

日本はこのころ戦争一色。学校でだって戦うための体力づくり。
男子は木刀、女子はなぎなたのくんれんをした。
学校の学芸会では出しものは戦争ものばっかり。
女の子は軍歌のおどりをしたり。
(一小記念誌「協同」、二小記念誌「文〓」、三小記念誌「桜蔭」より)
国民学校高等科(今の中学生)の生徒たちは、動員で中島飛行機製作所や陸軍経理学校に働きに行った。

年下の子どもたちは、兵隊にとられて男手の足りない農家に手伝いに行ったり。
あちこちの家で、兵隊さんの毛皮にするため、ウサギを飼っていたから、エサにする草を刈ったり。
学校でも空き地にサツマイモをうえたり。
桑の木の皮むきもした。(このせんいで洋服を作るのだ。)
ナラ、クヌギ、カシの実ひろいもした。
干して粉にして食用にするんだ。
松根油をとるため、松の木の根っ子もほった。飛行機の燃料にするために。
それでも小平は食糧事情とか空襲とかについて、区部よりまだましだったかもしれない。
食糧難は戦後もひどかった。お弁当をもってこれない子だっていたんだ。
防空ずきん(防災ずきんに似ている)を毎日せなかにしょって通学した。いつ空襲があるかわからないもん!
学校で防空ごう掘りをした。防空ひなん訓練は毎日のようにした。

警戒警報(空襲があるぞというしらせ)がひびけば学校から家に帰る。
朝も10時までに警戒警報がとけなければ、その日学校はお休み。大きな子たちは動員どかもあったしね。
えんぴつもノートももっとほしかった!
小平に疎開していた子どもたち
どこの区の学童がどの地域に疎開するかは、わりあてになっていて、北多摩には赤坂の子どもたちが来ていた。
小平にも、今の新小平駅ちかくの大きな農家3軒に東京女子高等師範学校(今のお茶の水大学)付属国民学校の生徒たちが身をよせた。
親は「東京にいればみんな死ぬ。子どもだけは助けたい」と送り出した。親もとをはなれ、きびしい条件のもとで「おなかが減ってつらい、身投げがしたい」とハガキに書いた子だっていたんだよ。
(お茶の水学童疎開の会「里にうつりて」より)
お寺が集団疎開の学寮になる場合が多かったようだ。でも、あんまり記録がのこってない…。ほかに、どんな学校が小平に来ていたかわかったら、中央図書館に教えてね!
小平に空襲
1945(昭和20)年4月2日
☆162発の時限爆弾投下(2時20分〜3時30分)
おちて30分後くらいから、7時30分までの間につぎつぎと爆発。
全部こわれた家 13戸
半分こわれた家 5戸
☆この日、西武鉄道 花小金井駅〜小平の間の線路がこわされる。
焼夷弾で昭和病院あたりの家が5軒もやけたことがあるんだそうだ。
同年4月19日 10時10分
☆鈴木新田、範多範三郎氏の家が全焼。
本名=ハンス・ハンター。イギリス人の父と日本人の母をもつ実業家。昭和12〜3年、戦争を予知し、余世を送るため、小平(今の小金井カントリークラブ北側)に1万6、000坪の農園をつくった。財をつぎこんだ母屋は空襲をうけ、一瞬のうちに炎につつまれた。
同年4月24日
☆玉川上水路、小平分水取入口ふきんに爆弾投下。全部こわれた家 3戸。
同年5月25日
☆24、25日 深夜、東京は山の手と焼けのこった地域全てが空襲をうけている。
北多摩の空襲による被害
死亡 1、002人
重傷者 393人
軽傷者 247人 など
被害を受けた人の合計 25、277人
おまけ話
・戦争中投下されて爆発しなかった爆弾(不発弾)が戦後も残っていた。昭和47年12月14日には大沼町1丁目でこれをとりのぞく作業をしている。不発弾は小川町2丁目にもあったらしい。(処理はすんでる。もちろん。)
・上水南町の大仙寺は台東区浅草にあったんだけど、空襲で焼けてしまって、昭和23年5月、小平にひっこしてきたんだよ。知ってた?