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20. 風雲(ふううん)新選組(しんせんぐみ)

多摩(たま)から()まれた新選組(しんせんぐみ)

近藤勇・土方歳三

多摩(たま)天領(てんりょう)将軍(しょうぐん)領地(りょうち))で、天保(てんぽう)6(1835)(ねん)5(がつ)小川村(おがわむら)支配地(しはいち)になったのをはじめとして、次第(しだい)小平(こだいら)大半(たいはん)村々(むらむら)江川太郎(えがわたろう)左衛門(ざえもん)英竜(ひでたつ)(おさ)める土地(とち)となる。英竜(ひでたつ)開国(かいこく)をせまられる日本(にっぽん)(ひろ)知識(ちしき)()って(まも)ろうと(かんが)えた(ひと)だった。英竜(ひでたつ)農兵(のうへい)制度(せいど)提案(ていあん)した(とき)幕府(ばくふ)では農民(のうみん)武器(ぶき)(あた)えることは危険(きけん)だという意見(いけん)があった。それに(たい)し、英竜(ひでたつ)は「多摩(たま)地方(ちほう)はそんな心配(しんぱい)はない。」と(こた)えている。そして、多摩(たま)各地(かくち)農兵隊(のうへいたい)組織(そしき)され、日野(ひの)農兵隊(のうへいたい)小野路(おのじ)農兵隊(のうへいたい)など、自分(じぶん)地域(ちいき)(まも)るために(かつ)やくしている。小平(こだいら)村々(むらむら)田無(たなし)農兵隊(のうへいたい)として武州(ぶしゅう)一揆(いっき)制圧(せいあつ)している。
だいたい多摩(たま)武蔵(むさし)武士(ぶし)(かつ)やくした土地(とち)で、後北条(ごほうじょう)武田(たけだ)家来(けらい)であった(ひと)()みついて農民(のうみん)になっていたり、ふだん農業(のうぎょう)をしながら、いざという(とき)武士(ぶし)として(かつ)やくする八王子(はちおうじ)千人同心(せんにんどうしん)という(ひと)たちがいる土地柄(とちがら)だ。さらに幕末(ばくまつ)になって()(なか)()()かなくなってくると、名主(なぬし)など(ゆた)かな農民(のうみん)たちは、自衛(じえい)護身(ごしん)のために武術(ぶじゅつ)()につける(もの)がめずらしくなかった。
天然理心流(てんねんりしんりゅう)という武術(ぶじゅつ)流派(りゅうは)は、多摩(たま)一帯(いったい)のこうした人々(ひとびと)(あいだ)(ひろ)まった。近藤勇(こんどういさみ)はその4代目(だいめ)跡取(あとと)りであり、土方(ひじかた)歳三(としぞう)井上(いのうえ)源三郎(げんざぶろう)らは門下生(もんかせい)だ。そして多摩(たま)()まれ、(そだ)った(おとこ)たちだ。
名主(なぬし)たちが自分(じぶん)(いえ)(つく)った道場(どうじょう)近藤(こんどう)らは、小石川(こいしかわ)試衛館(しえいかん)から()げいこに(かよ)っていた。
幕府(ばくふ)が、世情(せじょう)不安(ふあん)(きょう)にのぼる将軍(しょうぐん)家茂を護衛(ごえい)する目的(もくろく)浪士(ろうし)募集(ぼしゅう)した(とき)近藤(こんどう)たちはすぐさま、それに(おう)じた。
(きょう)にのぼった浪士(ろうし)集団(しゅうだん)は「新選組(しんせんぐみ)」となり、やがて歴史(れきし)()(のこ)組織(そしき)として(うご)()すのである。

近藤(こんどう) (いさみ)(1834~1868)
近藤勇 上石原村(かみいしはらむら)(いま)調布市(ちょうふし))の(ゆた)かな農家(のうか)宮川家(みやかわけ)三男(さんなん)として()まれる。1848(嘉永(かえい)(がん)(ねん)天然理心流(てんねんりしんりゅう)3代目(だいめ)近藤(こんどう)周助邦武(しゅうすけくにたけ)入門(にゅうもん)才能(さいのう)(みと)められ養子(ようし)となって4代目(だいめ)をつぐ。()げいこで、多摩(たま)村々(むらむら)(ある)きまわり、(とく)日野(ひの)名主(なぬし)佐藤(さとう)彦五郎(ひこごろう)小野路(おのじ)(いま)町田市(まちだし))の名主(なぬし)小島(こじま)鹿之助(しかのすけ)為政(ためまさ))とは(なか)()かった。
(くち)(おお)きい、(まゆ)のせまった(かお)つきだがにこにこすると両方(りょうほう)のほっぺたにえくぼがあいて、やさしい、いいところがあったと()う。

土方歳三 土方(ひじかた) 歳三(としぞう)義豊(よしとよ))(1835~1869)
石田村(いしだむら)(いま)日野(ひの)市)の()まれ。やはり(おお)きな農家(のうか)の五(にん)兄弟(きょうだい)(すえ)()嘉永(かえい)のころ、(あね)の「のぶ」がとついだ佐藤(さとう)彦五郎(ひこごろう)道場(どうじょう)剣術(けんじゅつ)(まな)び、近藤(こんどう)(した)しくなった。俳句(はいく)(つく)り「豊玉集(ほうぎょくしゅう)」という句集(くしゅう)(のこ)している。

佐藤(さとう) 彦五郎(ひこごろう)(1828~1902)
わずか11(さい)(いえ)をつぎ、日野(ひの)宿(じゅく)名主(なぬし)となる。1850(嘉永(かえい)3)(ねん)ごろから近藤(こんどう)周助(しゅうすけ)弟子(でし)になった。
1854(安政(あんせい)(がん)(ねん)品川(しながわ)大砲台(たいほうだい)建設(けんせつ)寄付(きふ)をしたり、1862(文久(ぶんきゅう)2)(ねん)のコレラ流行(りゅうこう)には(くすり)寄付(きふ)したり、日野(ひの)農兵隊(のうへいたい)指揮(しき)して、日野(ひの)宿(じゅく)武州(ぶしゅう)一揆(いっき)から(まも)ったり、代官(だいかん)江川太郎(えがわたろう)左衛門(ざえもん)から、そのがんばりぶりをほめられている。
近藤(こんどう)たちが京都(きょうと)新選組(しんせんぐみ)(つく)ってからは、お(かね)(おく)ったり、江戸(えど)多摩(たま)(のこ)った隊士(たいし)家族(かぞく)面倒(めんどう)をみたりした。

小島(こじま) 鹿之助(しかのすけ)(1831~1900)
小島(こじま)()小野路(おのじ)(むら)(いま)町田市(まちだし))の旧家(きゅうか)鹿之助(しかのすけ)為政(ためまさ))はその20代目(だいめ)。18(さい)名主(なぬし)となる。やはり天然理心流(てんねんりしんりゅう)(まな)び、佐藤(さとう)とならんで近藤勇(こんどういさみ)たちの(こころ)からの協力者(きょうりょくしゃ)だった。
小島(こじま)()には(いま)も、新選組(しんせんぐみ)人々(ひとびと)から(おく)られてきた手紙(てがみ)(のこ)っている。

井上(いのうえ) 源三郎(げんざぶろう)(? 1868(ねん)戦死(せんし)した(とき)40(さい)だったというが…)
(あに)松五郎(まつごろう)や、土方(ひじかた)とともに、佐藤(さとう)()道場(どうじょう)天然理心流(てんねんりしんりゅう)(まな)ぶ。松五郎(まつごろう)千人同心(せんにんどうしん)としてつとめた(ひと)源三郎(げんざぶろう)は、近藤(こんどう)土方(ひじかた)とともに(きょう)にのぼり、新選組(しんせんぐみ)(ばん)隊長(たいちょう)としてかつやく。(ひと)のよい、無口(むくち)人物(じんぶつ)だったという。

天然理心流(てんねんりしんりゅう)試衛館(しえいかん)
天然理心流(てんねんりしんりゅう)遠江(とおとうみ)(ひと)近藤(こんどう)内蔵之助(くらのすけ)長裕(ながみち)(はじ)めとする武術(ぶじゅつ)。2代目(だいめ)加住(かすみ)(むら)戸吹(とぶき)(いま)八王子(はちおうじ))の出身(しゅっしん)三助(さんすけ)方昌(のりゆき)がつぎ、3代目(だいめ)小山(おやま)(いま)町田市(まちだし)出身(しゅっしん)周助邦武(しゅうすけくにたけ)がついだ。多摩(たま)中心(ちゅうしん)(そだ)った実戦(じっせん)()きの流派(りゅうは)だ。
道場(どうじょう)()を「試衛館(しえいかん)」といい、小石川(こいしかわ)柳町(やなぎちょう)(いま)文京区(ぶんきょうく)。かなり新宿(しんじゅく)よりの場所(ばしょ)だ)にあった。
近藤(こんどう)たちは多摩(たま)村々(むらむら)へ、ここから()げいこに(かよ)った。

試衛館(しえいかん)のかおぶれ

沖田(おきた)総司(そうじ) 奥州(おうしゅう)白河藩(しらかわはん)脱藩(だっぱん)
試衛館(しえいかん)時代(じだい)20才(はたち)そこそこであったが、(けん)(うで)天才的(てんさいてき)()われた。けいこは(あら)っぽく「(てき)(かたな)()るな。からだで()れ。」と(おし)えたという。
()(たか)く、(かた)はあがり気味(ぎみ)。ほお(ぼね)(たか)く、(くち)(おお)きく、色黒(いろぐろ)であいきょう(もの)だった。京都(きょうと)でも、近所(きんじょ)()どもたちと(おに)ごっこをしたり、冗談(じょうだん)()ってばかりだったという。
永倉(ながくら)新八(しんぱち) 松前藩(まつまえはん)脱藩(だっぱん)
(うで)神道(しんとう)無念流(むねんりゅう)
原田左之助 伊予(いよ)松山藩(まつやまはん)脱藩(だっぱん)
種田(たねだ)宝蔵院流(ほうぞういんりゅう)(やり)のつかい()
山南(やまなみ)敬助(けいすけ) 仙台藩(せんだいはん)脱藩(だっぱん)
千葉(ちば)周作(しゅうさく)道場(どうじょう)で、北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)免許(めんきょ)をもらっている。色白(いろじろ)のあいきょう(がお)学問(がくもん)もあるし、(けん)もよく使(つか)い、()ども()きだったという。
藤堂(とうどう)平助(へいすけ)
(おな)じく、北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)目録(もくろく)をもらっている。

幕末(ばくまつ)年表(ねんぴょう)

幕末年表
できごと
1853(嘉永(かえい)6)
  • 6月3日 ペリー、軍艦(ぐんかん)4(せき)をひきいて、浦賀(うらが)来航(らいこう)
1854(安政(あんせい)(がん)
  • 3月3日 日米(にちべい)和親(わしん)条約(じょうやく)をむすぶ。
1858(安政(あんせい)5)
  • 4月23日 井伊(いい)直弼(なおすけ)大老(たいろう)となる。
  • 6月19日 井伊(いい)大老(たいろう)天皇(てんのう)(ゆる)しを()ぬまま日米(にちべい)修好通商(しゅうこうつうしょう)条約(じょうやく)をむすぶ。
  • 9月ごろより、安政(あんせい)大獄(たいごく)はじまる。
  • 10月25日 徳川(とくがわ)家茂(いえもち)(だい)15(だい)将軍(しょうぐん)となる。
この(とし)、コレラ流行(りゅうこう)
1860(万延(まんえん)(がん)
  • 3月3日 桜田門外(さくらだもんがい)(へん)水戸(みと)藩士(はんし)ら18(にん)江戸城(えどじょう)桜田門外(さくらだもんがい)井伊(いい)大老(たいろう)暗殺(あんさつ)
  • 11月1日 皇女(こうじょ)和宮(かずのみや)徳川(とくがわ)家茂(いえもち)結婚(けっこん)すると発表(はっぴょう)される。
1862(文久(ぶんきゅう)2)
  • 1月5日 坂下門外(さかしたもんがい)(へん)家茂(いえもち)和宮(かずのみや)縁談(えんだん)をすすめた老中(ろうじゅう)安藤(あんどう)信正(のぶまさ)江戸城(えどじょう)坂下門外(さかしたもんがい)水戸(みと)浪士(ろうし)らにおそわれ、ケガをする。
  • 2月11日 家茂(いえもち)和宮(かずのみや)結婚(けっこん)
  • 8月21日 生麦事件(なまむぎじけん)武蔵国(むさしのくに)生麦村(なまむぎむら)(いま)神奈川県(かながわけん))で薩摩藩(さつまはん)行列(ぎょうれつ)(みだ)したのを理由(りゆう)にイギリス商人(しょうにん)(ころ)される。
  • ・うるう8月1日 会津(あいづ)藩主(はんしゅ)松平(まつだいら)容保(かたもり)京都(きょうと)守護職(しゅごしょく)となる。
    この(とし)より、尊王(そんのう)攘夷(じょうい)運動(うんどう)(たか)まる。
1863(文久(ぶんきゅう)3)
  • 2月23日 清河(きよかわ)八郎(はちろう)ひきいる浪士(ろうし)(ぐみ)京都(きょうと)壬生村(みぶむら)到着(とうちゃく)する。
  • 3月4日 将軍(しょうぐん)家茂(いえもち)家光(いえみつ)以来(いらい)229(ねん)ぶりに(きょう)二条城(にじょうじょう)へはいる。
  • 3月13日 居残(いのこ)った近藤勇(こんどういさみ)芹沢(せりざわ)(かも)京都(きょうと)守護職(しゅごしょく)おあずかりとなる。
  • 5月10日 長州藩(ちょうしゅうはん)下関(しものせき)海峡(かいきょう)(とお)るアメリカ商船(しょうせん)攻撃(こうげき)
  • 7月2~4日 薩英(さつえい)戦争(せんそう)おこなわれる。
  • 8月18日 8・18政変(せいへん)(クーデター)おこる。
会津藩(あいづはん)薩摩藩(さつまはん)()()んで、尊王(そんのう)攘夷(じょうい)()長州藩(ちょうしゅうはん)京都(きょうと)から()()す。
1864(元治(げんじ)(がん)
  • 6月5日 池田屋(いけだや)騒動(そうどう)新選組(しんせんぐみ)京都(きょうと)三条(さんじょう)小橋(こばし)池田屋(いけだや)(あつ)まっていた長州(ちょうしゅう)藩士(はんし)らと(たたか)う。
  • 7月19日 蛤御門(はまぐりごもん)(へん)(または禁門(きんもん)(へん))。池田屋(いけだや)事件(じけん)をきっかけに、長州藩(ちょうしゅうはん)(たい)会津(あいづ)薩摩藩(さつまはん)(たたか)い、おこる。新選組(しんせんぐみ)出陣(しゅつじん)
  • 8月2日 幕府(ばくふ)諸藩(しょはん)(だい)1()長州(ちょうしゅう)征伐(せいばつ)出陣(しゅつじん)(めい)じる。
  • 8月5~14日 アメリカ・フランス・イギリス・オランダの4か(こく)連合(れんごう)艦隊(かんたい)長州藩(ちょうしゅうはん)(たたか)う。(下関(しものせき)戦争(せんそう)
1865(慶応(けいおう)(がん)
  • 4月19日 幕府(ばくふ)(だい)2()長州(ちょうしゅう)征伐(せいばつ)(めい)じる。
1866(慶応(けいおう)2)
  • 1月21日 薩長(さっちょう)同盟(どうめい)成立(せいりつ)
  • 6月7日 幕府(ばくふ)軍艦(ぐんかん)長州(ちょうしゅう)征伐(せいばつ)開始(かいし)戦闘(せんとう)(はじ)まると長州藩(ちょうしゅうはん)連勝(れんしょう)。((だい)2()長州(ちょうしゅう)征伐(せいばつ)
  • 7月20日 家茂(いえもち)大坂城(おおさかじょう)病死(びょうし)
  • 12月5日 一橋(ひとつばし)慶喜(よしのぶ)(だい)15(だい)将軍(しょうぐん)となる。
  • 12月25日 孝明(こうめい)天皇(てんのう)崩御(ほうぎょ)()くなる)。
この(とし)世直(よなお)一揆(いっき)(もっと)もはげしくなる。
1867(慶応(けいおう)3)
  • 1月 日 明治(めいじ)天皇(てんのう)即位(そくい)
  • 10月15日 将軍(しょうぐん)慶喜(よしのぶ)大政奉還(たいせいほうかん)
  • 11月15日 坂本龍馬(さかもとりょうま)中岡(なかおか)慎太郎(しんたろう)京都(きょうと)近江屋(おうみや)暗殺(あんさつ)される。
  • 12月9日 王政(おうせい)復古(ふっこ)大号令(だいごうれい)
この(とし)、8(がつ)以降(いこう)、「ええじゃないか」のさわぎ、(ひろ)がる。
1868(慶応(けいおう)4・明治(めいじ)(がん)
  • 1月3日 鳥羽(とば)伏見(ふしみ)(たたか)い。(戊辰(ぼしん)戦争(せんそう)はじまり)
  • 1月12日 新選組(しんせんぐみ)江戸(えど)にはいる。
  • 3月1日 甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)甲府(こうふ)へむかう。
  • 3月6日 勝沼(かつぬま)戦争(せんそう)
  • 4月1日 近藤勇(こんどういさみ)流山(ながれやま)降伏(こうふく)
  • 4月11日 江戸城(えどじょう)無血(むけつ)開城(かいじょう)
  • 4月25日 近藤勇(こんどういさみ)板橋宿(いたばしじゅく)刑死(けいし)
  • 5月15日 上野(うえの)戦争(せんそう)彰義隊(しょうぎたい)(やぶ)れる。
  • 9月22日 会津藩(あいづはん)降伏(こうふく)
  • 10月 (きゅう)幕府(ばくふ)海軍(かいぐん)榎本(えのもと)武揚(たけあき)ら、軍艦(ぐんかん)北海道(ほっかいどう)へ。箱館(はこだて)五稜郭(ごりょうかく)をねじろに新政府(しんせいふ)対抗(たいこう)する。
1869(明治(めいじ)2)
  • 3月ころより 新政府軍(しんせいふぐん)(りく)(うみ)から大軍(たいぐん)をもって五稜郭(ごりょうかく)攻撃(こうげき)
  • 5月11日 土方(ひじかた)歳三(としぞう)戦死(せんし)
  • 5月17日 榎本(えのもと)武揚(たけあき)降伏(こうふく)
戊辰(ぼしん)戦争(せんそう)、おわる。

幕末(ばくまつ)日本(にっぽん)

黒船来航から幕府の滅亡までわずか15年!

日本(にっぽん)開国(かいこく)
1853(嘉永(かえい)6)(ねん)6(がつ)3日(みっか)、ペリー来日(らいにち)開国(かいこく)をせまる。この(とき)から日本(にっぽん)(おお)さわぎがはじまる。
(とき)孝明(こうめい)天皇(てんのう)は、(つよ)攘夷(じょうい)論者(ろんしゃ)。しかも幕府(ばくふ)(ない)では将軍(しょうぐん)のあとつぎをめぐり、紀州(きしゅう)徳川(とくがわ)慶福(よしとみ)(のちの家茂(いえもち))と(ぜん)水戸(みと)藩主(はんしゅ)徳川(とくがわ)斉昭(なりあき)()一橋(ひとつばし)慶喜(よしのぶ)候補(こうほ)にあがってもめている。
この混乱(こんらん)(なか)、1858(安政(あんせい)5)(ねん)4(がつ)彦根(ひこね)藩主(はんしゅ)(今の滋賀県)井伊(いい)直弼(なおすけ)大老(たいろう)となった。その(とし)の6(がつ)19(にち)には、天皇(てんのう)(ゆる)しを()ぬまま、日米(にちべい)修好通商(しゅうこうつうしょう)条約(じょうやく)をむすぶ。(おな)(つき)の25(にち)には、(つぎ)将軍(しょうぐん)慶福(よしとみ)決定(けってい)()(かさ)なる問題(もんだい)井伊(いい)大老(たいろう)はパッパッパッと(かた)づけてしまった。
しかし、攘夷(じょうい)論者(ろんしゃ)や、慶喜(よしのぶ)支持(しじ)していた人々(ひとびと)は、天皇(てんのう)(ゆる)しを()ない条約(じょうやく)()めた。井伊(いい)大老(たいろう)は、自分(じぶん)反対(はんたい)する大名(だいみょう)公家(くげ)(おお)くの志士(しし)たちをきびしく(ばっ)した。これが安政(あんせい)大獄(たいごく)だ。
1860(万延(まんえん)(がん)(ねん)3(がつ)3日(みっか)(ゆき)()りしきる(なか)井伊(いい)大老(たいろう)桜田門外(さくらだもんがい)暗殺(あんさつ)された。
かりにも幕府(ばくふ)大老(たいろう)という(おも)地位(ちい)にある(もの)が、日中(にっちゅう)(みち)ばたで()ちとられてしまうとは…。
この事件(じけん)は、幕府(ばくふ)(ちから)(おとろ)えてきた証拠(しょうこ)でもあった。

尊王(そんのう)攘夷(じょうい)
開国(かいこく)によって、尊王(そんのう)攘夷(じょうい)運動(うんどう)(さか)んになった。外国(がいこく)との貿易(ぼうえき)日本(にっぽん)国内(こくない)経済(けいざい)(だい)混乱(こんらん)輸出(ゆしゅつ)のため、国内(こくない)では品不足(しなぶそく)がつづき、物価(ぶっか)はあがる。一部(いちぶ)商人(しょうにん)をのぞいて、みんなのくらしは(くる)しくなった。幕府(ばくふ)反対(はんたい)する気持(きも)ちはつのり、「尊王(そんのう)」「攘夷(じょうい)」の(かんが)えをもつ、志士(しし)たちが京都(きょうと)中心(ちゅうしん)(かつ)やくしはじめた。文久(ぶんきゅう)のころになると尊王(そんのう)攘夷(じょうい)()人々(ひとびと)(なか)から「王政(おうせい)復古(ふっこ)」、つまり幕府(ばくふ)(たお)して、天皇(てんのう)中心(ちゅうしん)政府(せいふ)(つく)ろう、という(こえ)があがってくる。長州藩(ちょうしゅうはん)はその中心(ちゅうしん)(ちゅう)下級(かきゅう)武士(ぶし)たちが行動(こうどう)をおこした。尊王(そんのう)攘夷(じょうい)()(ひと)たちは(きょう)(まち)で「天誅(てんちゅう)」((てん)にかわって(つみ)ある(もの)()つ)として、暗殺(あんさつ)をおこないはじめた。
これに(たい)し、幕府(ばくふ)は、1862(文久(ぶんきゅう)2)(ねん)うるう8(がつ)に、会津(あいづ)28万石(まんごく)藩主(はんしゅ)松平(まつだいら)容保(かたもり)京都(きょうと)守護職(しゅごしょく)任命(にんめい)攘夷(じょうい)()対抗(たいこう)して、京都(きょうと)警備(けいび)にあたらせた。

「尊王」は天皇をうやまい、(とうと)ぶ考え方。「攘夷」は外国とつき合うことに反対し、追いはらおうという考えかた。この2つはもとは別々のものの考え方なんだけれど、幕末になると結びついて、幕府に反対する人たちの合い言葉のようになった。そして幕府を倒し、かわって天皇中心の政権をつくろう、という考え方にすすんでいく。

外国(がいこく)戦争(せんそう)をした(はん)
1863(文久(ぶんきゅう)3)(ねん)5(がつ)10日。長州藩(ちょうしゅうはん)下関(しものせき)海峡(かいきょう)(とお)るアメリカ商船(しょうせん)攻撃(こうげき)攘夷(じょうい)実行(じっこう)しはじめた。
また、この(とし)7(がつ)2日(ふつか)4日(よっか)には、薩摩藩(さつまはん)がイギリスから、(まえ)(とし)8(がつ)15(にち)におこった生麦事件(なまむぎじけん)のしかえしを()け、鹿児島湾(かごしまわん)(たたか)っている。
長州藩(ちょうしゅうはん)も、よく1864(文久(ぶんきゅう)4)(ねん)、8(がつ)5日(いつか)には下関(しものせき)海峡(かいきょう)でも外国船(がいこくせん)攻撃(こうげき)のしかえしを、イギリス・アメリカ・フランス・オランダの連合(れんごう)艦隊(かんたい)から()けた。
結果(けっか)薩摩(さつま)長州(ちょうしゅう)は、外国(がいこく)軍事力(ぐんじりょく)()をもって()り、ただ「攘夷(じょうい)」を(さけ)ぶのではなく、外国(がいこく)から(まな)びとらねばならないものがあることに()づいていった。

動乱(どうらん)京都(きょうと)
この時期(じき)天皇(てんのう)のいる京都(きょうと)(だれ)権力(けんりょく)()つか、というのはとても大事(だいじ)問題(もんだい)だった。
1863(文久(ぶんきゅう)3)(ねん)8(がつ)18(にち)会津藩(あいづはん)薩摩藩(さつまはん)は、しめし()わせてクーデターをおこし、尊王(そんのう)攘夷(じょうい)中心(ちゅうしん)である長州藩(ちょうしゅうはん)を京都から()()した。
このころから、新選組(しんせんぐみ)京都(きょうと)市中(しちゅう)見廻(みまわ)りも(はじ)まる。
1864(文久(ぶんきゅう)4)(ねん)6(がつ)5日(いつか)池田屋(いけだや)騒動(そうどう)長州藩(ちょうしゅうはん)にしりぞいた攘夷(じょうい)(つよ)主張(しゅちょう)する人々(ひとびと)をいきりたたせ、(きょう)にのぼらせた。
その(とし)、7(がつ)19(にち)会津(あいづ)桑名(くわな)越前(えちぜん)など10あまりの(はん)連合(れんごう)(ぐん)と、長州藩(ちょうしゅうはん)(たたか)い、(やぶ)れた。わずか1(にち)(たたか)いながら、戦火(せんか)ははげしく、(きょう)(まち)3日間(みっかかん)()えつづけた。これを“蛤御門(はまぐりごもん)(へん)”または“禁門(きんもん)(へん)”という。

長州(ちょうしゅう)征伐(せいばつ)
1864(文久(ぶんきゅう)4)(ねん)8(がつ)2日(ふつか)、「蛤御門(はまぐりごもん)(へん)御所(ごしょ)発砲(はっぽう)した長州(ちょうしゅう)()て」と幕府(ばくふ)諸藩(しょはん)命令(めいれい)()した。その(とし)11(がつ)18(にち)には、長州(ちょうしゅう)(そう)攻撃(こうげき)する()はずだったが、この(とき)外国(がいこく)の4か(こく)連合(れんごう)艦隊(かんたい)からも攻撃(こうげき)()けていた長州(ちょうしゅう)は、幕府(ばくふ)(ゆる)しをこうた。その一方(いっぽう)で、知識(ちしき)()近代的(きんだいてき)軍備(ぐんび)をそろえるため、イギリスと(なか)()くなった。
1865(慶応(けいおう)(がん)(ねん)9(がつ)21(にち)(ふたた)長州(ちょうしゅう)征伐(せいばつ)命令(めいれい)(くだ)った。「長州藩(ちょうしゅうはん)がけしからん(くわだ)てをしているから」というのが理由(りゆう)だった。が、はっきりしない理由(りゆう)だし、こんな時期(じき)大軍(たいぐん)(うご)かせば天下(てんか)(みだ)れる、と反対(はんたい)する大名(だいみょう)(おお)かった。
1866(慶応(けいおう)2)(ねん)6(がつ)(だい)2()長州(ちょうしゅう)征伐(せいばつ)開始(かいし)戦争(せんそう)(はじ)まってみると、長州藩(ちょうしゅうはん)()ちつづけ、その最中(さいちゅう)、7(がつ)将軍(しょうぐん)家茂(いえもち)病死(びょうし)。12(がつ)一橋(ひとつばし)慶喜(よしのぶ)将軍(しょうぐん)となり、長州(ちょうしゅう)征伐(せいばつ)()きついだが、退却(たいきゃく)せざるを()なかった。
この(つき)幕府(ばくふ)協力(きょうりょく)()ってゆく方針(ほうしん)だった孝明(こうめい)天皇(てんのう)崩御(ほうぎょ)幕府(ばくふ)権威(けんい)はガタガタになってくる。

百姓(ひゃくしょう)一揆(いっき)・うちこわし・ええじゃないか
(おな)じく文久(ぶんきゅう)ごろから()えはじめた「百姓(ひゃくしょう)一揆(いっき)」「うちこわし」も幕府(ばくふ)(なや)ませる(たね)だった。1866(慶応(けいおう)2)(ねん)5(がつ)11(にち)には大阪(おおさか)で、8(がつ)には兵庫(ひょうご)でうちこわし。江戸(えど)でも5(がつ)28(にち)品川(しながわ)から(はじ)まり、6(がつ)には四谷(よつや)本所(ほんじょ)でうちこわし。6(がつ)7日は川越(かわごえ)(はん)(こめ)値下(ねさ)げを(もと)める世直(よなお)一揆(いっき)。6(がつ)13(にち)秩父郡(ちちぶぐん)名栗(なぐり)(むら)から(はじ)まった武州(ぶしゅう)一揆(いっき)はたちまちのうち武蔵国(むさしのくに)13(ぐん)(ひろ)がった。
さらに、1867(慶応(けいおう)3)(ねん)(あき)から(ふゆ)にかけて「ええじゃないか」という(おど)りが大流行(だいりゅうこう)した。何百(なんびゃく)何千(なんぜん)人々(ひとびと)が、タイコ、(ふえ)()らしながら「ええじゃないか、ええじゃないか」と(さけ)び、(おど)(くる)いながら金持(かねも)ちの(いえ)にあがりこみ、(さけ)やたべものをせびる。そのありさまはうちこわしも(おな)じだ。
「ええじゃないか」は京都(きょうと)大阪(おおさか)中心(ちゅうしん)に、神戸(こうべ)横浜(よこはま)江戸(えど)甲府(こうふ)会津(あいづ)まで(ひろ)がった。「うちこわし」なら数日(すうじつ)だが「ええじゃないか」は1ヶ(げつ)以上(いじょう)(つづ)く。(おも)だった都市(とし)(はたら)きはマヒしてしまい、幕府(ばくふ)はどうすることもできなかった。

百姓(ひゃくしょう)一揆(いっき)
農民(のうみん)領主(りょうしゅ)(たい)しておこす闘争(とうそう)年貢(ねんぐ)()らしてもらうこと、や代官(だいかん)をかえてもらうことなど目標(もくひょう)をあげておこなわれることが(おお)い。

「うちこわし」
都市(とし)(だい)商人(しょうにん)とか(むら)金持(かねも)ちなどをおそって、(いえ)道具(どうぐ)をこわし、食料(しょくりょう)など品物(しなもの)安売(やすう)りを約束(やくそく)させたりする。ききんと物価(ぶっか)値上(ねあ)がりなどが原因(げんいん)

「ええじゃないか」
幕府(ばくふ)をこまらせるため、倒幕(とうばく)()がしかけたという(せつ)もあるが、もともとあった伊勢(いせ)神宮(じんぐう)への「おかげまいり」の信仰(しんこう)(だい)ばくはつしたともいわれ、原因(げんいん)ははっきりしない。

薩長(さっちょう)軍事(ぐんじ)同盟(どうめい)
土佐(とさ)(はん)出身(しゅっしん)浪人(ろうにん)坂本龍馬(さかもとりょうま)中岡(なかおか)慎太郎(しんたろう)は、1865(慶応(けいおう)(がん)(ねん)の1年間(ねんかん)を、薩摩藩(さつまはん)長州藩(ちょうしゅうはん)(なか)なおりのため、かけずりまわっていた。文久(ぶんきゅう)3(ねん)以来(いらい)、「蛤御門(はまぐりごもん)(へん)」や(だい)1()長州(ちょうしゅう)征伐(せいばつ)など、長州(ちょうしゅう)薩摩(さつま)にひどい()()わされて()(うら)みがある。だから(なか)(わる)かった。
しかし、日本(にっぽん)を一つにまとめるためには、薩摩藩(さつまはん)長州藩(ちょうしゅうはん)協力(きょうりょく)がどうしても必要(ひつよう)だ。
1866(慶応(けいおう)2)(ねん)1(がつ)22(にち)龍馬(りょうま)慎太郎(しんたろう)努力(どりょく)(みの)った。薩摩(さつま)西郷(さいごう)隆盛(たかもり)長州(ちょうしゅう)(かつら)小五郎(こごろう)(はな)()い、王政(おうせい)復古(ふっこ)のため協力(きょうりょく)()うことを約束(やくそく)。ニ(はん)軍事(ぐんじ)同盟(どうめい)成立(せいりつ)した。
さらに1867(慶応(けいおう)3)(ねん)10(がつ)には、倒幕(とうばく)()公卿(くぎょう)岩倉具視(いわくらともみ)から、幕府(ばくふ)()(ゆる)しをひそかに()た。

大政奉還(たいせいほうかん)-政権(せいけん)朝廷(ちょうてい)(かえ)す-
1867(慶応(けいおう)3)(ねん)10(がつ)3日(みっか)土佐(とさ)(ぜん)藩主(はんしゅ)山内(やまのうち)豊信(とよしげ)平和(へいわ)(こと)がおさまるよう(ねが)い、幕府(ばくふ)に「大政奉還(たいせいほうかん)」の意見(いけん)(もう)()た。政権(せいけん)朝廷(ちょうてい)(かえ)してしまえば、長州(ちょうしゅう)薩摩(さつま)幕府(ばくふ)(たお)理由(りゆう)はなくなるはずだ。
10(がつ)14()慶喜(よしのぶ)朝廷(ちょうてい)大政奉還(たいせいほうかん)(もう)()て、()()れられた。徳川(とくがわ)勢力(せいりょく)はとりあえず(いま)まで(どお)(のこ)ったが、倒幕(とうばく)()にとっては()()かない。これはいつしかえしされるかわからないあぶない状態(じょうたい)だ。諸藩(しょはん)薩長(さっちょう)につくべきか、幕府(ばくふ)(たす)けるべきか(まよ)っている。おまけに一般(いっぱん)(ひと)たちは「ええじゃないか」(さわ)ぎ。
幕府(ばくふ)勢力(せいりょく)をつぶそう!”倒幕(とうばく)()決心(けっしん)して()()がった。
12(がつ)9日(ここのか)薩摩藩(さつまはん)大久保利通(おおくぼとしみち)西郷(さいごう)隆盛(たかもり)中心(ちゅうしん)に、「王政(おうせい)復古(ふっこ)大号令(だいごうれい)」が(はっ)せられ、新政府(しんせいふ)誕生(たんじょう)宣言(せんげん)された。

戊辰(ぼしん)戦争(せんそう)
幕府(ばくふ)(たた)きつぶすには、まずむこうから攻撃(こうげき)させることだと西郷(さいごう)隆盛(たかもり)はわざと相手(あいて)をおこらせるようしむけた。
1868(慶応(けいおう)4)(ねん)1(がつ)1日(ついたち)、ついに将軍(しょうぐん)慶喜(よしのぶ)(たたか)決心(けっしん)をし、諸藩(しょはん)(へい)(あつ)めるよう連絡(れんらく)した。
会津(あいづ)桑名(くわな)(はん)(へい)()わせ、(きゅう)幕府(ばくふ)(ぐん)は1(まん)5,000(にん)大坂城(おおさかじょう)()ち、鳥羽(とば)伏見(ふしみ)(とお)(みち)すじで京都(きょうと)をめざした。
一方(いっぽう)、1(がつ)3日(みっか)朝廷(ちょうてい)会議(かいぎ)で、薩摩藩(さつまはん)長州藩(ちょうしゅうはん)武力(ぶりょく)解決(かいけつ)すべきだと岩倉具視(いわくらともみ)にせまり、慶喜(よしのぶ)を「朝敵(ちょうてき)」(朝廷(ちょうてい)にさからう(てき))とすることに成功(せいこう)
伏見(ふしみ)長州藩(ちょうしゅうはん)鳥羽(とば)薩摩藩(さつまはん)中心(ちゅうしん)となり、(けい)4,500(にん)(へい)(きゅう)幕府(ばくふ)(ぐん)(むか)えた。
(たたか)いは1(がつ)3日(みっか)午後(ごご)5()ごろ開始(かいし)人数(にんずう)こそ(まさ)ったものの「朝敵(ちょうてき)()つ」という名目(めいもく)()ち、西洋式(せいようしき)軍備(ぐんび)(ととの)えた薩長(さっちょう)(ぐん)(まえ)(きゅう)幕府(ばくふ)(ぐん)(やぶ)れるほかはなかった。
この(たたか)いをはじまりに、日本(にっぽん)は1(ねん)以上(いじょう)つづく「戊辰(ぼしん)戦争(せんそう)」という国内(こくない)戦争(せんそう)にはまりこんでいく。
戦争(せんそう)のはじまった1868(ねん)干支(えと)が「戊辰(つちのえたつ)」なので、こう()われる。

江戸(えど)無血(むけつ)開城(かいじょう)
1868(慶応(けいおう)4)(ねん)1(がつ)7日(なのか)有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)御所(ごしょ)大名(だいみょう)たちを(あつ)め、大政奉還(たいせいほうかん)()ばかりで「鳥羽(とば)伏見(ふしみ)(たたか)い」をおこした慶喜(よしのぶ)()てと命令(めいれい)()した。反対(はんたい)する(もの)(ぜん)土佐(とさ)藩主(はんしゅ)山内(やまのうち)豊信(とよしげ)ただひとり…。
2(がつ)15(にち)薩摩(さつま)長州(ちょうしゅう)土佐(とさ)肥前(ひぜん)芸州(げいしゅう)の5(はん)、5(まん)(にん)(へい)江戸(えど)をめざし進軍(しんぐん)(まよ)っていた(ほか)(はん)も、ほとんど新政府(しんせいふ)(がわ)についた。
慶喜(よしのぶ)はひたすらつつしみ(したが)姿勢(しせい)をとり、(きゅう)幕府(ばくふ)(がわ)陸軍(りくぐん)総裁(そうさい)勝海舟(かつかいしゅう)は3(がつ)13、14(にち)2日間(ふつかかん)西郷(さいごう)隆盛(たかもり)(たたか)いをさけるための(はな)()いをもった。その結果(けっか)江戸城(えどじょう)(たたか)いの()(なが)すことなく、4(がつ)11(にち)(ひら)かれ、江戸(えど)(まち)()(うみ)にならずにすんだ。
が、この降伏(こうふく)不満(ふまん)一部(いちぶ)幕臣(ばくしん)たちは、各地(かくち)戦闘(せんとう)をおこした。
彰義隊(しょうぎたい)上野(うえの)のお(やま)にたてこもり、(きゅう)幕府(ばくふ)海軍(かいぐん)副総裁(ふくそうさい)榎本(えのもと)武揚(たけあき)は、新政府(しんせいふ)軍艦(ぐんかん)をひきわたすことをこばんだ。
4(がつ)11(にち)開陽丸(かいようまる)ら8(せき)をひきいて江戸(えど)脱出(だっしゅつ)した。

北越(ほくえつ)戦争(せんそう)
1868(慶応(けいおう)4)(ねん)うるう4(がつ)19(にち)奥羽(おうう)東北(とうほく)地方(ちほう)25(はん)新政府(しんせいふ)対抗(たいこう)するため同盟(どうめい)(むす)んだ。さらに5(がつ)3日(みっか)には、北陸(ほくりく)地方(ちほう)越後(えちご)長岡(ながおか)(はん)ら6(はん)がこれに(くわ)わった。同盟(どうめい)中心(ちゅうしん)となったのは会津(あいづ)庄内(しょうない)米沢(よねざわ)仙台(せんだい)の4(はん)
新政府軍(しんせいふぐん)江戸(えど)よりさらに北上(ほくじょう)。5(がつ)長岡(ながおか)戦争(せんそう)をはじまりに、8(がつ)23(にち)には会津藩(あいづはん)城下町(じょうかまち)若松(わかまつ)突入(とつにゅう)若松(わかまつ)(じょう)は1(まん)数千(すうせん)(にん)(てき)をひき()け、集中(しゅうちゅう)攻撃(こうげき)された。飯森(いいもり)(やま)にたてこもった白虎隊(びゃっこたい)(16~7(さい)少年(しょうねん)中心(ちゅうしん)会津(あいづ)部隊(ぶたい))は(たが)いに()しちがえ(いのち)()った。
その()東北(とうほく)諸藩(しょはん)はつぎつぎに降伏(こうふく)孤立(こりつ)した会津藩(あいづはん)もひと(つき)(しろ)にたてこもったのち、9(がつ)22(にち)降伏(こうふく)
この(かん)9(がつ)8日、元号(げんごう)は「明治(めいじ)」となり、9(がつ)20日(はつか)明治(めいじ)天皇(てんのう)京都(きょうと)出発(しゅっぱつ)。よく(げつ)東京(とうきょう)(じょう)江戸城(えどじょう)入城(にゅうじょう)東京(とうきょう)首都(しゅと)となる。

箱館(はこだて)戦争(せんそう)
榎本(えのもと)武揚(たけあき)ひきいる軍艦(ぐんかん)も、北越(ほくえつ)戦争(せんそう)応援(おうえん)のため、8(がつ)19(にち)東北(とうほく)()かう。会津(あいづ)落城(らくじょう)ののちは、10(がつ)12(にち)北海道(ほっかいどう)をめざした。同乗(どうじょう)するのはもと老中(ろうじゅう)板倉(いたくら)勝清(かつきよ)小笠原(おがさわら)長行(ながみち)、もと新選組(しんせんぐみ)土方(ひじかた)歳三(としぞう)総勢(そうぜい)2,800(にん)。10(がつ)20日(はつか)北海道(ほっかいどう)上陸(じょうりく)、25(にち)には箱館(はこだて)五稜郭(ごりょうかく)占領(せんりょう)。ここに徳川(とくがわ)一門(いちもん)(むか)え、王国(おうこく)建設(けんせつ)しようと夢見(ゆめみ)た。
しかし、よく1869(明治(めいじ)2)(ねん)3(がつ)から、新政府軍(しんせいふぐん)薩摩(さつま)黒田(くろだ)清隆(きよたか)らが指揮(しき)をとり、(うみ)から(りく)から、大軍(たいぐん)をくり()した。
5(がつ)11(にち)には、箱館(はこだて)(そう)攻撃(こうげき)がはじまり、土方(ひじかた)歳三(としぞう)戦死(せんし)
5(がつ)17(にち)榎本(えのもと)武揚(たけあき)新政府軍(しんせいふぐん)降伏(こうふく)。1(ねん)5ヵ(げつ)にわたる戊辰(ぼしん)戦争(せんそう)はようやく(おわ)った。

幕末(ばくまつ)人々(ひとびと)

井伊直弼 井伊(いい)直弼(なおすけ)(1815~1860)
近江(おうみ)彦根(ひこね)藩主(はんしゅ)から、幕末(ばくまつ)大変(たいへん)時期(じき)幕府(ばくふ)大老(たいろう)となる。将軍(しょうぐん)あとつぎ問題(もんだい)外交(がいこう)問題(もんだい)をいっき解決(かいけつ)反対(はんたい)(しゃ)安政(あんせい)大獄(たいごく)でとりしまり、あげくに桜田門外(さくらだもんがい)暗殺(あんさつ)されてしまった。
「(外国(がいこく)(たたか)って)(やぶ)れ、(くに)一部(いちぶ)をとられる()にあえば、こんな侮辱(ぶじょく)はない。外国(がいこく)(もう)()をことわってそういう()にあうのと、天皇(てんのう)(ゆる)しをまたず条約(じょうやく)をむすんで(くに)をはずかしめないのと、どっちが大事(だいじ)か。(中略(ちゅうりゃく)勝手(かって)条約(じょうやく)(むす)んだ(つみ)自分(じぶん)一人(ひとり)()ける覚悟(かくご)だ。」と井伊(いい)大老(たいろう)(かんが)えていた。
横浜(よこはま)そばの掃部(かもん)(やま)公園(こうえん)には井伊(いい)直弼(なおすけ)(ぞう)がたって、この開港(かいこう)(まち)()つめている。
井伊(いい)直弼(なおすけ)は「掃部守(かもんのかみ)」という役目(やくめ)についていた。)

江川太郎(えがわたろう)左衛門(ざえもん)英竜(ひでたつ)(1801~1855)
江川太郎左衛門英竜 江川家(えがわけ)鎌倉(かまくら)時代(じだい)からの伊豆(いず)韮山(にらやま)名門(めいもん)代々(だいだい)代官(だいかん)として武蔵(むさし)相模(さがみ)甲斐(かい)など、広大(こうだい)土地(とち)支配(しはい)してきた。
1835(天保(てんぽう)6)(ねん)、35(さい)(いえ)()いだ英竜(ひでたつ)は、西洋(せいよう)事情(じじょう)兵学(へいがく)知識(ちしき)(くわ)しかった。1853(嘉永(かえい)6)(ねん)、ペリーが来日(らいにち)し、開国(かいこく)をせまると、幕府(ばくふ)から、(うみ)防衛(ぼうえい)する役目(やくめ)をまかせられた。
英竜(ひでたつ)は、品川(しながわ)台場(だいば)大砲台(たいほうだい))をつくり、伊豆(いず)韮山(にらやま)には反射炉(はんしゃろ)をつくって大砲(たいほう)製造(せいぞう)した。
その知識(ちしき)(ひろ)さに、(かつら)小五郎(こごろう)(おし)えをこうている。
農民(のうみん)たちを兵隊(へいたい)として訓練(くんれん)し、防衛(ぼうえい)にあたらせようと提案(ていあん)農兵隊(のうへいたい)のこと)したのも英竜(ひでたつ)だ。

徳川(とくがわ)家茂(いえもち)(1846~1866)
徳川家茂 和歌山(わかやま)藩主(はんしゅ)斉順(なりゆき)次男(じなん)。1858(安政(あんせい)5)(ねん)6(がつ)井伊(いい)大老(たいろう)らにおされ、13(さい)徳川(とくがわ)14(だい)将軍(しょうぐん)となる。
こういう時期(じき)将軍(しょうぐん)になってしまったため、苦労(くろう)ばかりで、(こころ)(いた)めることが(おお)かった。そのためか、(だい)2()長州(ちょうしゅう)征伐(せいばつ)のまっさいちゅうの大坂城(おおさかじょう)で、わずか21(さい)病死(びょうし)家茂(いえもち)()幕府(ばくふ)危機(きき)をさらに深刻(しんこく)にした。

孝明天皇 孝明(こうめい)天皇(てんのう)(1831~1866)
1846(弘化(こうか)3)(ねん)2(がつ)即位(そくい)孝明(こうめい)天皇(てんのう)攘夷(じょうい)論者(ろんしゃ)だったがそれはあくまで幕府(ばくふ)協力(きょうりょく)()う(公武(こうぶ)合体(がったい))という(かんが)えの(うえ)()っていた。(いもうと)和宮(かずのみや)家茂(いえもち)にとつがせもした。その天皇(てんのう)が、家茂(いえもち)前後(ぜんご)して()くなり、その(つぎ)即位(そくい)した(だい)2皇子(おうじ)明治(めいじ)天皇(てんのう)当時(とうじ)16(さい))は倒幕(とうばく)()にもりたてられた天皇(てんのう)だった。孝明(こうめい)天皇(てんのう)崩御(ほうぎょ)によって幕府(ばくふ)はますます(くる)しい事態(じたい)においこまれる。

皇女(こうじょ)和宮(かずのみや)(1846~1877)
皇女和宮 井伊(いい)直弼(なおすけ)暗殺(あんさつ)されると、幕府(ばくふ)権威(けんい)をとり(もど)すのに一生懸命(いっしょうけんめい)になった。そのあらわれの(ひと)つが「公武(こうぶ)合体(がったい)政策(せいさく)」で(こう)朝廷(ちょうてい))と()幕府(ばくふ))の協力(きょうりょく)(とな)えるものだ。将軍(しょうぐん)家茂(いえもち)孝明(こうめい)天皇(てんのう)(いもうと)、15(さい)和宮(かずのみや)結婚(けっこん)(ばなし)もこうしておこった。
和宮(かずのみや)には有栖川(ありすがわ)熾仁(たるひと)親王(しんのう)といういいなずけがあったが「天下(てんか)のため」と()われ、()()(したが)うほかなかった。
()みなれし 都路(みやこじ)()でて きょういく() いくぞもつらき 東路(あずまじ)のたび”
これは和宮(かずのみや)江戸(えど)旅立(たびだ)つその()気持(きも)ちを()んだ(うた)だ。
和宮(かずのみや)家茂(いえもち)()(あと)江戸(えど)にとどまり、戊辰(ぼしん)戦争(せんそう)以降(いこう)新政府軍(しんせいふぐん)江戸(えど)進撃(しんげき)や、徳川(とくがわ)(たい)する(あつか)いについて、朝廷(ちょうてい)(ねが)()て、江戸(えど)無血(むけつ)開城(かいじょう)にかくれた(はたら)きをした。

松平(まつだいら)容保(かたもり)(1835~1892)
松平容保 会津藩(あいづはん)9代目(だいめ)藩主(はんしゅ)。1860(万延(まんえん)(がん)(ねん)には、「桜田門外(さくらだもんがい)(へん)()水戸(みと)(はん)幕府(ばくふ)(なか)なおりに一役(ひとやく)()ったりして、能力(のうりょく)ある人物(じんぶつ)だと()こまれていた。
1862(文久(ぶんきゅう)2)(ねん)幕府(ばくふ)は「京都(きょうと)守護職(しゅごしょく)」という役目(やくめ)をつくり、(みだ)れる(きょう)(まち)(まも)るため、容保(かたもり)()した。会津(あいづ)家老(かろう)たちは“(まき)背負(せお)って()(なか)()びこむようなもの”と()めたし、本人(ほんにん)家来(けらい)たちの苦労(くろう)(おも)ってことわったが(ゆる)されなかった。
孝明(こうめい)天皇(てんのう)からもその誠実(せいじつ)(ひと)がらを信頼(しんらい)され、(のぞ)まれて、京都(きょうと)守護職(しゅごしょく)をつとめた。
そのために、大政奉還(たいせいほうかん)()会津(あいづ)は、志士(しし)たちをとりしまったとして新政府軍(しんせいふぐん)から攻撃(こうげき)(まと)にされる。
降伏(こうふく)()容保(かたもり)は、その()(ゆる)され、(とし)をとったあともこの当時(とうじ)のことはいっさい(ひと)(かた)らなかったという。

徳川慶喜 徳川(とくがわ)一橋(ひとつばし)慶喜(よしのぶ)(1837~1913)
水戸(みと)藩主(はんしゅ)徳川(とくがわ)斉昭(なりあき)七男(しちなん)
徳川(とくがわ)幕府(ばくふ)15(だい)、「最後(さいご)将軍(しょうぐん)」となる。
この(ひと)も、「(あたま)がいい」と評判(ひょうばん)だったが、安政(あんせい)大獄(たいごく)では謹慎(きんしん)(おおやけ)用事(ようじ)以外(いがい)外出(がいしゅつ)(ゆる)されない)を(めい)じられた。井伊(いい)大老(たいろう)死後(しご)(ゆる)され、1862(文久(ぶんきゅう)2)(ねん)将軍(しょうぐん)家茂(いえもち)後見役(こうけんやく)となり、1866(慶応(けいおう)2(ねん))に将軍(しょうぐん)(しょく)をついだ。
大政奉還(たいせいほうかん)し、明治(めいじ)()となってからは、静岡(しずおか)にひきこもり、(おおやけ)()から(とお)ざかった。

坂本龍馬(さかもとりょうま)(1835~1867)
坂本龍馬 土佐(とさ)(はん)郷士(ごうし)次男(じなん)として()まれる。19(さい)江戸(えど)()て、千葉(ちば)周作(しゅうさく)道場(どうじょう)(まな)び、1862(文久(ぶんきゅう)2)(ねん)土佐(とさ)(はん)(かんが)(かた)反対(はんたい)して脱藩(だっぱん)。その(とし)勝海舟(かつかいしゅう)弟子(でし)となり、神戸(こうべ)海軍(かいぐん)操練所(そうれんじょ)をつくるため、(かつ)(たす)け、がんばる。ところが、(かつ)長州(ちょうしゅう)薩摩(さつま)藩士(はんし)(なか)がいいのを幕府(ばくふ)ににらまれ、操練所(そうれんじょ)はすぐ()められてしまった。(1864(ねん)
龍馬(りょうま)薩摩藩(さつまはん)()をよせ、のちの「海援隊(かいえんたい)」のはじまりとなる海運業(かいうんぎょう)にのりだす。
中岡慎太郎 ()どものころは「()(むし)」というあだ()だったそうだが、大人(おとな)になってからは、いつも(ひと)より一歩先(いっぽさき)(かんが)えられる人物(じんぶつ)になっていた。
(おな)じく土佐(とさ)(はん)郷士(ごうし)(いえ)()まれた中岡(なかおか)慎太郎(しんたろう)(1838~1867)と、薩長(さっちょう)同盟(どうめい)成立(せいりつ)させ、維新(いしん)成功(せいこう)のもとをつくった。大政奉還(たいせいほうかん)()京都(きょうと)近江屋(おうみや)で1867(慶応(けいおう)3)(ねん)11(がつ)2人(ふたり)そろって暗殺(あんさつ)される。

(かつら)小五郎(こごろう)(1833~1877)
桂小五郎 のち、「木戸(きど)孝允(たかよし)」と()(あらた)める。西郷(さいごう)隆盛(たかもり)大久保利通(おおくぼとしみち)とならび、“維新(いしん)三傑(さんけつ)”(明治(めいじ)維新(いしん)(おお)きな(はたら)きをした3(にん))と()われる。
長州(ちょうしゅう)藩士(はんし)(いえ)()まれて、(おさな)いころはからだが(よわ)かったとか。
吉田(よしだ)松蔭(しょういん)弟子(でし)になり、また、江川太郎(えがわたろう)左衛門(ざえもん)英竜(ひでたつ)からは西洋(せいよう)兵術(へいじゅつ)(まな)んだ。1862(文久(ぶんきゅう)2)(ねん)から京都(きょうと)(かつ)やくしはじめ、1864(元治(げんじ)(がん)(ねん)池田屋(いけだや)騒動(そうどう)では、あやういところで、新選組(しんせんぐみ)()をのがれた。
感情(かんじょう)(はげ)しく、日本(にっぽん)のことを心配(しんぱい)して(おお)()きしたこともあったという。また詩歌(しいか)(たの)しむしゃれた(ひと)でもあったという。

西郷(さいごう)隆盛(たかもり)(1827~1877)
西郷隆盛 薩摩藩(さつまはん)下級(かきゅう)武士(ぶし)(いえ)()まれる。藩主(はんしゅ)島津(しまづ)斉彬(なりあきら)はかしこい殿(との)さまだったので、西郷(さいごう)能力(のうりょく)見抜(みぬ)き、江戸(えど)()してやったり、いろいろな(ひと)()わせて、その知識(ちしき)(ひろ)めるのに(ちから)()した。
(だい)2()長州(ちょうしゅう)征伐(せいばつ)以降(いこう)は、薩摩藩(さつまはん)倒幕(とうばく)()のリーダーとして(かつ)やく。
(いのち)もいらず、名誉(めいよ)もいらず、地位(ちい)も、お(かね)もいらない(ひと)始末(しまつ)(こま)る。でも、この始末(しまつ)(こま)(ひと)でなければ、苦労(くろう)をともにして、(くに)(おお)仕事(しごと)をすることはできない。」と西郷(さいごう)さんは()っているよ。

勝海舟(かつかいしゅう)(1823~1899)
勝海舟 幕府(ばくふ)家臣(かしん)代表(だいひょう)人物(じんぶつ)江戸(えど)本所(ほんじょ)亀沢町に()まれ、(いえ)は40(こく)ほどの御家人(ごけにん)。くらしは(まず)しかった。
西洋(せいよう)学問(がくもん)にはげみ、1855(安政(あんせい)2)(ねん)幕府(ばくふ)のほんやく(がかり)となる。また、幕府(ばくふ)長崎(ながさき)につくった海軍(かいぐん)伝習所(でんしゅうじょ)海軍(かいぐん)技術(ぎじゅつ)(おし)える学校(がっこう))でオランダの海軍(かいぐん)士官(しかん)から技術(ぎじゅつ)とともに西洋(せいよう)知識(ちしき)(まな)びとる。
1860(万延(まんえん)(がん)(ねん)には、咸臨丸(かいりんまる)艦長(かんちょう)として日本(にっぽん)軍艦(ぐんかん)(はじ)めて太平洋(たいへいよう)をわたり、アメリカを(おとず)れた。
明治(めいじ)維新(いしん)には、幕府(ばくふ)か、薩摩(さつま)長州(ちょうしゅう)かというよりも、日本(にっぽん)そのものの将来(しょうらい)一番(いちばん)大事(だいじ)という(かんが)(かた)西郷(さいごう)隆盛(たかもり)(はな)()い、江戸城(えどじょう)無血(むけつ)開城(かいじょう)にみちびいた。

山内(やまのうち)豊信(とよしげ)容堂(ようどう))(1827~1872)
山内豊信 土佐(とさ)(はん)(だい)15(だい)藩主(はんしゅ)寛容(かんよう)(こころ)(ひろ)いこと)でありたいと「容堂(ようどう)」と(ごう)した。すぐれた人材(じんざい)をどんどんとりあげ、(はん)改革(かいかく)につくし、この時代(じだい)のかしこい殿(との)さまの一人(ひとり)として評判(ひょうばん)だった。
家臣(かしん)後藤(ごとう)象二郎(しょうじろう)坂本龍馬(さかもとりょうま)意見(いけん)をとりいれ、慶喜(よしのぶ)大政奉還(たいせいほうかん)をすすめた。
外様(とざま)大名(だいみょう)ではあったが、徳川(とくがわ)()(した)しく、また(ふか)同情(どうじょう)をよせていたのだ。
だから、1867(慶応(けいおう)3)(ねん)12(がつ)9日(ここのか)小御所(こごしょ)会議(かいぎ)では徳川(とくがわ)をかばって公卿(くぎょう)岩倉具視(いわくらともみ)とはげしい()(あらそ)いもくりひろげた。
明治(めいじ)になってからは、政治(せいじ)(はなし)はいっさいせず趣味(しゅみ)生活(せいかつ)をおくった。
身長(しんちょう)(たか)く、(すこ)しあばた(づら)早口(はやくち)。でも、かたよったものの見方(みかた)はせず、(かんが)(かた)(ふる)くさくなかった。」というのはイギリス公使(こうし)書記官(しょきかん)アーネスト・サトーの()容堂(ようどう)だ。

榎本(えのもと)武揚(たけあき)(1836~1908)
榎本武揚 幕府(ばくふ)家臣(かしん)江戸(えど)()まれる。(かつ)(おな)じく、長崎(ながさき)海軍(かいぐん)伝習所(でんしゅうじょ)で、海軍(かいぐん)技術(ぎじゅつ)(まな)ぶ。
1861(文久(ぶんきゅう)(がん)(ねん)には、オランダに留学(りゅうがく)。1866(慶応(けいおう)2)(ねん)帰国(きこく)海軍(かいぐん)奉行(ぶぎょう)となる。
幕府(ばくふ)(たお)れると、降伏(こうふく)をいさぎよしとせず、海軍(かいぐん)艦隊(かんたい)をひきいて箱館(はこだて)五稜郭(ごりょうかく)にたてこもり、新政府軍(しんせいふぐん)抵抗(ていこう)。のち降伏(こうふく)する。
(てき)(がわ)参謀(さんぼう)であった薩摩(さつま)黒田(くろだ)清隆(きよたか)は、榎本(えのもと)死刑(しけい)にしないため、熱心(ねっしん)(たの)んでまわった。そのため3(ねん)監獄(かんごく)()りで(ゆる)され、明治(めいじ)5(ねん)6(がつ)からは黒田(くろだ)とともに北海道(ほっかいどう)開拓(かいたく)仕事(しごと)につく。
その()も、科学(かがく)産業(さんぎょう)外国(がいこく)事情(じじょう)などにはば(ひろ)知識(ちしき)をもつ榎本(えのもと)新政府(しんせいふ)にも(おも)(もち)いられたが、箱館(はこだて)戦争(せんそう)でともに(たたか)った人々(ひとびと)(わす)れることがなかったという。(のこ)された家族(かぞく)などがくらしに(こま)っていれば(すく)いの()をさしのべたそうだ。

岩倉具視(いわくらともみ)(1825~1883)
公卿(くぎょう)。1854(安政(あんせい)(がん)(ねん)孝明(こうめい)天皇(てんのう)侍従(じじゅう)となる。とても()(つよ)侍従(じじゅう)だったらしい。
和宮(かずのみや)家茂(いえもち)結婚(けっこん)(つよ)くおしすすめたため、一時(いちじ)朝廷(ちょうてい)から()われていた。
その(あいだ)薩摩(さつま)藩士(はんし)らとつきあって、いつしか倒幕(とうばく)(かげ)指導(しどう)(しゃ)になっていた。
明治維新ってそれほど遠いむかしじゃないね

大久保利通(おおくぼとしみち)(1830~1873)
薩摩藩(さつまはん)下級(かきゅう)武士(ぶし)(いえ)()まれる。藩主(はんしゅ)(ちち)島津久光(しまづひさみつ)にひきたてられ、(はん)政治(せいじ)(くわ)わるようになった。大政奉還(たいせいほうかん)(とき)武力(ぶりょく)幕府(ばくふ)()(たお)すことを(つよ)主張(しゅちょう)した。

新選組(しんせんぐみ)歴史(れきし)

1.浪士(ろうし)募集(ぼしゅう)
1862(文久(ぶんきゅう)2)(ねん)()れ、幕府(ばくふ)浪士(ろうし)募集(ぼしゅう)をした。庄内(しょうない)(はん)出身(しゅっしん)清河(きよかわ)八郎(はちろう)という(ひと)(あん)だった。このころ、(きょう)中心(ちゅうしん)攘夷(じょうい)(さけ)浪人(ろうにん)たちが(うご)きまわり、いつ、(なに)がおこるかわからない。来年(らいねん)(はる)には、将軍(しょうぐん)家茂(いえもち)がその(きょう)へのぼるのだ。家茂(いえもち)護衛(ごえい)(きょう)(まち)安全(あんぜん)をまかせたい、と()びかけたのだった。
近藤勇(こんどういさみ)ら、試衛館(しえいかん)人々(ひとびと)はすぐさまこの募集(ぼしゅう)(おう)じた。よく1863(文久(ぶんきゅう)3)(ねん)2(がつ)8日(ようか)(あつ)められた浪士(ろうし)たち、200(にん)あまり、板橋宿(いたばしじゅく)から木曽路(きそじ)(とお)って(きょう)をめざした。
2(がつ)23(にち)京都(きょうと)郊外(こうがい)壬生村(みぶむら)到着(とうちゃく)。その(ばん)清河(きよかわ)は「この浪士(ろうし)(ぐみ)目的(もくろく)尊王(そんのう)攘夷(じょうい)家茂(いえもち)護衛(ごえい)のため、というのは、()せかけのこと」と発表(はっぴょう)浪士(ろうし)たちも(おどろ)いたが、幕府(ばくふ)はもっと(おどろ)いた。こんなのを(きょう)()いておいたら、なおあぶない、というのですぐさま江戸(えど)()(もど)された。しかし、近藤(こんどう)ら、試衛館(しえいかん)一行(いっこう)芹沢(せりざわ)(かも)水戸(みと)浪士(ろうし)たち、()わせて10(すう)(にん)は、「このまま(きょう)(のこ)り、将軍(しょうぐん)()(やく)()ちたい。」と京都(きょうと)守護職(しゅごしょく)(ねが)()た。これが(かな)って、居残(いのこ)った浪士(ろうし)たちは京都(きょうと)守護職(しゅごしょく)(ぞく)することになり。壬生村(みぶむら)郷士(ごうし)八木(やぎ)()(やしき)屯所(とんしょ)()める場所(ばしょ))として新選組(しんせんぐみ)誕生(たんじょう)
1863(文久(ぶんきゅう)3)(ねん)9(がつ)18(にち)芹沢(せりざわ)(かも)暗殺(あんさつ)され、局長(きょくちょう)には近藤勇(こんどういさみ)副長(ふくちょう)には土方(ひじかた)歳三(としぞう)(ほか)試衛館(しえいかん)仲間(なかま)たちも(みな)幹部(かんぶ)となって、新選組(しんせんぐみ)(つく)()げていった。
あさぎ色 募集(ぼしゅう)をして、隊士(たいし)もぞくぞく(あつ)まりだした。隊士(たいし)制服(せいふく)浅黄地(あさぎぢ)水色(みずいろ)()ている。()みがかった(みどり)をうすくした(いろ))の(そで)にだんだら()めを()めぬいたもの。旗印(はたじるし)には「(まこと)」の一()(しる)した。毎朝(まいあさ)訓練(くんれん)をおこない、あやしい浪士(ろうし)をとりしまり、京都(きょうと)市中(しちゅう)をパトロール。だんだんと「新選組(しんせんぐみ)」の()()れわたっていく。

2.局中(きょくちゅう)法度書(はっとがき)
新選組(しんせんぐみ)には、つぎのようなきまりがあった。
一、士道(しどう)(サムライの(まも)るべき()き方)にそむいてはいけない。
一、新選組(しんせんぐみ)をぬけることは(ゆる)さない。
一、勝手(かって)にお(かね)工面(くめん)してはいけない。
一、勝手(かって)裁判(さいばん)をしてはならない。
一、個人的(こじんてき)なケンカは(ゆる)さない。
…これらを(まも)らなかった(もの)には切腹(せっぷく)(もう)しつける、というきびしいきまりだった。
新選組(しんせんぐみ)武士(ぶし)だけの(あつ)まりではない。(うえ)にたつ、近藤(こんどう)土方(ひじかた)からして農民(のうみん)()だし、町人(ちょうにん)だってまざっている。だからこそ、まとめあげるのに(きび)しいきまりが必要(ひつよう)だった、とも()うし、現実(げんじつ)武士(ぶし)たちよりもっと本物(ほんもの)武士(ぶし)でありたいと(のぞ)んだからこんな(きび)しいきまりを(つく)ったのだ、とも()う。

3.八月十八日(はちがつじゅうはちにち)政変(せいへん)(事件の内容については「幕末の日本」の“動乱の京都”を見てね)
この(とき)新選組(しんせんぐみ)のはじめての出陣(しゅつじん)らしい出陣(しゅつじん)である。参加(さんか)した隊士(たいし)80(にん)。(52(にん)という(せつ)も)

4.池田屋(いけだや)騒動(そうどう)
京都(きょうと)三条(さんじょう)小橋(こばし)旅館(りょかん)池田屋(いけだや)は、長州(ちょうしゅう)藩士(はんし)浪士(ろうし)たちのたまり()だった。調(しら)べると(おどろ)いたことに、「6(がつ)20日(はつか)ごろ、(かぜ)(つよ)(よる)をえらんで御所(ごしょ)()をつけ、松平(まつだいら)容保(かたもり)らをおそい、天皇(てんのう)長州(ちょうしゅう)へお()れする」という(くわだ)てがたてられていた。
1864(元治(げんじ)(がん)(ねん)6(がつ)5日(いつか)池田屋(いけだや)志士(しし)たちが(あつ)まる、と()いて、午後(ごご)8()ごろ、新選組(しんせんぐみ)出動(しゅつどう)。2時間(じかん)にわたる(はげ)しい(たたか)いに、沖田(おきた)持病(じびょう)肺病(はいびょう)のため()()き、意識(いしき)(うしな)う。
志士(しし)即死(そくし)7(にん)()けどり23(にん)。いずれもえりすぐりの人物(じんぶつ)で、そのため明治(めいじ)維新(いしん)は1(ねん)(おそ)くなったとも()う。

5.蛤御門(はまぐりごもん)(へん)
池田屋(いけだや)騒動(そうどう)()らせに、長州藩(ちょうしゅうはん)(いか)りまくって(きょう)にのぼって()た。1864(元治(げんじ)(がん)(ねん)7(がつ)18(にち)午後(ごご)8()(かね)合図(あいず)長州藩(ちょうしゅうはん)出撃(しゅつげき)開始(かいし)(きょう)(まち)はたちまち(ほのお)につつまれ、御所(ごしょ)にも大砲(たいほう)(たま)がとんでくる。
その(とき)松平(まつだいら)容保(かたもり)はすわることもできぬほどの重病(じゅうびょう)。それをおして天皇(てんのう)(まえ)参上(さんじょう)した。
(かなら)ずお(まも)りいたします。」と(もう)()げる(かお)()()がなく()ていられないほどだったとか。
孝明(こうめい)天皇(てんのう)もその姿(すがた)にいたく(かん)()って「おまえにまかせる」と(こた)えた。この(たたか)いには新選組(しんせんぐみ)総勢(そうぜい)100(にん)出陣(しゅつじん)
この(たたか)いは、いちばんの激戦地(げきせんち)となった場所(ばしょ)()から「蛤御門(はまぐりごもん)(へん)」と()ばれる。
長州(ちょうしゅう)(やぶ)れ、ぞくぞくと自分(じぶん)(くに)もとへ()(もど)った。

6.鳥羽(とば)伏見(ふしみ)(たたか)
1867(慶応(けいおう)3)(ねん)10(がつ)14()将軍(しょうぐん)慶喜(よしのぶ)大政奉還(たいせいほうかん)し、12(がつ)12(にち)には(きょう)二条城(にじょうじょう)()大坂城(おおさかじょう)(うつ)った。新選組(しんせんぐみ)前日(ぜんじつ)11(にち)伏見(ふしみ)をおさえるよう(めい)じられ、会津(あいづ)桑名(くわな)(はん)とともに大坂(おおさか)()かった。文久(ぶんきゅう)3(ねん)から5年間(ねんかん)(かつ)やくした(きょう)(まち)との(わか)れだ。12(がつ)12(にち)調(しら)べで66(にん)隊士(たいし)大坂(おおさか)にはいって募集(ぼしゅう)をし、150(にん)となる。
よく(とし)正月(しょうがつ)3日(みっか)から、「鳥羽(とば)伏見(ふしみ)(たたか)い」開始(かいし)。ただし、近藤勇(こんどういさみ)京都(きょうと)墨染(すみぞめ)襲撃(しゅうげき)された(かた)のケガのため、沖田(おきた)病気(びょうき)(おも)くなったため、大坂城(おおさかじょう)(のこ)った。新選組(しんせんぐみ)出陣(しゅつじん)指揮(しき)土方(ひじかた)がとっている。
幕府(ばくふ)(がわ)(そう)くずれ。6日(むいか)慶喜(よしのぶ)開陽丸(かいようまる)でひそかに江戸(えど)()きあげ、12(にち)近藤(こんどう)ほか、新選組(しんせんぐみ)()(のこ)り40(にん)あまりも、富士山丸(ふじさんまる)大坂(おおさか)をたち、江戸(えど)をめざした。

7.甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)
1868(慶応(けいおう)4)(ねん)3(がつ)1日。近藤は大久保(おおくぼ)大和(やまと)()のり、若年寄格(わかどしよりかく)大名(だいみょう)なみ)、土方(ひじかた)内藤(ないとう)隼人(はやと)()のり寄合席格(よりあいせきかく)(おお)きな旗本(はたもと)なみ)の身分(みぶん)となり、「甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)」という(たい)編成(へんせい)して江戸(えど)出発(しゅっぱつ)江戸(えど)にとって大切(たいせつ)拠点(きょてん)となる甲府(こうふ)(じょう)をおさえるためだ。資金(しきん)5,000(りょう)大砲(たいほう)2(もん)小銃(しょうじゅう)500(ちょう)隊士(たいし)は200(にん)あまり。
3(がつ)4日(よっか)勝沼(かつぬま)宿(しゅく)にはいってみると東海(とうかい)東山(とうさん)北陸(ほくりく)の3(ぼん)(みち)から新政府軍(しんせいふぐん)はぞくぞくと(すす)んでくる。甲州(こうしゅう)(じょう)もゆうべのうちに板垣(いたがき)退助(たいすけ)のひきいる部隊(ぶたい)占領(せんりょう)されていた。
3(がつ)6日(むいか)甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)(たたか)いにのぞんだが(やぶ)れ、隊士(たいし)は120(にん)ほどに()ってしまった。(()げる(もの)もあったらしい。)

8.近藤勇(こんどういさみ)刑死(けいし)
甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)はばらばらになり、近藤(こんどう)下総流山(しもうさながれやま)(いま)千葉県(ちばけん))で浪士(ろうし)(あつ)めようとしたが、もはや、もう一度(いちど)(たたか)うことはむずかしいとわかった。
1868(慶応(けいおう)4)(ねん)4(がつ)1日(ついたち)土方(ひじかた)(わか)れた近藤(こんどう)新政府軍(しんせいふぐん)降伏(こうふく)。4(がつ)25(にち)には板橋宿(いたばしじゅく)死刑(しけい)となった。

9.土方(ひじかた)歳三(としぞう)五稜郭(ごりょうかく)
近藤(こんどう)(わか)れた土方(ひじかた)は、榎本(えのもと)武揚(たけあき)(ぐん)(くわ)わり、会津戦争で(たたか)った。
会津(あいづ)(しろ)()ちたのちは、箱館(はこだて)五稜郭(ごりょうかく)にたてこもった。
1869(明治(めいじ)2)(ねん)5(がつ)11(にち)箱館(はこだて)(やま)をうばいかえすため、出陣(しゅつじん)(うま)にまたがり、指揮(しき)をとっている最中(さいちゅう)銃弾(じゅうだん)(たお)れる。

試衛館(しえいかん)人々(ひとびと)のゆくえ (カッコ)(ない)()くなった(とき)(ねん)れい

近藤勇(こんどういさみ) 慶応(けいおう)4(ねん)4(がつ)25(にち)板橋宿(いたばしじゅく)刑死(けいし)。(35(さい)
土方(ひじかた)歳三(としぞう) 明治(めいじ)2(ねん)5(がつ)11(にち)箱館(はこだて)戦争(せんそう)戦死(せんし)。(35(さい)
井上(いのうえ)源三郎(げんざぶろう) 鳥羽(とば)伏見(ふしみ)(たたか)いで戦死(せんし)。(40(さい)?)
沖田(おきた)総司(そうじ) 慶応(けいおう)4(ねん)6(がつ)12(にち)千駄ケ谷(せんだがや)植木屋(うえきや)(はな)れで病死(びょうし)。まわりの(ひと)たちがふせていたため、近藤(こんどう)()()らず、最期(さいご)まで「どうしたろうか」と心配(しんぱい)していたという。(26(さい)
永倉(ながくら)新八(しんぱち) 神田(かんだ)和泉橋(いずみばし)会津(あいづ)()く、()かないで近藤(こんどう)たちと意見(いけん)がわかれ、(べつ)行動(こうどう)をとる。その()脱藩(だっぱん)した松前藩(まつまえはん)(まも)られ、明治(めいじ)維新(いしん)()()きのびた。大正(たいしょう)4(ねん)1(がつ)5日(いつか)北海道(ほっかいどう)小樽(おたる)(やす)らかに()くなった。(76(さい)
原田(はらだ)左之助(さのすけ) 甲州戦(こうしゅうせん)鉄砲(てっぽう)きずがもとで()くなったともいうし、また、近藤(こんどう)らとわかれ、彰義隊(しょうぎたい)(くわ)わり、上野(うえの)戦争(せんそう)()くなったともいう。(29(さい)?)
山南(やまなみ)敬助(けいすけ) 慶応(けいおう)(がん)(ねん)(2(ねん)ともいう)局中(きょくちゅう)法度(はっと)にそむいたとして切腹(せっぷく)
藤堂(とうどう)平助(へいすけ) 慶応(けいおう)3(ねん)11(がつ)18(にち)京都(きょうと)油小路(あぶらこうじ)()(じに)。(内輪(うちわ)もめのようなもの)

おまけ 彰義隊(しょうぎたい) 上野(うえの)戦争(せんそう)
彰義隊(しょうぎたい)(つく)られたのは1868(慶応(けいおう)4)(ねん)2(がつ)22(にち)。はじめは一橋(ひとつばし)()家臣(かしん)中心(ちゅうしん)で、謹慎中(きんしんちゅう)慶喜(よしのぶ)(まも)るのが目的(もくろく)だった。
やがて、新政府軍(しんせいふぐん)進軍(しんぐん)によって混乱(こんらん)のありさまとなった江戸(えど)(まち)警備(けいび)もするようになる。上野(うえの)のお(やま)をねじろにする(ころ)には、さまざまな(はん)藩士(はんし)も加わり、総勢(そうぜい)2,000(にん)とも、4,000(にん)とも。
5(がつ)5日(いつか)(いま)(こよみ)の7(がつ)中旬(ちゅうじゅん)ころ)、彰義隊(しょうぎたい)上野(うえの)(やま)新政府軍(しんせいふぐん)(たたか)い、わずか半日(はんにち)(6時間(じかん)とも)で(やぶ)れる。
寛永寺(かんえいじ)黒門口(くろもんぐち)はもっとも(たたか)いの(はげ)しかったところ。

「写真で見る会津戦争」より
(「写真でみる会津戦争」より)
この絵は土方が、慶応4年春、会津鶴ヶ城で藩主容保から近藤勇の戒名(かいみょう)をうけているところ。戒名は「貫天院殿純忠誠義大居士」

参考(さんこう)にした(ほん)

郷土資料室から
「多摩の人物史」
「多摩のあゆみ」 第21号
「町田市史」
「多摩の歴史1」
「多摩の歴史散歩」
「多摩の歴史5」
「日野市史別巻-市史余話」
「町田の歴史をたどる」

参考室
「年表日本歴史」
「日本近現代史小辞典」
「日本史小辞典」
児童参考コーナーから
「ほるぷ 日本の歴史4」
「学研の図鑑 日本の歴史」

一般のコーナーから
「幕末新選組」
「新選組血風録」
「目で見る日本史 維新の青春群像」
「新選組始末記」

小平市に関すること
1.小平市内めぐり 2.小平れきし年表・小平の街道
4.探検!郷土資料室 5.みんなの町のなまえ
6.小平の鉄道の歴史 8.わたしたちの小学校
9.小平はじめて物語 10.戦争と小平
13.小平こだいらの道 14.小平歳時記
15.小平の新田 16.古い地名
19.公園に行こうよ! 26.小平のごちそう うどん
36.ぼくらの町の仕事(1)こだいらの農業 37.ぼくらの町の仕事(2)こだいらの商業
多摩に関すること
12.多摩戦国絵巻 18.多摩の絹の道 シルクロード
20.風雲!新選組 21.楽しい施設ガイド
25.東京のできるまで 27.神奈川県から東京府へ多摩移管百年うそ?ほんと?クイズ
29.多摩の芸能 32.八王子千人同心多摩をゆく
35.多摩の酒造 39.江戸時代の東京 文化文政(1800年代初め)の三多摩編
江戸・東京に関すること
23.幸運招来! 東京七福神めぐり 24.東京の水道
28.江戸をたのしむ 30.わたしのまちの木・花・鳥とシンボルマーク
38.江戸時代の東京 文化文政(1800年代初め)の特別区編 40.花の江戸城 Part1
41.花の江戸城 Part2  
玉川上水・小金井桜に関すること
3.玉川上水をしりたい 7.玉川上水とあそぼう!
17.満開!小金井桜 31.野火止用水をゆけば
その他
11.武蔵武士 22.コレラが町にやって来た
33.これが武蔵国だっ! 34.地震にそなえて

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