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としょかんこどもきょうどしりょうNo.15

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小平の新田
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1.小川(おがわ)(むら)
小川(おがわ)(ちょう)1・2丁目(ちょうめ)小川(おがわ)西町(にしまち)小川(おがわ)東町(ひがしちょう)栄町(さかえちょう)、たかの(だい)津田町(つだまち)中島町(なかじまちょう)のあたり。それと、学園(がくえん)西町(にしまち)一部分(いちぶぶん)。)
 (きし)(むら)(いま)武蔵村山市(むさしむらやまし))の小川(おがわ)九郎兵衛(くろべえ)開発(かいはつ)小平(こだいら)最初(さいしょ)開発(かいはつ)された場所(ばしょ)だ。けれど荒野(こうや)のまん(なか)土地(とち)()えていないから、(かい)たくをしようという農民(のうみん)(すく)ない。九郎兵衛(くろべえ)自分(じぶん)財産(ざいさん)をそそいで、ここに(ひと)()みつかせようと(つと)めた。
 また、(みず)()()れることも、ひとつの問題(もんだい)だ。宝永(ほうえい)(がん)(ねん)(1704)、その(とき)名主(なぬし)政右衛門(まさえもん)代官(だいかん)()した手紙(てがみ)事情(じじょう)がしのばれる。
「この()原野(げんや)()(みず)がなく、井戸(いど)()ったが、27〜29m(メートル)()っても(みず)()ないので、開発(かいはつ)()きづまってしまいました。代官(だいかん)(さま)(もう)()げたら、玉川(たまがわ)上水(じょうすい)(みず)()けてくださり、おかげで開発(かいはつ)ができました。」

2.鈴木(すずき)新田(しんでん)
上水(じょうすい)本町(ほんちょう)のほとんどと上水(じょうすい)新町(しんまち)ちょっぴり=(かみ)鈴木(すずき)という
鈴木(すずき)町1・2丁目(ちょうめ)御幸町(みゆきちょう)花小金井(はなこがねい)南町(みなみちょう)1〜3丁目(ちょうめ)あたり、天神町(てんじんちょう)1丁目(ちょうめ)一部分(いちぶぶん)(しも)鈴木(すずき)という)
 貫井(ぬくい)(むら)(いま)小金井市(こがねいし))の名主(なぬし)鈴木(すずき)利左衛門(りざえもん)重広(しげひろ)開発(かいはつ)(ねが)いを()す。資金(しきん)上総国(かずさのくに)万石(まんごく)(むら)(いま)千葉県(ちばけん)君津市(きみつし))の商人(しょうにん)野中屋(のなかや)善左衛門(ぜんざえもん)()した。善左衛門(ぜんざえもん)野中(のなか)新田(しんでん)開発(かいはつ)にかかわる2(ねん)(まえ)享保(きょうほう)6(ねん)(1721)のことだ。鈴木(すずき)新田(しんでん)開発(かいはつ)(ねが)(にん)(なか)に、野中(のなか)新田(しんでん)開発(かいはつ)(ねが)(にん)のひとり、元右衛門(もとえもん)()がはいっている。鈴木(すずき)新田(しんでん)野中(のなか)新田(しんでん)(かか)わりが(ふか)いみたい。
 利左衛門(りざえもん)開発(かいはつ)にとりかかった矢先(やさき)享保(きょうほう)10(ねん)(1725)6(がつ)病死(びょうし)。その()は、息子(むすこ)利左衛門(りざえもん)春昌(はるまさ)()いだ。享保(きょうほう)9(ねん)から11(ねん)までの3年間(ねんかん)、1(ねん)に4(こく)8()5(しょう)(こめ)(おさ)める約束(やくそく)利左衛門(りざえもん)春昌(はるまさ)(まも)りきれなかった。
 そのため、享保(きょうほう)11(ねん)6(がつ)11(にち)に、代官所(だいかんしょ)はこの新田(しんでん)責任者(せきにんしゃ)利左衛門(りざえもん)春昌(はるまさ)から、善左衛門(ぜんざえもん)元右衛門(もとえもん)()えてしまった。鈴木(すずき)新田(しんでん)野中(のなか)新田(しんでん)一部(いちぶ)になってしまったかっこうだけれど、享保(きょうほう)17(ねん)(1732)野中(のなか)新田(しんでん)(むら)()けの(とき)利左衛門(りざえもん)(ふたた)名主(なぬし)となり、鈴木(すずき)新田(しんでん)独立(どくりつ)
 ここには(すく)しばかり水田(すいでん)もあった。長久保(ながくぼ)(いま)花小金井(はなこがねい)(みなみ)3丁目(ちょうめ)あたり)の(ひく)湿地(しっち)享保(きょうほう)19(ねん)(1734)玉川(たまがわ)上水(じょうすい)から(みず)()いてつくったのだ。

3.小川(おがわ)新田(しんでん)
仲町(なかまち)学園(がくえん)東町(ひがしちょう)喜平町(きへいちょう)上水(じょうすい)新町(しんまち)のあたり。それと学園(がくえん)西町(にしまち)上水(じょうすい)本町(ほんちょう)一部分(いちぶぶん)。)
 小川(おがわ)(むら)では(はや)くから、(ひがし)()(つづ)きを開発(かいはつ)したいと(おも)っていた。享保(きょうほう)7(ねん)(1722)9(がつ)小川(おがわ)(むら)名主(なぬし)市郎兵衛(いちろべえ)とその()弥市(やいち)神明宮(しんめいぐう)神主(かんぬし)宮崎(みやざき)主馬(しゅめ)が「一本(いっぽん)(えのき)」のところまで開発(かいはつ)(ねが)()て、享保(きょうほう)9(ねん)(1724)5(がつ)(ゆる)された。
 この()(つづ)きの開発(かいはつ)()は「小川(おがわ)新田(しんでん)」と()づけられ、それまでの小川(おがわ)新田(しんでん)は「小川(おがわ)(むら)」と()ぶことにした。
 最初(さいしょ)小川(おがわ)(むら)小川(おがわ)新田(しんでん)()ばれていたんだね。

4.野中(のなか)新田(しんでん)
(◎善左衛門(ぜんざえもん)(ぐみ) 上水(じょうすい)南町(みなみちょう)…ここを(ほり)野中(のなか)という、花小金井(はなこがねい)6丁目(ちょうめ)全部(ぜんぶ)鈴木(すずき)(ちょう)1丁目(ちょうめ)天神町(てんじんちょう)1・2丁目(ちょうめ)御幸町(みゆきちょう)のそれぞれ一部分(いちぶぶん)などがはいる。)
(◎与右衛門(よえもん)(ぐみ) 花小金井(はなこがねい)1〜5丁目(ちょうめ)花小金井(はなこがねい)南町(みなみちょう)3丁目(ちょうめ)のあたりと天神町(てんじんちょう)2丁目(ちょうめ)大沼町(おおぬまちょう)1丁目(ちょうめ)一部分(いちぶぶん)
六左衛門(ろくざえもん)(ぐみ)榎戸(えのきど)新田(しんでん)
国分寺市(こくぶんじし)北町(きたまち)並木町(なみきちょう)新町(しんまち)高木町(たかぎちょう)戸倉(とくら)東戸倉(ひがしとくら)富士本(ふじもと)日吉町(ひよしちょう)光町(ひかりちょう)のあたりで、おたがいこんなふうに()りくんでいた。
まためまい?
 上谷保(かみやほ)(むら)(いま)国立市(くにたちし))の農民(のうみん)矢沢(やざわ)藤八(とうはち)円成院(えんじょういん)住職(じゅうしょく)大堅(たいけん)開発(かいはつ)計画(けいかく)野中屋(のなかや)善左衛門(ぜんざえもん)資金(しきん)()すよう(たの)んで、そのかわり、「矢沢(やざわ)新田(しんでん)」と()づける予定(よてい)を「野中(のなか)新田(しんでん)」にかえた。
 この新田(しんでん)面積(めんせき)(ひら)すぎて、まとまりも(わる)く、年貢(ねんぐ)(あつ)めるにも不便(ふべん)だった。そこで、享保(きょうほう)17(ねん)(1732)10(がつ)(きた)野中(のなか)(とおり)野中(のなか)(みなみ)野中(のなか)の3(くみ)()けられ、名主(なぬし)もそれぞれ与右衛門(よえもん)善左衛門(ぜんざえもん)六左衛門(ろくざえもん)がなった。
 この新田(しんでん)のおもしろいところは、名主(なぬし)が3(にん)とも農民(のうみん)ではなく、江戸(えど)町人(ちょうにん)であるところ。開発(かいはつ)のはじめ、仲間(なかま)であった藤八(とうはち)元右衛門(もとえもん)ら、上谷保(かみやほ)(むら)農民(のうみん)半分(はんぶん)は、享保(きょうほう)11(ねん)(1926)までには、土地(とち)手放(てばな)してしりぞいてしまっている。
 (みなみ)野中(のなか)六左衛門(ろくざえもん)(ぐみ)は、(いま)国分寺市(こくぶんじし)にはいっている。
 (おな)じく、国分寺市(こくぶんじし)榎戸(えのきど)新田(しんでん)も、享保(きょうほう)10(ねん)(1725)に、(はじ)(みなみ)野中(のなか)新田(しんでん)農民(のうみん)として()()らねている角左衛門(かくざえもん)という(ひと)(ひら)いたもの。
 だから、野中(のなか)新田(しんでん)範囲(はんい)って、本当(ほんとう)(ひら)かった!

5.大沼田(おんた/おおぬまた)新田(しんでん)
大沼町(おおぬまちょう)1・2丁目(ちょうめ)美園町(みそのちょう)のあたり。)
 大岱(おんた)(むら)(いま)東村山市(ひがしむらやまし))の名主(なぬし)当麻(たいま)弥左衛門(やざえもん)開発(かいはつ)大岱(おんた)(むら)は「大沼田」とも「大怒田」とも()いたので、新田(しんでん)()も「大沼田新田(しんでん)」とつけられたという。
 寛保(かんぽ)(がん)(ねん)(1741)、この新田(しんでん)に、川崎(かわさき)平右衛門(へいえもん)()(みず)(よう)などに2つの井戸(いど)(つく)り、生活(せいかつ)使(つか)(みず)をととのえてくれた。
 また()(みず)(のこ)りを利用(りよう)して、(なん)(しょ)かのくぼ()に1600(つぼ)くらいの水田(すいでん)もつくられた。
「おんた」と()ばれていたのか「おおぬまた」と()ばれていたのかちょっとわからない。(いま)()(かた)だと「おおぬまた」だけど(おや)(むら)のよみの「おんた」に「大沼田」という()をあてていたのかもしれないからね。

6.(めぐ)()新田(しんでん)
回田町(めぐりたちょう)あたり。それに鈴木(すずき)(ちょう)1丁目(ちょうめ)ちょっぴり)
 この新田(しんでん)(めぐ)()(むら)(いま)東村山市(ひがしむらやまし))が草刈(くさか)()として野中(のなか)新田(しんでん)から土地(とち)()ったのがはじまり。だから、(ほか)新田(しんでん)とでき(かた)がちょっと(ちが)う。まわりがどんどん武蔵野(むさしの)新田(しんでん)として開発(かいはつ)され、農業(のうぎょう)()かせない「たい()」を(つく)るための(くさ)()場所(ばしょ)(すく)なくなってきたから、土地(とち)確保(かくほ)したかったんだ。だから元文(げんぶん)(がん)(ねん)(1736)の検地(けんち)のとき、農民(のうみん)(だれ)もここに()みついていなかった。川崎(かわさき)平右衛門(へいえもん)は、「ここに()みついて、農業(のうぎょう)をするように」と(きび)しく(もう)しつけ、宝暦(ほうれき)5(ねん)(1755)くらいには、新田(しんでん)(むら)らしくなったらしい。

どういう意味?ちょっと説明

御伝馬継(ごてんまつぎ)
 伝馬(てんま)は、宿(しゅく)(えき)(あいだ)往復(おうふく)して荷物(にもつ)などを(はこ)(うま)のこと。
 伝馬(てんま)制度(せいど)古代(こだい)からある。家康(いえやす)がこの制度(せいど)をしいたのは慶長(けいちょう)6(ねん)(1601)。東海道(とうかいどう)がはじまりだった。街道(かいどう)宿(しゅく)()をつくり、宿(しゅく)ごとに(うま)()き、もっぱら幕府(ばくふ)用事(ようじ)使(つか)った。
 中山道(なかせんどう)甲州(こうしゅう)街道(かいどう)とほかの街道(かいどう)もつぎつぎと伝馬(てんま)施設(しせつ)がつくられていった。幕府(ばくふ)のご(よう)となれば、(ひる)(よる)もなく、(とな)りの宿(しゅく)まで(うま)(はし)らせなければならない。実際(じっさい)にこの仕事(しごと)負担(ふたん)する(ひと)たちは大変(たいへん)だったろう。
 小川(おがわ)(むら)江戸(えど)石灰(せっかい)(はこ)ぶための宿(しゅく)でもあったから、農民(のうみん)たちは、(かい)たくのかたわら(うま)世話(せわ)をしたり、交代(こうたい)石灰(せっかい)(はこ)んだりしていたのだ。

高札 高札(こうさつ)
 法律(ほうりつ)命令(めいれい)をみんなに()らせるための()(ふだ)のこと。
 これも古代(こだい)からあったらしいけど、江戸(えど)幕府(ばくふ)はこの方法(ほうほう)をよく使(つか)った。
 名主(なぬし)(いえ)(まえ)などの目立(めだ)場所(ばしょ)にたてられていた。

検地(けんち)
 この言葉(ことば)戦国(せんごく)時代(じだい)から使(つか)われている。領主(りょうしゅ)が、自分(じぶん)領地(りょうち)がどのくらあるか()るためにする調査(ちょうさ)のことだ。
 農民(のうみん)(たがや)田畑(たはた)や、屋敷地(やしきち)面積(めんせき)をはかり、この(ひら)さならどれくらい収穫(しゅうかく)があるはずかを計算(けいさん)する。
 全国(ぜんこく)、ほぼ(おな)基準(きじゅん)でおこなった秀吉(ひでよし)太閤(たいこう)検地(けんち)有名(ゆうめい)江戸(えど)幕府(ばくふ)もはじめ、このやり(かた)をまねた。
 これによって年貢(ねんぐ)()まるのだから、農民(のうみん)にとっては大事(だいじ)なのだ。

代官(だいかん)
 もともとは主君(しゅくん)のかわりにある(やく)(つと)めをおこなう(ひと)をこう()んだ。江戸(えど)時代(じだい)には代官(だいかん)制度(せいど)がきちんと(ととの)えられて、幕府(ばくふ)(はん)直接(ちょくせつ)支配(しはい)する土地(とち)管理(かんり)する地方(ちほう)役人(やくにん)()()になった。年貢(ねんぐ)をあつめたり、裁判所(さいばんしょ)のような役目(やくめ)をしたりした。
大変だよね