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15. 小平(こだいら)新田(しんでん)

武蔵野(むさしの)新田(しんでん)のあらまし

江戸時代の多摩郡

 「新編(しんぺん)武蔵(むさし)風土記(ふどき)稿(こう)」より
 ≪元禄(げんろく)年間(ねんかん) 多摩郡(たまぐん)之図(のず)
 (注意)普通(ふつう)地図(ちず)と、(さか)さまです。

武蔵野(むさしの)新田(しんでん)のあらまし
小川村は武蔵野新田のグループより少し古いんだよ  江戸(えど)時代(じだい)(はじ)め、武蔵国(むさしのくに)江戸川(えどがわ)荒川(あらかわ)多摩川(たまがわ)下流(かりゅう)には水田(すいでん)(ひら)かれていった。それがすすむと、今度(こんど)武蔵野(むさしの)台地(だいち)畑作(はたさく)地帯(ちたい)(ひら)かれるようになった。(なか)でも享保(きょうほう)7(ねん) (1722年)7 (がつ)江戸(えど)日本橋(にほんばし)にたてられた新田(しんでん)開発(かいはつ)をすすめる高札(こうさつ)をきっかけにはじまり、元文(げんぶん)年間(ねんかん) (1736~1741年)に 検地(けんち)()けたものを「武蔵野(むさしの)新田(しんでん)」と()ぶ。
 新田(しんでん)(うつ)ってくるのは(わか)夫婦(ふうふ)()ども1人(ひとり)くらいの(ちい)さな家族(かぞく)がほとんどで、(はじ)めの(ころ)(くる)しいことも(おお)かったが、川崎(かわさき)平右衛門(へいえもん)という(ひと)(はたら)きで、新田(しんでん)のくらしもしだいに()()いていった。
 武蔵野(むさしの)台地(だいち)(つち)関東(かんとう)ローム(そう)()って、火山灰(かざんばい)でできた赤土(あかつち)で、耕作(こうさく)には()かない。けれど農民(のうみん)(はい)やヌカを(あた)え、赤土(あかつち)(ゆた)かな黒土(くろつち)にかえ、明和(めいわ)年間(ねんかん) (1764~1772年)ころより、 (むぎ)・アワ・ヒエがよくできるようになった。やがてまわりの(ふる)くからの(むら)もしのぐようになり、西多摩(にしたま)江戸(えど)(まち)とも品物(しなもの)(なが)れがさかんになっていった。
江戸時代の武蔵野台地

新田(しんでん)開発(かいはつ)年表(ねんぴょう)

新田開発年表
できごと
1590(天正(てんしょう)18(ねん) 8(がつ)1日(ついたち) 徳川(とくがわ)家康(いえやす)江戸(えど)()り。
1603(慶長(けいちょう)8(ねん) 2(がつ)12(にち) 家康(いえやす)征夷(せいい)大将軍(たいしょうぐん)となり、江戸(えど)幕府(ばくふ)をひらく。
3(がつ) 江戸(えど)(した)(まち)建設(けんせつ)はじまる。
1606(慶長(けいちょう)11(ねん) 11(がつ) 武蔵国(むさしのくに)多摩郡(たまぐん)三田領(みたりょう)北小曽木(きたおそぎ)(むら)上成木(かみなりき)(むら)より、江戸(えど)(じょう)普請(ふしん)のための石灰(せっかい)(はこ)(はじ)める。
1609(慶長(けいちょう)14(ねん) この(とし)砂川(すながわ)新田(しんでん)開発(かいはつ)はじまる。
1611(慶長(けいちょう)16(ねん) この(とし)新町(しんまち)新田(しんでん)開発(かいはつ)はじまる。
1654(承応(じょうおう)3(ねん) 6(がつ)20日(はつか) 玉川(たまがわ)上水(じょうすい)完成(かんせい)
1655(承応(じょうおう)4(ねん) 3(がつ) 野火止(のびどめ)用水(ようすい)完成(かんせい)
1656(明暦(めいれき)2(ねん) この(とし)小川(おがわ)九郎兵衛(くろべえ)石灰(せっかい)御伝馬継(ごてんまつぎ)条件(じょうけん)に、小川(おがわ)(むら)開発(かいはつ)(ねが)()る。
1721(享保(きょうほう)6(ねん) 11(がつ) 貫井(ぬくい)(むら)鈴木(すずき)利左衛門(りざえもん)新田(しんでん)開発(かいはつ)(ねが)()るが(ゆる)されず。
1722(享保(きょうほう)7(ねん) 7(がつ) 江戸(えど)日本橋(にほんばし)新田(しんでん)開発(かいはつ)をすすめる高札(こうさつ)()つ。
8(がつ)19(にち) 鈴木(すずき)利左衛門(りざえもん)(ふたた)新田(しんでん)開発(かいはつ)(ねが)()る。
9(がつ) 小川(おがわ)(むら)名主(なぬし)市郎兵衛(いちろべえ)とその()孫市(まごいち)神明宮(しんめいぐう)神主(かんぬし)宮崎(みやざき)主馬(しゅめ)新田(しんでん)開発(かいはつ)(ねが)()る。
10(がつ)8日(ようか) 上谷保(かみやほ)(むら)農民(のうみん)矢沢(やざわ)藤八(とうはち)円成院(えんじょういん)住職(じゅうしょく)大堅(たいけん)ら、新田(しんでん)開発(かいはつ)(ねが)()る。
1724(享保(きょうほう)9(ねん) 5(がつ) 小川(おがわ)新田(しんでん)大沼田(おおぬまた)新田(しんでん)鈴木(すずき)新田(しんでん)野中(のなか)新田(しんでん)にいっせいに許可(きょか)がおりて、開発(かいはつ)がはじまる。
1726(享保(きょうほう)11(ねん) 6(がつ) 野中(のなか)新田(しんでん)()まえが()まる。初代(しょだい)名主(なぬし)源右衛門(げんえもん)(あとで与右衛門(よえもん)()をかえる)。組頭(くみがしら)善左衛門(ぜんざえもん)長右衛門(ちょうえもん)
この(とし)(めぐ)()(むら)野中(のなか)新田(しんでん)から土地(とち)()う。
1732(享保(きょうほう)17(ねん) 10(がつ) 野中(のなか)新田(しんでん)は、(きた)野中(のなか)(とおり)野中(のなか)(みなみ)野中(のなか)にわかれ、与右衛門(よえもん)(ぐみ)善左衛門(ぜんざえもん)(ぐみ)六左衛門(ろくざえもん)(ぐみ)になる。
この(とき)享保(きょうほう)11(ねん)より野中(のなか)新田(しんでん)一部(いちぶ)になっていた鈴木(すずき)新田(しんでん)独立(どくりつ)
1734(享保(きょうほう)19(ねん) この(とし)鈴木(すずき)新田(しんでん)玉川(たまがわ)上水(じょうすい)より(みず)()き、長久保(ながくぼ)水田(すいでん)(つく)る。
1736(元文(げんぶん)(がん)(ねん) 12(がつ) 小川(おがわ)新田(しんでん)鈴木(すずき)新田(しんでん)野中(のなか)新田(しんでん)大沼田(おおぬまた)新田(しんでん)(めぐ)()新田(しんでん)検地(けんち)、おこなわれる。
1738(元文(げんぶん)3(ねん) この(とし)武蔵野(むさしの)新田(しんでん)大凶作(だいきょうさく)
1739(元文(げんぶん)4(ねん) 8(がつ) 川崎(かわさき)平右衛門(へいえもん)南北(なんぼく)武蔵野(むさしの)新田(しんでん)世話役(せわやく)となる。
9(がつ) 川崎(かわさき)平右衛門(へいえもん)(まえ)(とし)凶作(きょうさく)影響(えいきょう)調(しら)べる。
1741(元文(げんぶん)6(ねん) この(とし)川崎(かわさき)平右衛門(へいえもん)大沼田(おおぬまた)新田(しんでん)井戸(いど)を2つ()る。
大沼田(おおぬまた)新田(しんでん)水田(すいでん)(つく)られる。
1765(明和(めいわ)2(ねん) この(とし)小川(おがわ)(むら)名主(なぬし)弥次郎(やじろう)小川(おがわ)分水(ぶんすい)水車(すいしゃ)をしかける。
1772(明和(めいわ)9(ねん) この(とし)大沼田(おおぬまた)新田(しんでん)名主(なぬし)弥十郎(やじゅうろう)伝兵衛(でんべえ)大沼田(おおぬまた)分水(ぶんすい)水車(すいしゃ)をしかける。
1775(安永(あんえい)4(ねん) この(とし)小川(おがわ)新田(しんでん)宮崎(みやざき)釆女(うねめ)屋敷(やしき)水車(すいしゃ)をしかける。
1778(安永(あんえい)7(ねん) この(とし)鈴木(すずき)新田(しんでん)善兵衛(ぜんべえ)水車(すいしゃ)をしかける。
1799(寛政(かんせい)11(ねん) この(とし)榎戸(えのきど)新田(しんでん)妙法寺(みょうほうじ)に、武蔵野(むさしの)新田(しんでん)82か(そん)農民(のうみん)が、川崎(かわさき)平右衛門(へいえもん)謝恩塔(しゃおんとう)()てる。

武蔵野(むさしの)新田(しんでん)()役者(やくしゃ)たち…

徳川(とくがわ)吉宗(よしむね)
徳川吉宗 貞享(じょうきょう)(がん)(ねん)(1684)()まれ。
 宝永(ほうえい)2(ねん)(1705)、紀州(きしゅう)藩主(はんしゅ)となり、自分(じぶん)(はん)財政(ざいせい)をよくするため、倹約(けんやく)をすすめたり、いろいろな工夫(くふう)をした。
 享保(きょうほう)(がん)(ねん)(1716)4(がつ)、7(だい)将軍(しょうぐん)家継(いえつぐ)()きあと、老中(ろうじゅう)たちにすいせんされ、江戸(えど)幕府(ばくふ)8(だい)将軍(しょうぐん)となる。
 吉宗(よしむね)時代(じだい)政治(せいじ)を「享保(きょうほう)改革(かいかく)」とよぶ。
 享保(きょうほう)2(ねん)(1717)に大岡(おおおか)忠相(ただすけ)江戸(えど)(まち)奉行(ぶぎょう)にもちいた。
 享保(きょうほう)6(ねん)(1721)には目安箱(めやすばこ)制度(せいど)(つく)って、将軍(しょうぐん)直接(ちょくせつ)(うった)えができるようにした。
 その()も、能力(のうりょく)のある(ひと)をどんどん(ばっ)てきして、享保(きょうほう)改革(かいかく)をすすめるため(はたら)かせた。
 享保(きょうほう)改革(かいかく)財政(ざいせい)をたてなおすのが一番(いちばん)目的(もくてき)だったから新田(しんでん)開発(かいはつ)年貢(ねんぐ)()める方法(ほうほう)のみなおしなどもおこなった。

大岡忠相大岡(おおおか)忠相(ただすけ)
 延宝(えんぽう)5(ねん)(1677)、三河(みかわ)時代(じだい)からの徳川(とくがわ)()家臣(かしん)(いえ)()まれる。
 江戸(えど)(まち)奉行(ぶぎょう)となったのは、享保(きょうほう)2(ねん)(1717)2(がつ)3日(みっか)、41(さい)のとき。同時(どうじ)に、越前守(えちぜんのかみ)になった。それから60(さい)になるまで20年間(ねんかん)、この(やく)(つと)めた。
 吉宗(よしむね)時代(じだい)ばかりか、(つぎ)将軍(しょうぐん)家重(いえしげ)時代(じだい)にも75(さい)()くなるまで、幕府(ばくふ)一番(いちばん)重要(じゅうよう)仕事(しごと)をまかされていた。このことは大岡(おおおか)忠相(ただすけ)が、仕事(しごと)のできる、(ひと)がらのしっかりした役人(やくにん)だったことをしめしている。
 (まち)奉行(ぶぎょう)時代(じだい)大岡(おおおか)忠相(ただすけ)は、江戸(えど)人々(ひとびと)のくらしを()くするため、努力(どりょく)した。まず、(おお)きな商人(しょうにん)たちに反対(はんたい)されながらも、(やす)くて豊富(ほうふ)品物(しなもの)江戸(えど)にはいるようにした。
 それから、火事(かじ)(おお)江戸(えど)(まち)(まも)るため、(まち)火消(ひけし)「いろは47(くみ)」を(つく)って消防(しょうぼう)仕事(しごと)をまかせた。火事(かじ)(とき)()げる場所(ばしょ)(つく)った。そのほか、(まず)しい(ひと)たちを(すく)うため小石川(こいしかわ)養生所(ようじょうしょ)という施設(しせつ)もつくった。
大岡(おおおか)政談(せいだん)」という越前守(えちぜんのかみ)(めい)さばきは、ほとんど(つく)った(はなし)なのだそうだ。でも、江戸(えど)(ひと)たちの(ねが)いがこめられ、できあがっていったんだろうね。

川崎(かわさき)平右衛門(へいえもん)
 元文(げんぶん)3(ねん)(1737)、武蔵野(むさしの)新田(しんでん)大凶作(だいきょうさく)にみまわれた。わずか2(ねん)(まえ)元文(げんぶん)(がん)(ねん)検地(けんち)をうけ、年貢(ねんぐ)のかけられる土地(とち)として、1本(いっぽん)()ちしたばかりなのに…。
(はたけ)()ばくとなり、作物(さくもつ)(なに)ひとつとれない。そのころ武蔵野(むさしの)新田(しんでん)78か(そん)農家(のうか)は1320(けん)。なんとかくらしを(つづ)けてゆけそうなのは、そのうちわずか35(けん)だった。土地(とち)()てて()げる(もの)五日市(いつかいち)街道(かいどう)をくだり江戸(えど)まで(はたら)きにゆく(もの)、さまざまだった。
 農民(のうみん)がいなくなれば、せっかく(ひら)いた新田(しんでん)がむだになる。幕府(ばくふ)はこれをくい()めるため、武蔵野(むさしの)事情(じじょう)にくわしく、仕事(しごと)もできる川崎(かわさき)平右衛門(へいえもん)協力者(きょうりょくしゃ)としてもちいた。平右衛門(へいえもん)元禄(げんろく)7(ねん)(1694)()まれ。押立(おしたて)(むら)(いま)府中市(ふちゅうし))の名主(なぬし)で、(まえ)にも自分(じぶん)財産(ざいさん)()げうって、(こま)っている(ひと)(すく)ったことがある。農業(のうぎょう)にも熱心(ねっしん)(ひと)だった。川崎(かわさき)()先祖(せんぞ)は、もとは後北条氏(ごほうじょうし)家臣(かしん)だったという。小川(おがわ)九郎兵衛(くろべえ)(いえ)(おな)じだねっ!
 平右衛門(へいえもん)小金井(こがねい)(むら)勘左衛門(かんざえもん)鈴木(すずき)新田(しんでん)利左衛門(りざえもん)手伝(てつだ)わせ、農家(のうか)(けん)(けん)被害(ひがい)調(しら)べた。()げてしまった農民(のうみん)たちを()びもどした。そして、みんなのくらしが()ちつくように土木(どぼく)工事(こうじ)をおこない、農業(のうぎょう)()のあいた農民(のうみん)をやとい()れ、賃金(ちんぎん)(はら)った。また、幕府(ばくふ)のお(かね)新田(しんでん)井戸(いど)()った。新田(しんでん)作物(さくもつ)も、土地(とち)()ったものを(さが)し、工夫(くふう)した。紫草(むらさきぐさ)染料(せんりょう))、はと(むぎ)、からみ大根(だいこん)(つく)るよう、すすめた。屋敷(やしき)防風林(ぼうふうりん)にと、(すぎ)・ひのき・(まつ)(くり)()えることもすすめ、おかげで武蔵野(むさしの)は、将軍(しょうぐん)献上(けんじょう)する(くり)産地(さんち)にもなった。(つぎ)のききんに(そな)えて穀物(こくもつ)(たくわ)えることもした。(たくわ)えがたまるとときどき()って、お(かね)をふやし、最終的(さいしゅうてき)新田(しんでん)のみんなに()けた。こうして、武蔵野(むさしの)新田(しんでん)はつぶれずにすんだのだ。
 関野(せきの)新田(しんでん)(いま)小金井市(こがねいし))から小川(おがわ)新田(しんでん)(いま)小平市(こだいらし))まで、玉川(たまがわ)上水(じょうすい)べりに(さくら)(なえ)()えたのも、平右衛門(へいえもん)仕事(しごと)だ。「新田(しんでん)のにぎわいのため()えた」というねらいどおり、小金井桜(こがねいざくら)名所(めいしょ)となった。
 元文(げんぶん)3(ねん)から4(ねん)武蔵野(むさしの)新田(しんでん)での(はたら)きを江戸(えど)(まち)奉行(ぶぎょう)大岡(おおおか)越前守(えちぜんのかみ)忠相(ただすけ)(みと)められ、元文(げんぶん)4(ねん)(1739)、南北(なんぼく)武蔵野(むさしの)新田(しんでん)世話役(せわやく)となった。さらに寛保(かんぽ)2(ねん)(1742)61(さい)のとき代官(だいかん)となり、寛延(かんえん)2(ねん)(1749)まで武蔵野(むさしの)支配(しはい)した。その()も74(さい)()くなるまで、美濃国(みののくに)(いま)岐阜県(ぎふけん))の輪中地帯(わじゅうちたい)水害(すいがい)(ふせ)いだり、農民(のうみん)のくらしを(まも)るために(はたら)いた。
 その死後(しご)文化(ぶんか)年間(ねんかん)(1804~1818)に榎戸(えのきど)新田(しんでん)妙法寺(みょうほうじ)(いま)国分寺市(こくぶんじし))に武蔵野(むさしの)新田(しんでん)82か(そん)農民(のうみん)平右衛門(へいえもん)(ひと)がらやおこないをたたえ、報恩塔(ほうおんとう)()てた。中藤(なかとう)新田(しんでん)(いま)武蔵村山市(むさしむらやまし))の観音寺(かんのんじ)関野(せきの)新田(しんでん)(いま)小金井市(こがねいし))の真蔵院(しんぞういん)には供養塔(くようとう)がある。文化(ぶんか)7(ねん)(1810)3(がつ)21(にち)小平市(こだいらし)海岸寺(かいがんじ)()てられた「小金井(こがねい)桜樹碑(おうじゅのひ)」には、平右衛門(へいえもん)吉野(よしの)や、あちこちの(さくら)(なえ)をあつめ、この()()えたときざまれている。
川崎平右衛門

新田(しんでん)開発(かいはつ)

享保(きょうほう)改革(かいかく)
 享保(きょうほう)(がん)(ねん)(1716)、徳川(とくがわ)吉宗(よしむね)が8(だい)将軍(しょうぐん)になると、幕府(ばくふ)をたてなおすため、さまざまな改革(かいかく)がおこなわれた。
 倹約(けんやく)(れい)(ぜいたくをしてはいけない、という命令(めいれい))が()され年貢(ねんぐ)収入(しゅうにゅう)()やすことが(かんが)えられた。新田(しんでん)開発(かいはつ)もそのひとつとしておこなわれたものだ。

新田(しんでん)開発(かいはつ)(まえ)小平(こだいら)
 慶長(けいちょう)8(ねん)(1603)、家康(いえやす)江戸(えど)幕府(ばくふ)(ひら)くと、五日市(いつかいち)街道(かいどう)青梅(おうめ)街道(かいどう)は、江戸(えど)(じょう)手直(てなお)しするため、青梅(おうめ)成木(なりき)小曽木(おそぎ)から石灰(せっかい)(まき)(すみ)(はこ)大切(たいせつ)(みち)になった。
 街道(かいどう)(うま)()()でにぎわったが、田無(たなし)から箱根(はこね)(さき)(いま)瑞穂町(みずほまち))の(あいだ)、およそ20キロメートルは(ひと)()まない荒野(こうや)で、いちばんの難所(なんしょ)だったのだ。この荒野(こうや)にはなかつぎの宿(しゅく)必要(ひつよう)だった。

武蔵野(むさしの)新田(しんでん)開発(かいはつ)のはじまり
 武蔵野(むさしの)新田(しんでん)(おお)くは、享保(きょうほう)改革(かいかく)のころできたものだ。その(なか)では小川(おがわ)(むら)(ふる)(ほう)新田(しんでん)だ。けれど、小川(おがわ)(むら)より(まえ)にも、開発(かいはつ)をめざした(むら)があった。新町(しんまち)(むら)(いま)青梅市(おうめし))と砂川(すながわ)(むら)(いま)立川市(たちかわし))だ。このふたつの新田(しんでん)開発(かいはつ)にとても時間(じかん)がかかり、苦労(くろう)もしている。
 江戸(えど)時代(じだい)(はじ)めには、武蔵野(むさしの)(むら)では、農民(のうみん)(あたら)しい土地(とち)(うつ)るのは簡単(かんたん)ではなかったし、武蔵野(むさしの)台地(だいち)井戸(いど)()っても、なかなか(みず)がでてこない性質(せいしつ)土地(とち)だったから。
 江戸(えど)()りした家康(いえやす)は、()(みず)のための水道(すいどう)として神田(かんだ)上水(じょうすい)(つく)った。江戸(えど)天下(てんか)中心(ちゅうしん)になるとたちまち人口(じんこう)はふくれあがり、(みず)()りなくなってしまった。そこで承応(じょうおう)3(ねん)(1654)、玉川(たまがわ)上水(じょうすい)ができたのだ。
 多摩川(たまがわ)(みず)羽村(はむら)()()(ぐち)から武蔵野(むさしの)台地(だいち)(なが)れはじめ、この荒野(こうや)にも(ひと)()める条件(じょうけん)(ととの)った。

新田(しんでん)開発(かいはつ)って?
 江戸(えど)時代(じだい)におこなわれた耕地(こうち)(かい)たくのこと。(おお)がかりな土木(どぼく)工事(こうじ)戦国(せんごく)時代(じだい)(すえ)ごろからおこなわれたが、江戸(えど)時代(じだい)にはいると、(おお)きな(かわ)沿()って(ひら)土地(とち)(ひら)かれるようになった。(はじ)めのころは()んぼが、()んぼに()土地(とち)開発(かいはつ)しつくすと、(なか)ごろからは(はたけ)(ひら)かれていった。
 享保(きょうほう)改革(かいかく)のひとつとして、享保(きょうほう)7(ねん)(1722)に新田(しんでん)開発(かいはつ)をすすめる高札(こうさつ)江戸(えど)日本橋(にほんばし)()つと、いっそう(さか)んになった。耕地(こうち)(ひら)がるということは年貢(ねんぐ)をとる土地(とち)(ひら)がるということだし、それまで自分(じぶん)土地(とち)()てなかった農民(のうみん)にとってはチャンスだったんだ。
 小平の新田など

小川(おがわ)九郎兵衛(くろべえ)小川(おがわ)(むら)(かい)たく
 小川(おがわ)(むら)(かい)たく(しゃ)九郎兵衛(くろべえ)()まれた(いえ)は、(きし)(むら)(いま)武蔵村山市(むさしむらやまし))の郷士(ごうし)だった。郷士(ごうし)というのは、その土地(とち)にいついて、農業(のうぎょう)をしながら武士(ぶし)のあつかいをうける(ひと)のこと。
 小川(おがわ)()は、もとをたどると武蔵七党(むさししちとう)(ひと)つ、西党(にしとう)()。のち、後北条氏(ごほうじょうし)(つか)えるようになったが、天正(てんしょう)18(ねん)(1590)、後北条氏(ごほうじょうし)(ほろ)ぶと、(きし)(むら)()みついたのだ。
 承応(じょうおう)3(ねん)(1654)に玉川(たまがわ)上水(じょうすい)、よく承応(じょうおう)4(ねん)野火止(のびどめ)用水(ようすい)ができあがると、武蔵野(むさしの)台地(だいち)でいちばん(むずか)しい(みず)問題(もんだい)解決(かいけつ)できそうだ!と小川(おがわ)九郎兵衛(くろべえ)新田(しんでん)開発(かいはつ)決意(けつい)した。
 九郎兵衛(くろべえ)(まご)、九市が代官所(だいかんしょ)()した記録(きろく)にはこう()かれている。

 小川(おがわ)(むら)場所(ばしょ)は、東西(とうざい)田無(たなし)から箱根(はこね)(さき)へ、南北(なんぼく)府中(ふちゅう)から所沢(ところざわ)へ、2(ほん)(みち)交差(こうさ)する大事(だいじ)場所(ばしょ)なのに(まった)くのあれ()だ。(ひと)(うま)は、(あつ)(さむ)さや(わる)天気(てんき)のおり、()(みず)もなく、()(だお)れて()ぬことも(おお)かった。九郎兵衛(くろべえ)はこのことを()っていて、ここに新田(しんでん)(ひら)きたいと明暦(めいれき)2(ねん)(1656)、代官(だいかん)(ねが)()た。(なか)つぎの宿(しゅく)にもなれば、()()する(ひと)(うま)もずいぶん(たす)かる。
 西(にし)玉川(たまがわ)上水(じょうすい)野火止(のびどめ)用水(ようすい)分水(ぶんすい)口から、田無(たなし)(むら)まで開発(かいはつ)するように、と(ゆる)しがでたが、このあたり、土地(とち)()えていないから、(はじ)めは(かい)たくにくわわる農民(のうみん)(すく)なかったらしい。
 九郎兵衛(くろべえ)自分(じぶん)財産(ざいさん)をかけて、農民(のうみん)()みつかせ、開発(かいはつ)(ねが)いの(とき)約束(やくそく)どおり、石灰(せっかい)伝馬(てんま)とまわりの七か(そん)への伝馬(てんま)をうけ()って、よく明暦(めいれき)3(ねん)(1657)から、きちんと仕事(しごと)をつとめた。
 そのごほうびとして、九郎兵衛(くろべえ)屋敷地(やしきち)年貢(ねんぐ)のかからぬ土地(とち)にしてもらった。

新田(しんでん)開発(かいはつ)方法(ほうほう)
1.土豪(どごう)開発(かいはつ)新田(しんでん)
 土豪(どごう)とは、もと戦国(せんごく)大名(だいみょう)家臣(かしん)土地(とち)()ついた(もの)のこと。江戸(えど)時代(じだい)(はじ)めに(おお)開発(かいはつ)のかたち。
 土豪(どごう)などの有力者(ゆうりょくしゃ)自分(じぶん)財産(ざいさん)使(つか)い、(した)(ばたら)きの(もの)(うご)かして(むら)(ひら)く。(むら)ができるとそこの名主(なぬし)になる。小川(おがわ)(むら)はこのかたち。
2.(むら)請負(うけおい)新田(しんでん)
 (むら)(ひと)みんなで()めたこと、というかたちで新田(しんでん)開発(かいはつ)(ねが)いを()し、(あたら)しく(ひら)いた土地(とち)は、仕事(しごと)にたずさわった(ひと)たちに()けられる。(むら)新田(しんでん)責任(せきにん)()って開発(かいはつ)し、これを「(おや)(むら)」という。
(注意)(カッコ)の(なか)(おや)(むら)
 小川(おがわ)新田(しんでん)小川(おがわ)(むら))、大沼田(おおぬまた)新田(しんでん)大岱(おんた)(むら))、
 鈴木(すずき)新田(しんでん)貫井(ぬくい)(むら))、(めぐ)()新田(しんでん)(めぐ)()(むら))はここにはいる。
3.町人(ちょうにん)請負(うけおい)新田(しんでん)
 お(かね)()っている町人(ちょうにん)開発(かいはつ)()()い、(はたら)()(あつ)めておこなう。土地(とち)(ひら)くと、農民(のうみん)()まわせ、小作人(こさくにん)にする。(小作人(こさくにん)というのは、土地(とち)()りて農業(のうぎょう)をする(ひと)開発(かいはつ)(にん)地主(じぬし)になるわけ。
 このタイプの新田(しんでん)は、町人(ちょうにん)(かね)()ちになってきて、社会的(しゃかいてき)にも(ちから)()ちはじめた元禄(げんろく)時代(じだい)ごろからあらわれる。
4.百姓(ひゃくしょう)寄合(よりあい)新田(しんでん)
 ちょっと()町人(ちょうにん)請負(うけおい)新田(しんでん)()ているけれど、性格(せいかく)がちがう!
 有力(ゆうりょく)農民(のうみん)町人(ちょうにん)1人(ひとり)数人(すうにん)開発(かいはつ)(ねが)いを()し、さらに仲間(なかま)(あつ)め、おこなう。
 (ひら)いた土地(とち)()したお(かね)(がく)によって()ける。
 江戸(えど)時代(じだい)(なか)ごろからあらわれたかたち。
 野中(のなか)新田(しんでん)はこれだ。

入村(にゅうそん)請書(うけしょ)
 小川(おがわ)(むら)(うつ)って()農民(のうみん)は、証人(しょうにん)をたて、新田(しんでん)開発(かいはつ)(にん)小川(おがわ)九郎兵衛(くろべえ)につぎのような証文(しょうもん)証拠(しょうこ)文書(ぶんしょ))を()れた。

私が保証します!

  • この(もの)身元(みもと)がたしかです。法律(ほうりつ)にそむいたり、(わる)いことをした(とき)証人(しょうにん)責任(せきにん)()います。
  • この(もの)(かい)たくに()ることはどこからも文句(もんく)はでない。もし文句(もんく)がでたら、証人(しょうにん)がどこまでも(もう)しひらきします。
  • 屋敷地(やしきち)()けてもらったからには、いつであろうとあなた(九郎兵衛(くろべえ)のこと)の(おも)うとおりに(いえ)(つく)り、ひっこしをさせます。
  • 御伝馬継(ごてんまつぎ)新田(しんでん)だから、(かい)たくに()(もの)(うま)()って、幕府(ばくふ)仕事(しごと)や、その()(やく)をつとめます。
  • この(もの)禁止(きんし)されているキリスト(きょう)信者(しんじゃ)ではありません。

証人(しょうにん)になるのはたいてい(ほん)百姓(びゃくしょう)
(ほん)百姓(びゃくしょう)というのは、自分(じぶん)田畑(たはた)()ち、年貢(ねんぐ)を納める力を()った農民(のうみん)のことだ。

地割(ちわり)
武蔵野(むさしの)新田(しんでん)は、その(おお)くがきちんとした地割(ちわり)土地(とち)区切(くぎ)(かた))をしている。
小川(おがわ)(むら)屋敷地(やしきち)耕地(こうち)青梅(おうめ)街道(かいどう)直角(ちょっかく)(たん)ざくの(かたち)区切(くぎ)られていた。屋敷(やしき)のうら(がわ)には玉川(たまがわ)上水(じょうすい)から()いてきた上水道(じょうすいどう)(とお)っている。()(みず)から(せん)たくまでこの(みず)使(つか)う。しかし、大切(たいせつ)(みず)だから(かわ)直接(ちょくせつ)(せん)たくはしなかったんだ。
地割の一例
(なが)さの単位(たんい)
1(けん) =およそ1.82メートル

(ひら)さの単位(たんい)
1()=1(つぼ)(おな)じ。およそ3.3平方メートル、つまり(たたみ)2枚分(まいぶん)(ひら)さ。
1()=30() およそ99平方メートル
1(たん)=300() およそ992平方メートル

このころ、毎年(まいとし)作物(さくもつ)()える(はたけ)は、作物(さくもつ)種類(しゅるい)には関係(かんけい)なく、よく収穫(しゅうかく)ができる()えた土地(とち)かどうかによって「上畑」「中畑」「下畑」「下々畑」「山畑」というふうに()けられていた。

小平(こだいら)新田(しんでん)

小平の新田

1.小川(おがわ)(むら)
小川(おがわ)(ちょう)1・2丁目(ちょうめ)小川(おがわ)西町(にしまち)小川(おがわ)東町(ひがしちょう)栄町(さかえちょう)、たかの(だい)津田町(つだまち)中島町(なかじまちょう)のあたり。それと、学園(がくえん)西町(にしまち)一部分(いちぶぶん)。)
 (きし)(むら)(いま)武蔵村山市(むさしむらやまし))の小川(おがわ)九郎兵衛(くろべえ)開発(かいはつ)小平(こだいら)最初(さいしょ)開発(かいはつ)された場所(ばしょ)だ。けれど荒野(こうや)のまん(なか)土地(とち)()えていないから、(かい)たくをしようという農民(のうみん)(すく)ない。九郎兵衛(くろべえ)自分(じぶん)財産(ざいさん)をそそいで、ここに(ひと)()みつかせようと(つと)めた。
 また、(みず)()()れることも、ひとつの問題(もんだい)だ。宝永(ほうえい)(がん)(ねん)(1704)、その(とき)名主(なぬし)政右衛門(まさえもん)代官(だいかん)()した手紙(てがみ)事情(じじょう)がしのばれる。
「この()原野(げんや)()(みず)がなく、井戸(いど)()ったが、27~29メートル()っても(みず)()ないので、開発(かいはつ)()きづまってしまいました。代官(だいかん)(さま)(もう)()げたら、玉川(たまがわ)上水(じょうすい)(みず)()けてくださり、おかげで開発(かいはつ)ができました。」

2.鈴木(すずき)新田(しんでん)
上水(じょうすい)本町(ほんちょう)のほとんどと上水(じょうすい)新町(しんまち)ちょっぴり=(かみ)鈴木(すずき)という
鈴木(すずき)町1・2丁目(ちょうめ)御幸町(みゆきちょう)花小金井(はなこがねい)南町(みなみちょう)1~3丁目(ちょうめ)あたり、天神町(てんじんちょう)1丁目(ちょうめ)一部分(いちぶぶん)(しも)鈴木(すずき)という)
 貫井(ぬくい)(むら)(いま)小金井市(こがねいし))の名主(なぬし)鈴木(すずき)利左衛門(りざえもん)重広(しげひろ)開発(かいはつ)(ねが)いを()す。資金(しきん)上総国(かずさのくに)万石(まんごく)(むら)(いま)千葉県(ちばけん)君津市(きみつし))の商人(しょうにん)野中屋(のなかや)善左衛門(ぜんざえもん)()した。善左衛門(ぜんざえもん)野中(のなか)新田(しんでん)開発(かいはつ)にかかわる2(ねん)(まえ)享保(きょうほう)6(ねん)(1721)のことだ。鈴木(すずき)新田(しんでん)開発(かいはつ)(ねが)(にん)(なか)に、野中(のなか)新田(しんでん)開発(かいはつ)(ねが)(にん)のひとり、元右衛門(もとえもん)()がはいっている。鈴木(すずき)新田(しんでん)野中(のなか)新田(しんでん)(かか)わりが(ふか)いみたい。
 利左衛門(りざえもん)開発(かいはつ)にとりかかった矢先(やさき)享保(きょうほう)10(ねん)(1725)6(がつ)病死(びょうし)。その()は、息子(むすこ)利左衛門(りざえもん)春昌(はるまさ)()いだ。享保(きょうほう)9(ねん)から11(ねん)までの3年間(ねんかん)、1(ねん)に4(こく)8()5(しょう)(こめ)(おさ)める約束(やくそく)利左衛門(りざえもん)春昌(はるまさ)(まも)りきれなかった。
 そのため、享保(きょうほう)11(ねん)6(がつ)11(にち)に、代官所(だいかんしょ)はこの新田(しんでん)責任者(せきにんしゃ)利左衛門(りざえもん)春昌(はるまさ)から、善左衛門(ぜんざえもん)元右衛門(もとえもん)()えてしまった。鈴木(すずき)新田(しんでん)野中(のなか)新田(しんでん)一部(いちぶ)になってしまったかっこうだけれど、享保(きょうほう)17(ねん)(1732)野中(のなか)新田(しんでん)(むら)()けの(とき)利左衛門(りざえもん)(ふたた)名主(なぬし)となり、鈴木(すずき)新田(しんでん)独立(どくりつ)
 ここには(すく)しばかり水田(すいでん)もあった。長久保(ながくぼ)(いま)花小金井(はなこがねい)(みなみ)3丁目(ちょうめ)あたり)の(ひく)湿地(しっち)享保(きょうほう)19(ねん)(1734)玉川(たまがわ)上水(じょうすい)から(みず)()いてつくったのだ。

3.小川(おがわ)新田(しんでん)
仲町(なかまち)学園(がくえん)東町(ひがしちょう)喜平町(きへいちょう)上水(じょうすい)新町(しんまち)のあたり。それと学園(がくえん)西町(にしまち)上水(じょうすい)本町(ほんちょう)一部分(いちぶぶん)。)
 小川(おがわ)(むら)では(はや)くから、(ひがし)()(つづ)きを開発(かいはつ)したいと(おも)っていた。享保(きょうほう)7(ねん)(1722)9(がつ)小川(おがわ)(むら)名主(なぬし)市郎兵衛(いちろべえ)とその()弥市(やいち)神明宮(しんめいぐう)神主(かんぬし)宮崎(みやざき)主馬(しゅめ)が「一本(いっぽん)(えのき)」のところまで開発(かいはつ)(ねが)()て、享保(きょうほう)9(ねん)(1724)5(がつ)(ゆる)された。
 この()(つづ)きの開発(かいはつ)()は「小川(おがわ)新田(しんでん)」と()づけられ、それまでの小川(おがわ)新田(しんでん)は「小川(おがわ)(むら)」と()ぶことにした。
 最初(さいしょ)小川(おがわ)(むら)小川(おがわ)新田(しんでん)()ばれていたんだね。

4.野中(のなか)新田(しんでん)
善左衛門(ぜんざえもん)(ぐみ) 上水(じょうすい)南町(みなみちょう)…ここを(ほり)野中(のなか)という、花小金井(はなこがねい)6丁目(ちょうめ)全部(ぜんぶ)鈴木(すずき)(ちょう)1丁目(ちょうめ)天神町(てんじんちょう)1・2丁目(ちょうめ)御幸町(みゆきちょう)のそれぞれ一部分(いちぶぶん)などがはいる。)
与右衛門(よえもん)(ぐみ) 花小金井(はなこがねい)1~5丁目(ちょうめ)花小金井(はなこがねい)南町(みなみちょう)3丁目(ちょうめ)のあたりと天神町(てんじんちょう)2丁目(ちょうめ)大沼町(おおぬまちょう)1丁目(ちょうめ)一部分(いちぶぶん)
六左衛門(ろくざえもん)(ぐみ)榎戸(えのきど)新田(しんでん)
国分寺市(こくぶんじし)北町(きたまち)並木町(なみきちょう)新町(しんまち)高木町(たかぎちょう)戸倉(とくら)東戸倉(ひがしとくら)富士本(ふじもと)日吉町(ひよしちょう)光町(ひかりちょう)のあたりで、おたがいこんなふうに()りくんでいた。
まためまい?
 上谷保(かみやほ)(むら)(いま)国立市(くにたちし))の農民(のうみん)矢沢(やざわ)藤八(とうはち)円成院(えんじょういん)住職(じゅうしょく)大堅(たいけん)開発(かいはつ)計画(けいかく)野中屋(のなかや)善左衛門(ぜんざえもん)資金(しきん)()すよう(たの)んで、そのかわり、「矢沢(やざわ)新田(しんでん)」と()づける予定(よてい)を「野中(のなか)新田(しんでん)」にかえた。
 この新田(しんでん)面積(めんせき)(ひら)すぎて、まとまりも(わる)く、年貢(ねんぐ)(あつ)めるにも不便(ふべん)だった。そこで、享保(きょうほう)17(ねん)(1732)10(がつ)(きた)野中(のなか)(とおり)野中(のなか)(みなみ)野中(のなか)の3(くみ)()けられ、名主(なぬし)もそれぞれ与右衛門(よえもん)善左衛門(ぜんざえもん)六左衛門(ろくざえもん)がなった。
 この新田(しんでん)のおもしろいところは、名主(なぬし)が3(にん)とも農民(のうみん)ではなく、江戸(えど)町人(ちょうにん)であるところ。開発(かいはつ)のはじめ、仲間(なかま)であった藤八(とうはち)元右衛門(もとえもん)ら、上谷保(かみやほ)(むら)農民(のうみん)半分(はんぶん)は、享保(きょうほう)11(ねん)(1926)までには、土地(とち)手放(てばな)してしりぞいてしまっている。
 (みなみ)野中(のなか)六左衛門(ろくざえもん)(ぐみ)は、(いま)国分寺市(こくぶんじし)にはいっている。
 (おな)じく、国分寺市(こくぶんじし)榎戸(えのきど)新田(しんでん)も、享保(きょうほう)10(ねん)(1725)に、(はじ)(みなみ)野中(のなか)新田(しんでん)農民(のうみん)として()()らねている角左衛門(かくざえもん)という(ひと)(ひら)いたもの。
 だから、野中(のなか)新田(しんでん)範囲(はんい)って、本当(ほんとう)(ひら)かった!

5.大沼田(おんた/おおぬまた)新田(しんでん)
大沼町(おおぬまちょう)1・2丁目(ちょうめ)美園町(みそのちょう)のあたり。)
 大岱(おんた)(むら)(いま)東村山市(ひがしむらやまし))の名主(なぬし)当麻(たいま)弥左衛門(やざえもん)開発(かいはつ)大岱(おんた)(むら)は「大沼田」とも「大怒田」とも()いたので、新田(しんでん)()も「大沼田新田(しんでん)」とつけられたという。
 寛保(かんぽ)(がん)(ねん)(1741)、この新田(しんでん)に、川崎(かわさき)平右衛門(へいえもん)()(みず)(よう)などに2つの井戸(いど)(つく)り、生活(せいかつ)使(つか)(みず)をととのえてくれた。
 また()(みず)(のこ)りを利用(りよう)して、(なん)(しょ)かのくぼ()に1600(つぼ)くらいの水田(すいでん)もつくられた。
「おんた」と()ばれていたのか「おおぬまた」と()ばれていたのかちょっとわからない。(いま)()(かた)だと「おおぬまた」だけど(おや)(むら)のよみの「おんた」に「大沼田」という()をあてていたのかもしれないからね。

6.(めぐ)()新田(しんでん)
回田町(めぐりたちょう)あたり。それに鈴木(すずき)(ちょう)1丁目(ちょうめ)ちょっぴり)
 この新田(しんでん)(めぐ)()(むら)(いま)東村山市(ひがしむらやまし))が草刈(くさか)()として野中(のなか)新田(しんでん)から土地(とち)()ったのがはじまり。だから、(ほか)新田(しんでん)とでき(かた)がちょっと(ちが)う。まわりがどんどん武蔵野(むさしの)新田(しんでん)として開発(かいはつ)され、農業(のうぎょう)()かせない「たい()」を(つく)るための(くさ)()場所(ばしょ)(すく)なくなってきたから、土地(とち)確保(かくほ)したかったんだ。だから元文(げんぶん)(がん)(ねん)(1736)の検地(けんち)のとき、農民(のうみん)(だれ)もここに()みついていなかった。川崎(かわさき)平右衛門(へいえもん)は、「ここに()みついて、農業(のうぎょう)をするように」と(きび)しく(もう)しつけ、宝暦(ほうれき)5(ねん)(1755)くらいには、新田(しんでん)(むら)らしくなったらしい。

どういう意味?ちょっと説明

御伝馬継(ごてんまつぎ)
 伝馬(てんま)は、宿(しゅく)(えき)(あいだ)往復(おうふく)して荷物(にもつ)などを(はこ)(うま)のこと。
 伝馬(てんま)制度(せいど)古代(こだい)からある。家康(いえやす)がこの制度(せいど)をしいたのは慶長(けいちょう)6(ねん)(1601)。東海道(とうかいどう)がはじまりだった。街道(かいどう)宿(しゅく)()をつくり、宿(しゅく)ごとに(うま)()き、もっぱら幕府(ばくふ)用事(ようじ)使(つか)った。
 中山道(なかせんどう)甲州(こうしゅう)街道(かいどう)とほかの街道(かいどう)もつぎつぎと伝馬(てんま)施設(しせつ)がつくられていった。幕府(ばくふ)のご(よう)となれば、(ひる)(よる)もなく、(とな)りの宿(しゅく)まで(うま)(はし)らせなければならない。実際(じっさい)にこの仕事(しごと)負担(ふたん)する(ひと)たちは大変(たいへん)だったろう。
 小川(おがわ)(むら)江戸(えど)石灰(せっかい)(はこ)ぶための宿(しゅく)でもあったから、農民(のうみん)たちは、(かい)たくのかたわら(うま)世話(せわ)をしたり、交代(こうたい)石灰(せっかい)(はこ)んだりしていたのだ。

高札のイラスト 高札(こうさつ)
 法律(ほうりつ)命令(めいれい)をみんなに()らせるための()(ふだ)のこと。
 これも古代(こだい)からあったらしいけど、江戸(えど)幕府(ばくふ)はこの方法(ほうほう)をよく使(つか)った。
 名主(なぬし)(いえ)(まえ)などの目立(めだ)場所(ばしょ)にたてられていた。

検地(けんち)
 この言葉(ことば)戦国(せんごく)時代(じだい)から使(つか)われている。領主(りょうしゅ)が、自分(じぶん)領地(りょうち)がどのくらあるか()るためにする調査(ちょうさ)のことだ。
 農民(のうみん)(たがや)田畑(たはた)や、屋敷地(やしきち)面積(めんせき)をはかり、この(ひら)さならどれくらい収穫(しゅうかく)があるはずかを計算(けいさん)する。
 全国(ぜんこく)、ほぼ(おな)基準(きじゅん)でおこなった秀吉(ひでよし)太閤(たいこう)検地(けんち)有名(ゆうめい)江戸(えど)幕府(ばくふ)もはじめ、このやり(かた)をまねた。
 これによって年貢(ねんぐ)()まるのだから、農民(のうみん)にとっては大事(だいじ)なのだ。

代官(だいかん)
 もともとは主君(しゅくん)のかわりにある(やく)(つと)めをおこなう(ひと)をこう()んだ。江戸(えど)時代(じだい)には代官(だいかん)制度(せいど)がきちんと(ととの)えられて、幕府(ばくふ)(はん)直接(ちょくせつ)支配(しはい)する土地(とち)管理(かんり)する地方(ちほう)役人(やくにん)()()になった。年貢(ねんぐ)をあつめたり、裁判所(さいばんしょ)のような役目(やくめ)をしたりした。
大変だよね

参考(さんこう)にした(ほん)

小平の「古文書目録」いろいろ
「小平事始め年表索引(稿)」
「小平町誌」
「郷土こだいら」
「角川地名大辞典」
「平凡社大百科事典」
「府中市史上編」
「玉川上水の碑」
「多摩の歴史3」
「武蔵野の集落」ほか…

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9.小平はじめて物語 10.戦争と小平
13.小平こだいらの道 14.小平歳時記
15.小平の新田 16.古い地名
19.公園に行こうよ! 26.小平のごちそう うどん
36.ぼくらの町の仕事(1)こだいらの農業 37.ぼくらの町の仕事(2)こだいらの商業
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