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12. 多摩(たま)戦国(せんごく)絵巻(えまき)

戦国(せんごく)時代(じだい)多摩(たま)

後北条氏の支城  足利尊氏(あしかがたかうじ)のひらいた室町(むろまち)幕府(ばくふ)も、1467(ねん)応仁(おうにん)(らん)(注釈)以降(いこう)おとろえた。
 ()(なか)(みだ)れ、守護(しゅご)大名(だいみょう)にかわり、(あたら)しくおこってきた戦国(せんごく)大名(だいみょう)たちが各地(かくち)領国(りょうごく)をつくる。
 関東(かんとう)北条早雲(ほうじょうそううん)遠江(とおとうみ)駿河(するが)今川氏(いまがわし)山城(やましろ)油売(あぶらう)りから()をおこした美濃(みの)斎藤(さいとう)道三(どうさん)らはこの下克上(げこくじょう)時代(じだい)代表(だいひょう)選手(せんしゅ)だ。
 早雲(そううん)初代(しょだい)として伊豆(いず)からおこり、相模(さがみ)領主(りょうしゅ)となった後北条氏(ごほうじょうし)が、関東(かんとう)支配(しはい)をめざし、武蔵(むさし)進出(しんしゅつ)したのは二代目(にだいめ)氏綱(うじつな)のとき。氏綱(うじつな)は1524(ねん)扇谷上杉氏(おうぎがやうえすぎし)江戸城(えどじょう)()めおとした。城主(じょうしゅ)上杉朝興(うえすぎともおき)武蔵(むさし)河越城(かわごえじょう)埼玉県(さいたまけん)川越市(かわごえし))に追放(ついほう)。1537(ねん)には、その河越城(かわごえじょう)()めおとしている。
 三代目(さんだいめ)氏康(うじやす)のとき、関東(かんとう)管領(かんれい)山内(やまのうち)上杉憲政(うえすぎのりまさ)扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)朝定(ともさだ)朝興(ともおき)())は、後北条氏(ごほうじょうし)(たお)そうと()をむすんだ。1546(ねん)古河公方(こがくぼう)足利晴氏(あしかがはるうじ)(くわ)わって、河越城(かわごえじょう)攻撃(こうげき)。この(たたか)いで朝定(ともさだ)戦死(せんし)扇谷上杉氏(おうぎがやつうえすぎし)(ほろ)んだ。後北条氏(ごほうじょうし)にとって、ふるくから関東(かんとう)勢力(せいりょく)()上杉氏(うえすぎし)は、いずれ(たお)すべき相手(あいて)だったのだ。
 ところで多摩郡(たまぐん)には、大石氏(おおいしし)三田氏(みたし)二大(にだい)勢力(せいりょく)があった。両氏(りょうし)とも関東(かんとう)管領(かんれい)上杉氏(うえすぎし)重臣(じゅうしん)で、多摩(たま)名族(めいぞく)だ。氏康(うじやす)二男(じなん)氏照(うじてる)養子(ようし)として大石氏(おおいしし)のもとに(おく)りこみ、姻戚(いんせき)関係(かんけい)結婚(けっこん)して(しん)せきになること。氏照(うじてる)大石定久(おおいしさだひさ)(むすめ)結婚(けっこん)した。)を(むす)んだ。1546(ねん)のことだ。
 氏照(うじてる)多摩郡(たまぐん)南部(なんぶ)大石氏(おおいしし)領土(りょうど)をうけついだ。一方(いっぽう)多摩(たま)北部(ほくぶ)から高麗郡(こまぐん)(ちから)()三田氏(みたし)は、いぜんとして後北条氏(ごほうじょうし)には障害物(しょうがいぶつ)だった。1563(ねん)ごろ、この三田氏(みたし)(ほろ)ぼして氏照(うじてる)八王子領(はちおうじりょう)支配(しはい)も、(たし)かなものとなったのだ。

(注釈)応仁(おうにん)(らん)将軍家(しょうぐんけ)有力(ゆうりょく)守護(しゅご)大名(だいみょう)()相続(そうぞく)(あらそ)いから()きた戦乱(せんらん)

早雲(そううん)のおこした北条氏(ほうじょうし)後北条氏(ごほうじょうし)とか、小田原北条氏(おだわらほうじょうし)とかよばれている。
これは、鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)執権(しっけん)だった北条氏(ほうじょうし)区別(くべつ)するためだ。

ちょっとひとこと!!
小川村(おがわむら)開拓(かいたく)した小川(おがわ)九郎兵衛(くろべえ)先祖(せんぞ)小川(おがわ)弥四郎(やしろう)義勝(よしかつ)もこの河越(かわごえ)合戦(かっせん)(とき)に22(さい)戦死(せんし)したと伝えられている。
小川(おがわ)()先祖(せんぞ)武蔵(むさし)武士(ぶし)として(かつ)やくしていたのだ!!

戦国(せんごく)時代(じだい)大名(だいみょう)(なか)よくなったり(たたか)ったり、また(なか)よくなったり、いそがしいのだ。
結婚(けっこん)だの、養子(ようし)だのと息子(むすこ)(むすめ)もいそがしい。
一族(いちぞく)命運(めいうん)()けた(いのち)がけのおつき()いだしね。

後北条氏家系図

後北条氏(ごほうじょうし)年表(ねんぴょう)

後北条氏年表
できごと
1476
文明(ぶんめい)8)年
  駿河(するが)守護(しゅご)今川(いまがわ)()相続(そうぞく)(あらそ)いを、早雲(そううん)太田(おおた)道灌(どうかん)とともに(なか)(なお)りさせる。
この(とき)、ふたりは45(さい)(おな)(どし)
1491
延徳(えんとく)3)年
  この(とし) 早雲(そううん)伊豆(いず)韮山(にらやま)堀越(ほりごえ)公方(くぼう)足利家(あしかがけ)のうちわもめに(じょう)じて、伊豆(いず)()()る。
足利(あしかが)茶々丸(ちゃちゃまる)()たれる。
1495
明応(めいおう)4)年
9月 早雲(そううん)城主(じょうしゅ)大森藤頼(おおもりふじより)をやぶり、小田原城(おだわらじょう)をとる。
«関東(かんとう)進出(しんしゅつ)第一歩(だいいっぽ)»
1516
永正(えいしょう)13)年
7月 早雲(そううん)相模国(さがみのくに)征服(せいふく)する。
1519
永正(えいしょう)16)年
8月 早雲(そううん)伊豆国(いずのくに)韮山(にらやま)(じょう)(ぼっ)する。
1524
大永(たいえい)4)年
1月 氏綱(うじつな)上杉朝興(うえすぎともおき)をやぶり、江戸城(えどじょう)()めとる。
朝興(ともおき)河越(かわごえ)埼玉県(さいたまけん)川越市(かわごえし))に()げた。
«武蔵国(むさしのくに)進出(しんしゅつ)第一歩(だいいっぽ)»
1537
天文(てんぶん)6)年
  氏綱(うじつな)今川(いまがわ)義元(よしもと)(たたか)う。河越城(かわごえじょう)()めおとす。
«武蔵国(むさしのくに)ほぼ征服(せいふく)»
1540
天文(てんぶん)9)年
  氏照(うじてる) ()まれる。(生年(しょうねん)他説(たせつ)あり。)
1541
天文(てんぶん)10)年
7月 氏綱(うじつな)(ぼっ)する。
1546
天文(てんぶん)15)年
4月 氏康(うじやす)河越(かわごえ)扇谷上杉氏(おうぎがやつうえすぎし)(ほろ)ぼす。«河越(かわごえ)夜戦(やせん)»
この(とし)氏照(うじてる)大石氏(おおいしし)養子(ようし)となる。
1552
天文(てんぶん)21)年
1月 関東(かんとう)管領(かんれい)上杉憲政(うえすぎのりまさ)氏康(うじやす)()われ、上野国(こうずけのくに)より越後国(えちごのくに)へ、長尾(ながお)景虎(かげとら)上杉謙信(うえすぎけんしん))を(たよ)って()く。
1561
永禄(えいろく)4)年
2月 氏照(うじてる)滝山城(たきやまじょう)にはいる。
3月 氏康(うじやす)氏政(うじまさ)父子(ふし)長尾(ながお)景虎(かげとら)小田原城(おだわらじょう)攻撃(こうげき)をしりぞける。
1563
永禄(えいろく)6)年
  この(ころ)三田氏(みたし)(ほろ)ぶ。
1569
永禄(えいろく)12)年
10月 武田信玄(たけだしんげん)小田原(おだわら)にせまり、滝山城(たきやまじょう)攻撃(こうげき)をうける。
氏照(うじてる)(ぐん)廿里(とどり)などで()にものぐるいの(たたか)いをくりひろげ、落城(らくじょう)をまぬがれる。«滝山(たきやま)合戦(かっせん)»
1573
天正(てんしょう)元)年
4月 武田信玄(たけだしんげん)(ぼっ)する。
7月 室町(むろまち)幕府(ばくふ)(ほろ)びる。
1578
天正(てんしょう)6)年
3月 上杉謙信(うえすぎけんしん)(ぼっ)する。
1580
天正(てんしょう)8)年
3月 氏照(うじてる)(ぐん)武田勝頼(たけだかつより)信玄(しんげん)())と武蔵国(むさしのくに)各地(かくち)対戦(たいせん)する。
同月 氏照(うじてる)安土(あづち)使者(ししゃ)()し、信長(のぶなが)近付(ちかづ)きになろうとする。武田勝頼(たけだかつより)上杉(うえすぎ)景勝(かげかつ)らに対抗(たいこう)するためだ。
1582
天正(てんしょう)10)年
3月 信長(のぶなが)(ぐん)武田勝頼(たけだかつより)(ほろ)ぼす。
6月 明智光秀(あけちみつひで)襲撃(しゅうげき)をうけ、信長(のぶなが)自殺(じさつ)。«本能寺(ほんのうじ)(へん)»
羽柴(はしば)秀吉(ひでよし)豊臣(とよとみ)秀吉(ひでよし))、明智光秀(あけちみつひで)をやぶる。
1585
天正(てんしょう)13)年
3月 後北条氏(ごほうじょうし)小田原城(おだわらじょう)韮山(にらやま)(じょう)普請(ふしん)をする。
(普請=たてたり、(なお)したりすること)
7月 秀吉(ひでよし)関白(かんぱく)となる。
1586
天正(てんしょう)14)年
12月 秀吉(ひでよし)太政(だいじょう)大臣(だいじん)となり、豊臣(とよとみ)(せい)をうける。
1587
天正(てんしょう)15)年
1月 後北条氏(ごほうじょうし)小田原城(おだわらじょう)普請(ふしん)
5月 秀吉(ひでよし)九州(きゅうしゅう)平定(へいてい)
9月 氏直(うじなお)鉄砲(てっぽう)鋳造(ちゅうぞう)にとりかかる。
1588
天正(てんしょう)16)年
1月 氏照(うじてる)各地(かくち)八王子(はちおうじ)守備(しゅび)命令(めいれい)()す。
兵糧(ひょうろう)確保(かくほ)人質(ひとじち)として妻子(さいし)八王子城(はちおうじじょう)()れることなどを(めい)ず。«戦争(せんそう)準備(じゅんび)»
4月 秀吉(ひでよし)大名(だいみょう)たちに関白(かんぱく)秀吉(ひでよし))への忠誠(ちゅうせい)(ちか)わせる。後北条氏(ごほうじょうし)出仕(しゅっし)せず。
1589
天正(てんしょう)17)年
11月 秀吉(ひでよし)(しょ)大名(だいみょう)北条(ほうじょう)討伐(とうばつ)準備(じゅんび)をさせる。
1590
天正(てんしょう)18)年
4月 4日 秀吉(ひでよし)小田原城(おだわらじょう)をかこむ。
27日 江戸城(えどじょう)開城(かいじょう)。(開城=(しろ)をひらいて降参(こうさん)すること)
5月 20日 岩付(いわつき)(じょう)開城(かいじょう)
6月 14日 鉢形城(はちがたじょう)開城(かいじょう)
23日 八王子城(はちおうじじょう)攻撃(こうげき)をうけ、その()のうちに落城(らくじょう)
7月 5日 氏直(うじなお)秀吉(ひでよし)降伏(こうふく)
6日 秀吉(ひでよし)小田原城(おだわらじょう)()()れる。
11日 秀吉(ひでよし)氏政(うじまさ)氏照(うじてる)切腹(せっぷく)させる。 氏直(うじなお)高野山(こうやさん)(なが)される。
13日 秀吉(ひでよし)家康(いえやす)関八州(かんはっしゅう)(あた)える。
8月 1日 家康(いえやす)江戸城(えどじょう)にはいる。

戦国(せんごく)登場(とうじょう)人物(じんぶつ)

戦国(せんごく)大名(だいみょう)ののぞみは…。(きょう)にのぼって、天下(てんか)統一(とういつ)すること。
そのためには、合戦(かっせん)()つばかりではなく、()をむすびあったり、はかりごとをしたり、大変(たいへん)なのだった。

北条(ほうじょう) 早雲(そううん) (1432~1519年)
北条早雲  伊勢(いせ)新九郎(しんくろう)長氏(ながうじ)入道(にゅうどう)してからは早雲(そううん)庵宗瑞(あんそうずい)()のった。「北条(ほうじょう)」を()のるようになったのは、二代目(にだいめ)氏綱(うじつな)から。
 早雲(そううん)出身(しゅっしん)ははっきりしていない。(いえ)がらや()すじを()にする(ひと)ではなかったらしい。(いもうと)駿河(するが)守護(しゅご)今川(いまがわ)義忠(よしただ)(つま)であった(えん)で、今川氏(いまがわし)()をよせた。
 (おな)(どし)太田(おおた)道灌(どうかん)は55(さい)(はか)(ころ)されてしまったが、早雲(そううん)関東(かんとう)活躍(かつやく)したのは、60(さい)()えてから。うーん、大器(たいき)晩成(ばんせい)
 連歌師(れんがし)宗長(そうちょう)は、早雲(そううん)を「(はり)ほどのものも(くら)につむほどの(たくわ)(かた)をしながら、合戦(かっせん)費用(ひよう)には、貴重(きちょう)(たま)でさえ(くだ)いて使(つか)(ひと)」だと()っている。
 戦乱(せんらん)()を88(さい)まで()きぬいたのは、とにかくすごい。

古河公方と堀越公方
 足利(あしかが)成氏(しげうじ)とその子孫(しそん)をいう。
 成氏(しげうじ)は、1449(ねん)鎌倉(かまくら)公方(くぼう)になったが、1454(ねん)関東(かんとう)管領(かんれい)上杉(うえすぎ)憲忠(のりただ)(ころ)し、室町(むろまち)幕府(ばくふ)対立(たいりつ)
 1455(ねん)下総(しもうさ)古河城(こがじょう)(うつ)り、足利(あしかが)政知(まさとも)堀越(ほりこし)公方(くぼう)対抗(たいこう)して古河公方(こがくぼう)()のった。
 反抗(はんこう)して古河(こが)にいってしまった成氏(しげうじ)()つため、幕府(ばくふ)は1457(ねん)足利(あしかが)政知(まさとも)義政(よしまさ)(おとうと))をむかわせた。が、政知(まさとも)には(ちから)がなくて、鎌倉(かまくら)にははいれず、伊豆(いず)韮山(にらやま)堀越(ほりこし)にとどまり、堀越(ほりこし)公方(くぼう)()のって古河公方(こがくぼう)対抗(たいこう)
 その死後(しご)は、子の茶々丸(ちゃちゃまる)がついだが、1491(ねん)早雲(そううん)(ほろ)ぼされた。

古河公方(こがくぼう)堀越(ほりこし)公方(くぼう)対立(たいりつ)する。山内(やまのうち)扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)対立(たいりつ)する…。
で、関東(かんとう)戦乱(せんらん)のまっさかり!

上杉氏(うえすぎし)
 足利尊氏(あしかがたかうじ)直義(ただよし)兄弟(きょうだい)(はは)上杉氏(うえすぎし)出身(しゅっしん)だったことから、足利(あしかが)()(おも)(もち)いられた。山内(やまのうち)宅間(たくま)犬懸(いぬがけ)扇谷(おうぎがやつ)越後(えちご)各家(かくけ)()かれたが、(なか)でも山内(やまのうち)上杉(うえすぎ)関東(かんとう)管領(かんれい)(しょく)鎌倉(かまくら)公方(くぼう)仕事(しごと)(たす)ける(やく))を独占(どくせん)上野(こうずけ)伊豆(いず)武蔵(むさし)相模(さがみ)など関東(かんとう)勢力(せいりょく)()っていた。
 15世紀(せいき)後半(こうはん)に、古河公方(こがくぼう)足利(あしかが)成氏(しげうじ)との対立(たいりつ)や、山内(やまのうち)扇谷(おうぎがやつ)(りょう)上杉(うえすぎ)()対立(たいりつ)(ちから)がおとろえた。
 山内(やまのうち)上杉憲政(うえすぎのりまさ)は、1546(ねん)河越(かわごえ)夜戦(やせん)北条(ほうじょう)氏康(うじやす)にやぶれ、越後(えちご)長尾(ながお)景虎(かげとら)(のちの上杉謙信(うえすぎけんしん))に上杉(うえすぎ)(せい)関東(かんとう)管領(かんれい)(しょく)をゆずってしまった。

武田(たけだ) 信玄(しんげん) (1521~1573年)
 領国(りょうごく)甲斐(かい)をかためて、1555(ねん)には、信濃(しなの)長野(ながの))の一帯(いったい)()めとった。そのため、上杉謙信(うえすぎけんしん)対立(たいりつ)することになった。
 (なか)でも1561(ねん)川中島(かわなかじま)(たたか)いは有名(ゆうめい)
 1570(ねん)には駿河(するが)()わせ、中部(ちゅうぶ)地方(ちほう)広大(こうだい)領国(りょうごく)をつくり、織田(おだ)信長(のぶなが)とも対立(たいりつ)。1572(ねん)には遠江(とおとうみ)静岡県(しずおかけん)三方ヶ原(みかたがはら)信長(のぶなが)家康(いえやす)連合(れんごう)(ぐん)をうち(やぶ)り、(いきお)いにのった。が、(きょう)へのぼる(ゆめ)をはたさぬうちに病死(びょうし)。その()10(ねん)たらずのうちに、息子(むすこ)勝頼(かつより)信長(のぶなが)家康(いえやす)連合(れんごう)(ぐん)にやぶれ、武田(たけだ)()(ほろ)んだ。

武田信玄信玄(しんげん)(はた)じるしは「風林火山(ふうりんかざん)」
“はやきこと(かぜ)のごとく、しずなかること林のごとし、侵掠(しんりゃく)すること()のごとく、動かざること(やま)のごとし”
これが信玄の戦い方だった。

上杉(うえすぎ) 謙信(けんしん) (1530~78年)
はじめ長尾(ながお)景虎(かげとら)、のち政虎(まさとら)輝虎(てるとら)()まえをかえた。入道(にゅうどう)して謙信(けんしん)()のった。
 越後(えちご)勢力(せいりょく)()ち、北条(ほうじょう)氏康(うじやす)()われた上杉憲政(うえすぎのりまさ)武田信玄(たけだしんげん)()められた村上(むらかみ)()高梨(たかなし)()らに(たよ)りにされた。
 謙信(けんしん)氏康(うじやす)信玄(しんげん)対抗(たいこう)し、信濃(しなの)関東(かんとう)によく(へい)()している。上杉謙信

毘沙門天(びしゃもんてん)のねっしんな信者(しんじゃ)だった謙信(けんしん)(はた)じるしは「()」の()をそめぬいたもの。
謙信は生涯(しょうがい)結婚(けっこん)せず、質素(しっそ)なくらしをしたとか。

織田(おだ) 信長(のぶなが) (1534~1582年)
 尾張(おわり)愛知県(あいちけん))の()まれ。
 1560(ねん)(きょう)へのぼろうとした駿河(するが)今川(いまがわ)義元(よしもと)桶狭間(おけはざま)にやぶり、実力(じつりょく)(みと)められはじめる。
 1562(ねん)三河(みかわ)徳川(とくがわ)家康(いえやす)同盟(どうめい)尾張国(おわりのくに)統一(とういつ)
 1571(ねん)将軍(しょうぐん)足利(あしかが)義昭(よしあき)追放(ついほう)して、室町(むろまち)幕府(ばくふ)をほろぼす。
 1580(ねん)畿内(きない)近国(きんこく)(きょう)近郊(きんこう))の支配(しはい)(けん)をにぎる。
武田(たけだ)()もほろぼし、全国(ぜんこく)統一(とういつ)に「あと一歩(いっぽ)」のところで、家臣(かしん)明智光秀(あけちみつひで)反逆(はんぎゃく)にあい、1582(ねん)本能寺(ほんのうじ)自殺(じさつ)織田信長

人間(にんげん)五十(ねん)下天(げてん)のうちをくらぶれば(ゆめ)まぼろしのごとくなり。ひとたび(せい)をえて(ほろび)せぬ者のあるべきか」
桶狭間への出陣前に信長が舞ったという「敦盛(あつもり)」だ。

豊臣(とよとみ) 秀吉(ひでよし) (1536~1598年)
豊臣秀吉 尾張(おわり)()まれ。はじめ木下(きのした)藤吉郎(とうきちろう)信長(のぶなが)家臣(かしん)となって、羽柴(はしば)(せい)()のる。
 本能寺(ほんのうじ)(へん)でたおれた信長(のぶなが)のあとをついで
 1585(ねん)には四国(しこく)長宗我部(ちょうそかべ)()
 1587(ねん)には九州(きゅうしゅう)島津(しまづ)()
 1590(ねん)には関東(かんとう)後北条氏(ごほうじょうし)
 各地(かくち)実力者(じつりょくしゃ)たちを次々(つぎつぎ)とたいらげ、天下(てんか)をとった。
 豊臣(とよとみ)(せい)は、1585(ねん)関白(かんぱく)となった(とき)朝廷(ちょうてい)より(ゆる)されたもの。

機転(きてん)のきく秀吉(ひでよし)は、短気(たんき)信長(のぶなが)にも()()られた。

徳川(とくがわ) 家康(いえやす) (1542~1616年)
 三河(みかわ)岡崎(おかざき)城主(じょうしゅ)松平(まつだいら)()長男(ちょうなん)として()まれる。松平(まつだいら)()実力者(じつりょくしゃ)今川氏(いまがわし)織田(おだ)()両側(りょうがわ)からはさまれた(よわ)大名(だいみょう)だった。
 家康(いえやす)は、6(さい)から織田(おだ)信秀(のぶひで)信長(のぶなが)(ちち))、(つぎ)今川(いまがわ)義元(よしもと)人質(ひとじち)としてすごした。
 ひとり()ちができたのは、1560(ねん)桶狭間(おけはざま)(たたか)いで義元(よしもと)戦死(せんし)してからだ。
 1562(ねん)信長(のぶなが)()をむすび、三河(みかわ)平定(へいてい)
 1590(ねん)秀吉(ひでよし)(したが)って後北条氏(ごほうじょうし)()め、関八州(かんはっしゅう)(武蔵・相模・安房・上総・下総・常陸・上野・下野)を(あた)えられ、江戸(えど)居城(きょじょう)にした。
 のち、ここで徳川(とくがわ)幕府(ばくふ)をひらく。 徳川家康

大名(だいみょう)らの(たから)じまんで、「(たから)自分(じぶん)のために水火(すいか)をとわぬ五百(にん)三河(みかわ)武士(ぶし)」といったとか。苦労人(くろうにん)らしいね。

戦国(せんごく)(しろ)

多摩の城

1.二宮城(にのみやじょう)(あきる野市(のし)二宮(にのみや)小川(おがわ)?)←(べつ)場所(ばしょ)にあった、という(せつ)も…
 信濃国(しなののくに)佐久郡(さくぐん)大石郷(おおいしごう)より武蔵(むさし)()大石氏(おおいしし)居城(きょじょう)大石氏(おおいしし)木曽(きそ)義仲(よしなか)子孫(しそん)()のっていた。
 この(しろ)貞和(じょうわ)年間(ねんかん)(1345(ねん)ころ)大石(おおいし)信重(のぶしげ)(きず)いたといわれる。

2.案下城(あんげじょう)八王子市(はちおうじし)下恩方(しもおんがた)
 元中(げんちゅう)年間(ねんかん)(1384(ねん)ころ)、大石(おおいし)信重(のぶしげ)は、二宮城(にのみやじょう)からここへ(うつ)った。
 (てら)()から、浄福寺城(じょうふくじじょう)山号(さんごう)から千手山城(せんじゅさんじょう)地名(ちめい)から案下城(あんげじょう)といろいろな()()()っている。

3.高月城(たかつきじょう)八王子市(はちおうじし)丹木町(たんぎまち)
 大石(おおいし)顕重(あきしげ)(きず)き、1458(ねん)長禄(ちょうろく)2)案下城(あんげじょう)より(うつ)った。
 その()定重(さだしげ)大永(たいえい)年間(ねんかん)(1521~28ころ)滝山城(たきやまじょう)(うつ)った。

4.滝山城(たきやまじょう)八王子市(はちおうじし)丹木町(たんぎまち)
 もとは大石氏(おおいしし)(しろ)だが、定重(さだしげ)()定久(さだひさ)のときに養子(ようし)にむかえた氏照(うじてる)(しろ)になる。
 1552(ねん)天文(てんぶん)12)、上杉謙信(うえすぎけんしん)攻撃(こうげき)をうけ、1569(ねん)永禄(えいろく)12)には、氏照(うじてる)(ぐん)武田信玄(たけだしんげん)勝頼(かつより)(ぐん)との死闘(しとう)舞台(ぶたい)になった(しろ)だ。滝山城(たきやまじょう)落城(らくじょう)寸前(すんぜん)までいったがからくも(たす)かった。

5.勝沼城(かつぬまじょう)青梅市(おうめし)師岡(もろおか)
 平将門(たいらのまさかど)子孫(しそん)()のる三田氏(みたし)(しろ)だった。三田氏(みたし)は「(そま)()」と()ばれた多摩(たま)(がわ)上流(じょうりゅう)一帯(いったい)領土(りょうど)にしていた。「(そま)()」とは山方(やまがた)という意味(いみ)。16世紀(せいき)前半(ぜんはん)三田(みた)弾正(だんじょう)氏宗(うじむね)、その()政定(まささだ)(ころ)(もっと)(さか)んだった。
 1563(ねん)後北条氏(ごほうじょうし)にそむいた三田氏(みたし)(ほろ)ぼされた。
 この(しろ)は、後北条氏(ごほうじょうし)家臣(かしん)師岡(もろおか)山城守(やましろのかみ)将景(まさかげ)()み、甲斐(かい)武田(たけだ)()への(そな)えとなった。

6.辛垣城(からかいじょう)青梅市(おうめし)二俣尾(ふたまたお)
 後北条氏(ごほうじょうし)対立(たいりつ)して圧力(あつりょく)()けた三田氏(みたし)は、勝沼城(かつぬまじょう)から、ここ辛垣城(からかいじょう)(うつ)って()た。(ほろ)んだのは城主(じょうしゅ)三田(みた)綱秀(つなひで)(とき)
 綱秀(つなひで)埼玉県(さいたまけん)岩槻(いわつき)におちのびて自殺(じさつ)した。250年間(ねんかん)(そま)()支配(しはい)してきたのだけれど。

7.楯沢城(たてのさわじょう)青梅市(おうめし)日向(ひなた)和田(わだ)楯沢(たてのさわ)
 三田氏(みたし)勝沼城(かつぬまじょう)にいた時代(じだい)からの出城(でじろ)だった。辛垣城(からかいじょう)攻撃(こうげき)(とき)一緒(いっしょ)(ほろ)んだ。

8.軍畑(いくさばた)青梅市(おうめし)沢井(さわい)
 ここは三田氏(みたし)後北条氏(ごほうじょうし)合戦(かっせん)(じょう)となったところ。このあたりの多摩(たま)(がわ)(たに)(あさ)く、(かわ)(わた)って()()りやすかったそうな。
 滝山城(たきやまじょう)から(すす)んだ氏照(うじてる)(ぐん)と、ここを(まも)らねばと主力(しゅりょく)(あつ)めた三田氏(みたし)(あいだ)大激戦(だいげきせん)となった。

9.檜原城(ひのはらじょう)檜原村(ひのはらむら)本宿(もとじゅく)
 平山(ひらやま)()(きず)き、のち、後北条氏(ごほうじょうし)支配(しはい)する(しろ)になる。八王子(はちおうじ)滝山城(たきやまじょう)五日市(いつかいち)戸倉城(とくらじょう)などとともに、甲斐(かい)武田(たけだ)()への(そな)えの(しろ)
 武田(たけだ)(ぐん)()めて()(とき)狼煙(のろし)をあげ、戸倉(とくら)網代(あじろ)戸吹(とぶき)高月(たかつき)滝山(たきやま)へと連絡(れんらく)ができる。(お(しろ)位置(いち)(ゆび)でたどってごらん。)

10.網代城(あじろじょう)(あきる野市(のし増戸網代(ますどあじろ)
 南北(なんぼく)鎌倉(かまくら)街道(かいどう)東西(とうざい)古甲州(ここうしゅう)街道(かいどう)(まじ)わる重要(じゅうよう)地点(ちてん)。だから後北条氏(ごほうじょうし)時代(じだい)、ここは連絡(れんらく)中継(ちゅうけい)基地(きち)だった。

11.戸倉城(とくらじょう)(あきる野市(のし戸倉(とくら)
 後北条氏(ごほうじょうし)にとって、ここは檜原城(ひのはらじょう)とともに甲斐(かい)武田(たけだ)()への(そな)えの(しろ)だった。
 養子(ようし)氏照(うじてる)滝山城(たきやまじょう)をあけわたした大石定久(おおいしさだひさ)がここに()んだ。

12.廿里(とどり)合戦(かっせん)(じょう)八王子市(はちおうじし)廿里(とどり)(まち)
 1569(ねん)永禄(えいろく)12)、滝山城(たきやまじょう)進軍(しんぐん)した武田(たけだ)(ぐん)と、むかえる氏照(うじてる)(ぐん)激突(げきとつ)した古戦場(こせんじょう)
 ここで小仏峠(こぼとけとうげ)をこえて()武田(たけだ)部将(ぶしょう)小山田(おやまだ)信茂(のぶしげ)氏照(うじてる)重臣(じゅうしん)横地(よこち)監物(けんもつ)中山(なかやま)勘解由(かげゆ)らが(たたか)った。

元亀3年ごろの勢力図 13.小仏(こぼとけ)関所(せきしょ)八王子市(はちおうじし)裏高尾(うらたかお)
 甲斐(かい)相模(さがみ)との(さかい)にある小仏峠(こぼとけとうげ)のあたりは後北条氏(ごほうじょうし)にとって重要(じゅうよう)(まも)りの場所(ばしょ)だった。
 甲斐(かい)から武田(たけだ)()がはいりこめば、ここから八王子城(はちおうじじょう)狼煙(のろし)ですぐ連絡(れんらく)できた。
 はじめは小仏峠(こぼとけとうげ)頂上(ちょうじょう)にあったのを、氏照(うじてる)が1580(ねん)駒木野(こまぎの)にうつし、さらに(いま)関所跡(せきしょあと)のところにうつった。

14.八王子城(はちおうじじょう)八王子市(はちおうじし)元八王子町(もとはちおうじまち)

体験(たいけん)! 八王子城(はちおうじじょう)

八王子城(はちおうじじょう)深沢山(ふかざわやま)標高(ひょうこう)540メートルの自然(しぜん)地形(ちけい)()(くわ)え、いざという(とき)はここにこもって(たたか)えるようにつくられた広大(こうだい)(しろ)だ。
曲輪(くるわ)」とは、()るい、(せき)るい、(ほり)などで区切(くぎ)られた場所(ばしょ)陣地(じんち)屋敷(やしき)()くための(ひら)たい場所(ばしょ)になっている。また、「勢隠(せがく)し」という軍隊(ぐんたい)をかくしておく場所(ばしょ)もつくられているし、「(ほり)()り」といって、(てき)がまっすぐ(すす)めないよう尾根(おね)()(はな)工夫(くふう)もしている。

上空から見た八王子城

滝山城(たきやまじょう)から八王子城(はちおうじじょう)
 後北条氏(ごほうじょうし)勢力(せいりょく)におされた大石定久(おおいしさだひさ)氏康(うじやす)二男(じなん)氏照(うじてる)滝山城(たきやまじょう)にむかえ、あとつぎにした。1546(ねん)のことだ。氏照(うじてる)はさらに滝山城(たきやまじょう)から、八王子城(はちおうじじょう)()()すが、その時期(じき)ははっきりしていない。
1.元亀(げんき)から天正(てんしょう)(はじ)めごろ(1570~73)
2.天正(てんしょう)6(ねん)(1578)前後(ぜんご)
3.天正(てんしょう)10(ねん)(1582)よりあと。落城(らくじょう)(1590)(ちか)くなど、いろいろな(せつ)がある。
 ()()した理由(りゆう)も、永禄(えいろく)12(ねん)(1569)甲斐(かい)武田(たけだ)()()められて、落城(らくじょう)寸前(すんぜん)になった滝山城(たきやまじょう)欠点(けってん)がわかったためとか()われる。しかし、(たし)かなところはわからない。
 八王子(はちおうじ)はそのころから(さか)えていたし、交通(こうつう)(かなめ)でもあった。軍事的(ぐんじてき)重要(じゅうよう)場所(ばしょ)だったから、氏照(うじてる)(はや)くから、(しろ)八王子(はちおうじ)(うつ)そうと(おも)っていたのではないか、という(せつ)もある。

小田原(おだわら)戦争(せんそう)前夜(ぜんや)
 織田(おだ)信長(のぶなが)意志(いし)をついだ豊臣(とよとみ)秀吉(ひでよし)は、西日本(にしにっぽん)征服(せいふく)した。さぁ、(つぎ)東日本(ひがしにっぽん)(ばん)だ! ところが、関東(かんとう)には後北条氏(ごほうじょうし)東北(とうほく)には伊達(だて)()二大(にだい)勢力(せいりょく)がたちふさがっている。
 天正(てんしょう)15(ねん)(1587)、秀吉(ひでよし)は、後北条氏(ごほうじょうし)(たお)すことを決意(けつい)した。天下(てんか)統一(とういつ)のために。
 天正(てんしょう)17(ねん)(1589)11(がつ)24()秀吉(ひでよし)はとうとう(はな)()いをうちきる手紙(てがみ)後北条氏(ごほうじょうし)()している。いよいよ本格的(ほんかくてき)戦闘(せんとう)準備(じゅんび)だ。
 秀吉(ひでよし)動員(どういん)能力(せんりょく)(へい)(うご)かせる(ちから))は58(しゅう) 、1,650 万石(まんごく)で41(まん) 2,000 (にん)
後北条氏(ごほうじょうし)関八州(かんはっしゅう)その()285万石(まんごく)で7(まん) 1,000 (にん)秀吉(ひでよし)はそのうち(やく)15(まん)(にん)小田原城(おだわらじょう)につぎこんだ。八王子城(はちおうじじょう)には1(まん) 5,000 (にん)あまりの軍勢(ぐんぜい)()めこんだが、(まも)(しろ)(がわ)はこれに(たい) してわずか3,000 (にん)

八王子城(はちおうじじょう) 落城(らくじょう)
 天正(てんしょう)18(ねん)(1590)4(がつ)より、秀吉(ひでよし)(ぐん)関東(かんとう)にある後北条氏(ごほうじょうし)(しろ)をつぎつぎとつぶしていった。秀吉(ひでよし)上杉(うえすぎ)景勝(かげかつ)前田(まえだ)利家(としいえ)部隊(ぶたい)八王子城(はちおうじじょう)(そう)攻撃(こうげき)(めい)じる。
 八王子城(はちおうじじょう)は、横地(よこち)監物(けんもつ)中山(なかやま)勘解由(かげゆ)狩野(かのう)一庵(いちあん)近藤助実(こんどうすけざね)金子家重(かねこいえしげ)重臣(じゅうしん)が、小田原(おだわら)本城(ほんじょう)につめた城主(じょうしゅ)氏照(うじてる)留守(るす)をまもっていた。氏照(うじてる)領内(りょうない)には天正(てんしょう)16(ねん)(1588)正月(しょうがつ)には、すでに出動(しゅつどう)の「お()れ」がとんでいる。“15(さい)以上(いじょう)70(さい)までの「(おとこ)たるほどの(もの)」はまかりいでよ。(家臣(かしん)の)妻子(さいし)人質(ひとじち)として八王子城(はちおうじじょう)にはいれ”という内容(ないよう)だった。(さむらい)だけでなく、農民(のうみん)職人(しょくにん)山伏(やまぶし)らもだ。
 天正(てんしょう)18(1590)(ねん)、6(がつ)21(にち)八王子城(はちおうじじょう)(だい)横地(よこち)監物(けんもつ)あてに降伏(こうふく)をすすめる手紙(てがみ)(おく)られてきたが、監物(けんもつ)らは「この(しろ)(あずか)以上(いじょう)は、(しろ)をたてに()()にする覚悟(かくご)だ」と(もう)()をけった。
 かくして6(がつ)23(にち)午前(ごぜん)2()(ごろ)より八王子城(はちおうじじょう)(そう)攻撃(こうげき)開始(かいし)。その()午後(ごご)4()(ごろ)まで、やく14時間(じかん)戦闘(せんとう)で、八王子城(はちおうじじょう)()とされた。重臣(じゅうしん)たちは次々(つぎつぎ)()()に。(しろ)()につつまれ、(おんな)(ひと)()どもたちは自分(じぶん)から(いのち)()っていった。
 ()める(ほう)も、(まも)(ほう)も、(おお)きな犠牲(ぎせい)をはらった(たたか)いだった。
 八王子城(はちおうじじょう)落城(らくじょう)のしらせに、7(がつ)5()小田原城(おだわらじょう)もついに無条件(むじょうけん)降伏(こうふく)。7(がつ)11(にち)には、氏照(うじてる)も、(あに)氏政(うじまさ)とともに切腹(せっぷく)家康(いえやす)(むすめ)結婚(けっこん)していた氏直(うじなお)氏政(うじまさ)())は(いのち)(たす)けられ、高野山(こうやさん)追放(ついほう)されたが早死(はやじに)だった。秀吉(ひでよし)から関八州(かんはっしゅう)(あた)えられた家康(いえやす)は8(がつ)1日(ついたち)江戸(えど)()り。のち、この()徳川(とくがわ)幕府(ばくふ)をひらく。

八王子城(はちおうじじょう)出土品(しゅつどひん)
おはじき((あそ)道具(どうぐ)か?)、中国製(ちゅうごくせい)陶磁器(とうじき)(こめ)(むぎ)(あわ)など食品(しょくひん)()かれ(すみ)のようになったもの。すずり、(ちゃ)うすなどお(ちゃ)道具(どうぐ)
山頂(さんちょう)本丸(ほんまる)(ちか)くでは、まだ使(つか)っていない鉄砲(てっぽう)のたま、()けた(くし)(おんな)(ひと)がここまで()げのびて()たのだろう。)なども()つかった。(ほか)にも(やり)(かたな)・かんざし・(かがみ)などなど。

(たたか)いの道具(どうぐ)(おんな)(ひと)たちがふだんの生活(せいかつ)使(つか)っていたものがまざって()てくるのがよけい(かな)しい()がする。

御主殿(ごしゅでん)(たき)のはなし
 近藤助実(こんどうすけざね)金子家重(かねこいえしげ)らが()ちとられ、つづいて狩野(かのう)一庵(いちあん)()()に。御主殿(ごしゅでん)にいた(おお)くの(おんな)(ひと)()どもたちは()いつめられ、御主殿(ごしゅでん)(たき)()をなげた。(ふち)はその()(あか)()まったという。
いつの時代(じだい)戦争(せんそう)というのはむごい…。

八王子城に行ってみよう!
戦国(せんごく)(しろ)に、舗装(ほそう)されたはば(ひろ)(みち)などない!
(てき)がはいりこみにくいように見渡(みわた)しが(わる)いように工夫(くふう)してある。
また、せまい(みち)を、わざとのぼったり、くだったりさせているんだ。

中の曲輪あたりから見る風景は最高

参考(さんこう)にした(ほん)

八王子城(はちおうじじょう)-みる・きく・あるく-」
八王子市(はちおうじし)()
八王子城(はちおうじじょう)」(八王子市教育委員会)
「わが(まち)歴史(れきし) 八王子(はちおうじ)
多摩(たま)古城址(こじょうし)
多摩(たま)丘陵(きゅうりょう)古城址(こじょうし)
後北条氏(ごほうじょうし)
戦国(せんごく)()わりを()げた(しろ)
武蔵野(むさしの)城館址(じょうかんし)
多摩(たま)のあゆみ」(だい)40(ごう)
角川(かどかわ)日本史(にっぽんし)小辞典(しょうじてん)」…以上(いじょう)2(かい)参考室(さんこうしつ)郷土(きょうど)資料室(しりょうしつ)
学研(がっけん)()かん 日本(にっぽん)歴史(れきし)3」…1(かい)児童(じどう)参考(さんこう)図書(としょ)コーナー
中公文庫(ちゅうこうぶんこ)日本(にっぽん)歴史(れきし)11.戦国(せんごく)大名(だいみょう)
後北条氏(ごほうじょうし)研究(けんきゅう)」…1(かい)大人(おとな)(ほん)のコーナー
その他いろいろ…

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