいくつか(のこ)されている。
 明治(めいじ)10(ねん)の「虎列刺(これら)予防(よぼう)(ほう)心得(こころえ)」ですでに医師(いし)虎列刺(これら)患者(かんじゃ)診察(しんさつ)したら届出(とどけで)るよう義務(ぎむ)づけられていたから、義智(よしとも)から田無(たなし)(しょ)あてに診察(しんさつ)(しょ)報告書(ほうこくしょ)()しているんだ。
 義智(よしとも)は「虎列刺(ころり)霍乱(かくらん)一目瞭然(ひとめでわかる)」という資料(しりょう)(のこ)している。コレラと霍乱(かくらん)急性(きゅうせい)腸炎(ちょうえん))のちがいが一目(ひとめ)でわかるように、それぞれの症状(しょうじょう)上段(じょうだん)下段(げだん)()きわけて対照(たいしょう)比較(ひかく)したものだ。
 コレラ患者(かんじゃ)や、それらしい患者(かんじゃ)()(とき)、この(ひょう)(かつ)やくしたんだろうね。
ころりかくらんひとめでわかる

古文書(こもんじょ)()小平(こだいら)のコレラ

 (めぐ)()新田(しんでん)(いま)回田町(めぐりたちょう))の斉藤家(さいとうけ)古文書(こもんじょ)にもコレラに(かん)するものがずいぶんある。明治(めいじ)10(ねん)から12(ねん)(あいだ)御用留(ごようどめ)で40(ちか)くもあるんだ。うち9(わり)神奈川県(かながわけん)から()されている。(明治(めいじ)26(ねん)3(がつ)31(にち)まで三多摩(さんたま)神奈川県(かながわけん)だったからね。)(した)(ひょう)はその通知(つうち)()された()と、題名(だいめい)なんだ。これだけでもコレラがどんなに脅威(きょうい)だったかわかるよね。
御用留(ごようどめ)役所(やくしょ)から(むら)への通知(つうち)(むら)から役所(やくしょ)()した(とどけ)(ねが)(しょ)をいう。)

コレラに関する通知
番号 通知
1 <明治10年9月10日>コレラやそれに()症状(しょうじょう)(きゃく)()せた人力車(じんりきしゃ)はいちばん(ちか)警察署(けいさつしょ)()るように。
2 <明治10年9月13日>くさったり、病死(びょうし)した(とり)(けもの)()らないように。
食品(しょくひん)仕事(しごと)をする(ひと)心得(こころえ)()らせる。
3 <明治10年9月18日>コレラ流行(りゅうこう)のため、臨時(りんじ)検疫(けんえき)(がかり)伝染病(でんせんびょう)予防(よぼう)する(かかり))を(もう)けるように。
4 <明治10年9月18日>コレラ流行(りゅうこう)のため(ふね)鉄道(てつどう)()()りする(もの)荷物(にもつ)臨時(りんじ)点検(てんけん)する。
5 <明治10年9月20日>横浜(よこはま)神奈川駅(かながわえき)および横須賀(よこすか)などでコレラ流行(りゅうこう)につき、この病気(びょうき)にかかったら届出(とどけで)るように。
6 <明治10年9月20日>横浜(よこはま)神奈川駅(かながわえき)で9(がつ)8()から9(がつ)19(にち)までにコレラにかかった人数(にんずう)通知(つうち)
7 <明治10年9月21日>9(がつ)8()から9(がつ)20()まで横浜(よこはま)横須賀(よこすか)神奈川駅(かながわえき)でコレラで死亡(しぼう)した(ひと)治療(ちりょう)(ちゅう)(ひと)(かず)通知(つうち)
8 <明治10年9月22日>コレラ流行(りゅうこう)のため、カニやエビを()べるのはやめるように。
9 <明治10年9月22日>コレラやそれに()症状(しょうじょう)(もの)調(しら)べをうけないまま、(ほか)場所(ばしょ)()くことを禁止(きんし)する。
10 <明治10年9月23日>コレラの消毒(しょうどく)についてと(コレラにかかった(いえ)の)()許可(きょか)外出(がいしゅつ)禁止(きんし)
11 <明治10年9月24日>コレラ(びょう)(ひろ)がるのを予防(よぼう)するため、(かわ)(なか)(きし)でのうんちやおしっこに注意(ちゅうい)すること。
12 <明治10年9月24日>小学生(しょうがくせい)にコレラが()(とき)、その学区内(がっくない)小学校(しょうがっこう)臨時(りんじ)休校(きゅうこう)すること。
13 <明治10年9月24日>コレラ患者(かんじゃ)()(いえ)()(もの)()(もの)()ることを禁止(きんし)する。
14 <明治10年9月25日>コレラが溝之口(みぞのくち)日野(ひの)八王子(はちおうじ)などに伝染(でんせん)流行(りゅうこう)しているので()らせる。
15 <明治10年9月25日>コレラ患者(かんじゃ)(よご)(もの)()()てるように。
16 <明治10年9月25日>コレラ流行(りゅうこう)地域(ちいき)当分(とうぶん)(あいだ)、うんち・おしっこをまいたり、()()いすることを禁止(きんし)する。
17 <明治10年9月26日>コレラ流行(りゅうこう)のため、()(みず)にはいっそう注意(ちゅうい)するように。
18 <明治10年9月27日>コレラにかかった(もの)掲示(けいじ)するように。
19 <明治10年9月27日>コレラ患者(かんじゃ)やコレラによる死亡者(しぼうしゃ)(よご)(もの)(はこ)(とき)は、そのめじるしをつけるように。
20 <明治10年9月27日>コレラ流行(りゅうこう)のため(だい)1・2大区(だいく)から()()りする(ふね)臨時(りんじ)点検(てんけん)する。(この時代、大区小区という地域のわけかたをしていた。)
21 <明治10年9月28日>コレラ流行(りゅうこう)のため下水(げすい)掃除(そうじ)(もの)(かなら)消毒(しょうどく)するように。
22 <明治10年10月3日>家族(かぞく)やお(きゃく)でコレラやそれに()症状(しょうじょう)(もの)許可(きょか)なく移転(いてん)するのを禁止(きんし)する。
23 <明治10年10月3日>コレラ患者(かんじゃ)移転(いてん)許可(きょか)するのに必要(ひつよう)条件(じょうけん)について通知(つうち)
24 <明治10年10月6日>伝染病(でんせんびょう)流行(りゅうこう)のため、東京(とうきょう)府下(ふか)でのうんち・おしっこのくみ()りの時間(じかん)制限(せいげん)する。
25 <明治10年10月9日>コレラ流行(りゅうこう)のため、(つた)えることがあるので、医師(いし)はそろって(神奈川県(かながわけん)検疫(けんえき)(がかり)に)()るように。
26 <明治10年10月10日>小学生(しょうがくせい)がコレラにかかったら学校(がっこう)消毒(しょうどく)して、10日間(とうかかん)休校(きゅうこう)にすること。
27 <明治10年10月18日>コレラ予防(よぼう)のため、横浜(よこはま)(こう)から()()りする(とき)検査(けんさ)をする。
28 <明治10年10月22日>コレラ伝染(でんせん)予防(よぼう)のため休校(きゅうこう)となり生徒(せいと)実家(じっか)(かえ)っていた横浜(よこはま)師範(しはん)学校(がっこう)(はじ)まる、という通知(つうち)
29 <明治10年10月22日>コレラ流行(りゅうこう)のため、この(あき)小学校(しょうがっこう)試験(しけん)延期(えんき)していたが、じょじょにとりかかるように、という通知(つうち)
30 <明治10年11月6日>コレラが(ひろ)がっているので(はな)()いの(うえ)予防(よぼう)(ほう)実施(じっし)するから、(あつ)まってほしい。
31 <明治10年11月30日>コレラがおさまってきているので、コレラの消毒(しょうどく)(やく)・のみ(ぐすり)販売(はんばい)(くすり)(つく)る許可を()していた薬屋さんの許可をとりけす。
32 <明治10年11月30日>(うえ)(おな)
33 <明治10年11月30日>コレラがおさまってきているので検査(けんさ)(がかり)はとりやめる、という通知(つうち)
34 <明治10年11月30日>コレラがおさまってきているので、(ふね)荷物(にもつ)(ひと)点検(てんけん)(およ)(くすり)(つく)()ることをとりやめる、の通知(つうち)
35 <明治11年5月14日>千葉県(ちばけん)上総国(かずさのくに)天羽郡(あまばぐん)(みなと)(むら)でコレラ発生(はっせい)注意(ちゅうい)予防(よぼう)するように。
36 <明治12年8月5日>コレラ患者(かんじゃ)自分(じぶん)(いえ)治療(ちりょう)をする場合(ばあい)心得(こころえ)
37 <明治12年8月30日>コレラ流行(りゅうこう)につき、治療(ちりょう)予防(よぼう)注意(ちゅうい)

残念!
明治(めいじ)10年でこれだけ通知(つうち)がでていると、その10(ばい)以上(いじょう)のコレラ患者(かんじゃ)()した明治(めいじ)19(ねん)はもっと…と(おも)うけど、資料(しりょう)(のこ)っていない。

コレラが東京(とうきょう)(のこ)したものは…

1.大切(たいせつ)玉川(たまがわ)上水(じょうすい)
 玉川(たまがわ)上水(じょうすい)承応(じょうおう)3(1654)(ねん)完成(かんせい)以来(いらい)江戸(えど)人々(ひとびと)()(みず)(おく)りつづけて()た。
 明治(めいじ)3(1870)(ねん)(ゆる)された玉川(たまがわ)上水(じょうすい)通船(つうせん)がわずか2(ねん)でとりやめになった理由(りゆう)は、(ふね)(とお)ると大事(だいじ)上水(じょうすい)(みず)(よご)れる、というものだった。

2.水道(すいどう)木製(もくせい)
 江戸(えど)時代(じだい)から水道(すいどう)(とい)()でできていた。安政(あんせい)のコレラ騒動(そうどう)(とき)、くさりかけた()(とい)水道(すいどう)()衛生(えいせい)にしている、病気(びょうき)流行(りゅうこう)をまねいている、とすでに気付(きづ)かれていた。(なん)とかしなければと(おも)っていたのだけれど(とき)幕末(ばくまつ)黒船(くろふね)()て、()(なか)不安定(ふあんてい)だったところ。(なん)とかしたくても()()せなかった。()(とい)はそのまま明治(めいじ)時代(じだい)()()がれた。

3.玉川(たまがわ)上水(じょうすい)調査(ちょうさ)
 明治(めいじ)(はじ)め、(おこな)われた玉川(たまがわ)上水(じょうすい)調査(ちょうさ)内容(ないよう)はひどいものだった。川辺(かわべ)(みち)より(ひく)いところは、(あめ)()ると(よご)れた(みず)、くさった(もの)(うし)(うま)(いぬ)(ねこ)のフンなどがことごとく上水(じょうすい)(なが)れこんでしまう。()()(えだ)薬草(やくそう)(いぬ)(ねこ)()がい、(とき)として人間(にんげん)死体(したい)まで(なが)れてくるというのだ。
 この調査(ちょうさ)をした奥村(おくむら)(のぼる)という(ひと)明治(めいじ)7(ねん)7(がつ)(とき)警視(けいし)あてに報告書(ほうこくしょ)をそえて意見(いけん)提出(ていしゅつ)している。
 「くさった(みず)(なん)長寿(ちょうじゅ)(たも)ち、健康(けんこう)(まも)るだろう。西洋(せいよう)にならって水道(すいどう)()(とい)から(てつ)(くだ)にかえるべきだ」と。

4.東京(とうきょう)()(ねが)
 明治(めいじ)6(1873)(ねん)東京(とうきょう)()(くに)に「沿岸(えんがん)諸村(しょそん)編入(へんにゅう)(ねがい)」というのを()している。そのころ玉川(たまがわ)上水(じょうすい)東京(とうきょう)()神奈川県(かながわけん)入間県(いるまけん)(というのがあったんだ)の1()2(けん)にまたがっていた。大事(だいじ)なのみ(みず)(とお)(みち)がこれでは管理(かんり)しにくい。玉川(たまがわ)上水(じょうすい)沿岸(えんがん)東京(とうきょう)()がまとめて管理(かんり)したい、というものだった。この(ねが)いはききとどけられなかった。

5.ファン・ドールンの意見書(いけんしょ)
 明治(めいじ)7(1874)(ねん)政府(せいふ)から命令(めいれい)()けたオランダ(じん)技師(ぎし)ファン・ドールンは東京(とうきょう)水道(すいどう)()くするための調査(ちょうさ)をおこなった。結果(けっか)を7(がつ)(すえ)提出(ていしゅつ)された意見書(いけんしょ)はこう()っている。
 「東京(とうきょう)はのみ(みず)不潔(ふけつ)火災(かさい)だとか、(かぜ)()ぶチリやホコリに人々(ひとびと)(くる)しんでいる。こういう都会(とかい)では()水道(すいどう)必要(ひつよう)なのは(かんが)えるまでもないことだ。」

6.上水(じょうすい)(よご)すな!
 のみ(みず)清潔(せいけつ)にしなければいけない、と(だれ)もが(おも)ってはいた。けれど時代(じだい)江戸(えど)から明治(めいじ)にかわったばかり。水道(すいどう)(てつ)(くだ)にしたくともお(かね)()りない。
 とりあえず上水(じょうすい)(よご)さないようにしようと明治(めいじ)11(1878)(ねん)11(がつ)29(にち)玉川(たまがわ)神田(かんだ)(りょう)上水(じょうすい)の「水源(すいげん)(かり)取締(とりしまり)規則(きそく)」が(つく)られた。
 上水(じょうすい)(およ)いだり、(もの)(あら)ったりしない。ごみや(よご)れたものを()()てない。(よご)れた(みず)がはいらないよう注意(ちゅうい)(つつみ)()(くさ)をみだりに()らない。など、()められた。

え、わたし? 7.コレラ患者(かんじゃ)(よご)(もの)(せん)たくしちゃった!事件(じけん)
 とにかく水道(すいどう)()くしなくちゃ、とみんなが(おも)っていたその当時(とうじ)明治(めいじ)19(1886)(ねん)、コレラの大流行(だいりゅうこう)をむかえる。東京(とうきょう)のコレラによる死者(ししゃ)は1(にち)300(にん)以上(いじょう)。このありさまに、さらに東京(とうきょう)()とその住民(じゅうみん)をふるえあがらせるニュースが(なが)れた。コレラまっさかりの8(がつ)神奈川県(かながわけん)西(にし)多摩郡(たまぐん)長淵村(ながぶちむら)(いま)青梅市(おうめし))でコレラ患者(かんじゃ)(よご)(もの)多摩川(たまがわ)(せん)たくしちゃった、という。みんなののみ(みず)玉川(たまがわ)上水(じょうすい)多摩川(たまがわ)から()いているんだ。コレラに汚染(おせん)していたら大変(たいへん)だ。(いのち)にかかわる問題(もんだい)だ。
 (あと)(せん)たくした場所(ばしょ)本流(ほんりゅう)ではない、とわかったけれど、この事件(じけん)は、みんなの水道(すいどう)への関心(かんしん)をさらに()()げた。
 玉川(たまがわ)上水(じょうすい)(みず)皇居(こうきょ)にもはいっていたから、宮内省(くないしょう)内務省(ないむしょう)厳重(げんじゅう)()()まりを(もう)()れた。

8.改良(かいりょう)水道(すいどう)
 明治(めいじ)21(1888)(ねん)8(がつ)内務省(ないむしょう)(もう)けられた「東京(とうきょう)市区(しく)改正(かいせい)委員会(いいんかい)」は上水(じょうすい)改良(かいりょう)のための調査(ちょうさ)(いそ)いでおこなうことをとり()めた。
 イギリス(じん)技師(ぎし)バルトンらが調査(ちょうさ)をおこない、明治(めいじ)23(1890)(ねん)4(がつ)には改良(かいりょう)水道(すいどう)玉川(たまがわ)上水(じょうすい)にするという(あん)をまとめ、内務(ないむ)大臣(だいじん)提出(ていしゅつ)。その(とし)の7(がつ)5日(いつか)にはその(あん)(みと)められた。
 明治(めいじ)26(1893)(ねん)10(がつ)22(にち)淀橋(よどばし)浄水場(じょうすいじょう)(いま)新宿区(しんじゅくく))で水道(すいどう)工事(こうじ)起工式(きこうしき)がおこなわれる。(おも)えば(なが)(みち)のりだった?

水っていのちなんだな

参考(さんこう)にした(ほん)

「日本コレラ史」
「虎列刺豫防諭解」
「宮崎家(神明宮)文書3」
「都史紀要15 水道問題と三多摩編入」
「ちょっと昔」
「東京百年史・別巻」
「神奈川県史・別編」
「小平事始め年表・索引(稿)」
「平凡社大百科事典」
「江戸・東京学事典」
「小平町誌」はじめ、各市町村史
「江戸から東京へ」
「小平医師会史」
「病気の社会史」
「御用留内容目録2(廻り田新田)」
「東京都水道史」

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